2024/1/8  武士道野球の一端 守山恒太郎(もりやまつねたろう)1880~1912 
黄金時代を迎えた一高でしたが、1899年(明治32)、春に二高(現東北大学教育学部)に破れ、秋には青山学院に2度も破れています。この危機を救うべく活躍したのが守山恒太郎でした。守山は、制球難を克服するために、チーム練習の終わった後に校舎のレンガの壁に向かって来る日も来る日もピッチング練習をしました。
そして、幾度となく受けたレンガの一枚が砕け、穴が空いてしまったのでした。その横には「守山先輩苦心之蹟」と残されていました。また、投げまくった守山の左腕は曲がってしまい伸びなくなってしまします。そこで、横に延びた桜の枝に左腕でぶら下がって腕を伸ばし、更に投球練習を続けたそうです。そして、1902年(明治35)、横浜外国人チームとの試合では、快速球と変化球で4対0と一高が勝つのでした。


明治30年頃青井投手

2024/1/1    武士道野球の一端  青井鉞男(あおいよきお)1872~1937
一高時代はインブリー事件のあった1890(明治23)年から、早稲田と慶応が一高に勝利した1904(明治 37)年までとされています。1890年5月のインブリー事件を目撃した正岡子規は既に選手ではなく、1890年3月にキャッチャーとして出場した第4回「ボール大会」が最後だったとされています。インブリー事件を機に、一高は野球を単なる遊びではなく、「校技」として捉えることによって野球に劇的な変化をもたらします。試合では全校応援がなされ、それに応えるべく、部員は猛練習に明け暮れるのでした。その美談として語られるのが青木鉞男であり守山恒太郎でした。
青木鉞男(1872~1937)について野球殿堂博物館には、「第一高等学校野球部投手として初めて外国人チームに勝ち、よく後進を指導した。初めて野球規則を邦訳し、野球近代化の途を開いた」と紹介されています。
・1896年(明治29)5月23日、横浜の外国人居留地運動場で横浜アマチュアクラブ(外国人チーム)との試合で青木は投手として活躍します。国内敵無しの一高は、外国人チームに試合を申し込みましたが拒否。その5年後にやっと試合にこぎ着けたのでした。当日の試合では、外国人チームは皆グローブを使用していたのに対して、一高はキャッチャー以外は素手でした。試合では、青井は1回に4失点したのですが、2回を追うごとに力を発揮し、結果は29対4で大勝しました。一高が米国人チームに勝利したことは、当時の新聞各紙で大きく報じられました。
・横浜アマチュアクラブは再試合を一高側に申し入れ、1897年(明治30)6月5日、第2戦が行われました。この試合も、一高が32対9で大勝し、連勝を飾ることとなりました。
・右は1897年(明治30)の青木鉞男の写真であす。地下足袋を履き、グローブはない素手、四角で区切られたピッチャーボックスから投げるようになっていました。また、キャッチャーも今の野手のように、中腰で構えバッターから遠い位置で構えています。これは、ワンバウンドのボールを捕球していたためでした。
・青井に関連するエピソードとして、ベースボールを野球と訳した中馬庚(ちゅうまんかのえ)とのやり取りが残されています。中馬が青木に対して、「青井、良い訳を見つけたぞ。ーBall in the field-野球はどうだ。」と問うたことからベースボールの訳語「野球」が決まったとされています。


2023/11/25  一高野球の象徴 インブリー事件
1890年(明治23年)5月、一高は、明治学院(当時は波羅大学) から挑戦状を受け、試合を一高のグラウンドで行うことになります。この頃は向かうところ敵なしという一高でしたが、明治学院もアメリカ人教師に指導を受けた強いチームであり、試合も6回までに明治学院が6点をリードしていて一高が負けていました。そのような時、応援をするために明治学院のインブリー(雇い外国人教師)は試合開始時間に遅れて到着します。グラウンドの正門が閉ざされていたため、明治学院の関係者であることを伝えて中に入れるよう求めたのですが、英語を理解できない守衛に断られました。そこで、正門から入るのを諦めて垣根を越えてグラウンドに入ると、これを見咎めた一高柔道部員(応援団とも)が憤慨してインブリーを取り囲んだのです。一高生にとって、グラウンドは人間を磨きあげるための聖域であり、垣根は単なる垣根ではなく、世間と区別するための魂のこもった垣根であったのでした。しかし、インブリーにしてみれば、それを理解できりる訳がありません。試合もリードされていて、いらいらしていたのでしょう。アメリカ人が垣根を乗り越える様子を見て怒った学生の一人が石を投げると(ペンナイフで刺すとか、石を持って殴りつけたという説もある)、インブリーに当たり、顔から血が噴き出て重傷を負いました。明治学院の学生も駆けつけ、今度は学生同士の小競り合いとなって現場は騒然となりました。丁度一高の応援席には正岡子規が観戦しており、日記にこの事件の様子を書き残しています。
十八日学校と明治学院とのベースボール・マッチありと聞きて往きて観る。第四イニングの終りに学校は巳二十余程まけたり。其まけかた見苦しき至り也。折柄明治学院の教師、インブリー氏学校の垣をこえて入り来りしかば、校生大に怒り之を打擲し負傷せしめたり。明治学院のチャンピオンにも負傷ありければマッチは中止となりたり。(著書『筆まかせ』第三のまき)
その後、騒ぎは収まりましたが、試合はすぐに中止になってしまいました。世間は一高の行いに非難が集中し、新聞にも一高を批判する記事が載るほどでした。インブリーに対しての傷害事件が一時外交問題に発展しそうになったのですが、インブリーの大人の計らいで事件は収まりました。試合は中止になったのですが、そのままでは一高の負ける公算が多かったる試合でした。一高生にとっては屈辱の試合だったようです。自分達の力の無さを認め、猛練習に励むようになります。そして、半年後の11月、明治学院との再試合では、26対2という大差で一高が勝利します。その後一高は黄金期を迎えるのでした。


2023/12/18  ベースボールから武士道野球へ
10月のNKHK番組「視点論点」では「”髪形多様化”甲子園 新たな時代へ(清水諭/筑波大)」という内容の放送がありました。そこには1962年に放映されたNHK番組「現代の記録~9人と群衆~」という野球映像が流されていました。神棚のある道場のような所に野球部員が正座をして監督の話を聞いています。壁に掲げられた道場訓には、「・規律と礼儀を正しくせよ・清潔・整頓・練習中は日本一下手と思ひ試合には日本一上手と思ってやれ・厳しい練習から優勝が生まれることを銘ぜよ」と言った精神修行とも言える文言が並んでいました。映像では「野球は球道として受け止められ、練習場は神聖な道場とみなされていました。武道は遊戯を楽しむことをを極度に否定する。技術の練磨と同時に、或いはそれ以上に精神の鍛錬を要求する。」と解説されています。武士道野球がよく分かる映像でした。武道としてベースボールが捉えられ、忍耐という修業的要素が加えられ野球が完成されます。監督コーチからの一方的な指示に従順に従うという集団スポーツに変わって行くのでした。これが現在も続く勝利至上主義、暴力・体罰が絶えない部活問題へとつながって行くのです。
1846年にカートライトによって成文化されたベースボールは、南北戦争(1861年~65年)を通じてアメリカ全土に伝わって行きます。それは、社交・親睦を目的としたベースボールであり、ベースボールそのものを楽しむと同時に対戦チームとの親睦を楽しみしていたのです。その様式はウィルソンにより明治初期に紹介され(1872年・M5)、開成高校の学生と横浜居留民(外国人)が試合をしていた時期(1876年・M9)、平岡凞がアメリカから帰国し、新橋アスレチック倶楽部をつくる時期(1878年・M11)を経て、正岡子規が活躍した一高(東京大学)時代へと続きます。アメリカから輸入されたベースボールは社交・親睦を目的としていたはずですが、それが一高全盛の時期(1904年からは早慶の時代)、僅か約30年ほどの間に武士道精神が加わった野球へと変質していったのでした。


2023/12/11  ストライクの話
これは和歌山支部ニュースに森田さんが書かれていた内容です。ベースボールでは、アンパイアの発する「ボール」「ストライク」「アウト」のコールによって試合が進行して行きますが、「ストライク」とは「打つ」と言う意味です。アンパイヤは誰に対して「打て」と言っているのかというと、当然バッターに対してなのですが、今のアンパイアはそのような気持ちでコールしているとは考えられません。
ベースボール誕生 (1845年)の頃は、「ストライク」 コールは行われていませんでした。カートライトが作った最初のルール (20条)の第11条には「三球を空振りした打者はアウトになる」旨が書かれていますが、コールについては何も書かれていませんでした。なぜなら、コールをしなくても三球空振りは、見ていたら誰でもわかるからです。当時のピッチャーの役割は、打者から三振をとったりするのではなく、とにかく打ってもらうことが大きな仕事でした。打ってもらって、走者をアウトにしようと野手が活躍します。走者対投手ではなく、走者対野手のゲーム様相でした。打者も打ちやすいボールが来るまで待って、良い球が来たら打ったら良いのです。
しかし、ベースボールが広まっていくにつれ、対外試合も多く行われるようになり、親睦のゲームから勝敗をより意識したゲームへと変化していきました。打者も打ちやすい球がきたら打つのが常識ですが、どうせ打つなら大きな一本を打とうと考えて、大好きな球が来るまで何球も見逃すという事態も生じてきました。何球見逃してもアウトにはならなかったためです。それを見ていたアンパイアは、ついに、“good ball, strike!”(いい球だ、打て!)とコールしました。「見逃しストライク」コールの出現です。その後、 “good ball, strike !” の前半部分である ”good ball“ が省略されて、現在コールされている” strike!” (ストライク)になりました。
・「いい球だ、打ちなさい! (バットを振りなさい)!」 (1858年)
・ストライクが「肩から膝の上」(1885年)
・「ストライク3つでアウトになる(三振)」(1888年)
なかなか打たないバッターに対して、アンパイアはしびれを切らしたのでしょうか。「いい球だから!早く打ちなさい!」とバッターに対してコールしました。この社交・親睦のベースボールが明治の初め(1872年)に日本に紹介されるのですが、社交・親睦は少しずつ影を潜め、一高(東京大学)で厳しい鍛錬によって勝敗を目指す武士道野球へと変質していくのでした。


2023/12/4  初めてのベースボールゲーム(1846年)
1846年6月19日、ニュージャージー州ホーボーケンのエリジアン・フィールドで、ニッカーボッカークラブとニューヨークナインとの間で、カートライトによる新しいルールでの初めての試合が行われました。試合の結果は、4回1対23でニューヨークナインの圧勝となります。その試合の様子を描いたものが下の絵だとされることもあるようですが、それは違っています。この絵は1866年にエリシアン・フィールズで行われたミューチュアル・クラブ対アトランティック・クラブの試合を描いたリトグラフ(版画)であり、最初の試合から20年ほど経過しています。この時は既に9イニング制が導入されています(1857年)。ベースボールの始まりは、前回にも述べたように社交・親睦を目的としており、のんびりとかゆっくりといった言葉が似つかわしい遊びでした。さて、1846年の初の試合のルールは以下のようになります。
フィールド/菱形にして、ホームベースに鉄のプレート、3塁には砂を入れたカンバス地の袋を置く。塁間は42ペイス(23mと推定)
人数/9人制(初めは11人だったのがなぜ9人になったのかはっきりしたことはわかっていない。1864年ことに9人制になったようだ。1866年の絵の中のプレイヤー人数も9人となっています。)
アウト/・3球を空振り・ノーバウンドまたはワンバウンドで捕球されたとき・打球が捕球され、走者より先に塁に送られるか、走者が塁に着くより先にボールでタッチされたとき(それまでは、バッターが打って走ると、走者にボールを投げ当ててアウトとしていた。)・捕球しようとする相手の邪魔したとき・3アウトで攻守が交代。
ファウル/一塁と三塁の外側に出た打球はファウル
9ボール/バッターは9ボールで1塁に進む
勝利の条件/21点先取制
服装/ニッカーボッカーチームは、白いフランネルシャツに、青のウール入りパンタロン、麦わら帽をかぶり、チームロゴ入りの太目のベルトをしていた。
アンパイヤー/モーニングのような長めのジャケットを羽織り、シルクハットを被っていた。


2023/11/27   ニッカーボッカー・ルール (1845年9月23日)
1845年9月23日、初のベースボール「ニッカーボッカー・ルール」がカートライトの考案で出来上がります。そのルールは現在のそれとは異なっています。20条からなるルールの始まりは、第1条「メンバーは決められた時間通りに集合すること」となっています。ゲームの具体的なルールよりも先に書かれていると言うことは、当時のベースボールは、大体の時間にぞろぞろとメンバーがやって来て、集まった者からやっていたのでしょう。集合時間を決めないと始まらないという、大変のどかなものであったことが想像されます。また、第3条までは、会長は審判を選ぶことやキャプテンがメンバーを選ぶことが書かれてあります。4条からは具体的なベースボールのルールです。4条は塁間の距離について書かれていますが42歩というのも面白いです。本塁から1、3塁と2塁は等距離なので、内野は正方形ではなく菱形だったようです。また、メンバーが足りないときや、遅れてきたメンバーに対してどうするのかという決まりも書かれてあって、(6、7条)もちろん、21点先取制(8条)、ピッチャーはアンダースローで、バッターの要求通りに投げます。(9条)、その他、ワンバウンドでアウト(12条)、3アウトで攻守交代(15条)、ファウルのこと(10条、18条)などがあります。右の写真には椅子に座ったアンパイアの姿が見られ、ぬるくてほのぼのとしたベースボールのプレイ場面が思い浮かびます。未だパワハラが絶えない野球指導者に、本来はこういうものがベースボールだったのだと伝えたい気持ちになります。


2023/11/20   21点先取制から9回制へ(1857年)             
1842年にタウンボールを楽しむ社交クラブとしてニッカーボッカー・ベースボールクラブが設立されました。クラブは会員制で、プレーの際にはユニフォームも着用し、試合後は対戦したチーム同士が食事を取るなどもしていたようです。そのクラブの中心的な指導者が、後に“野球の父”と呼ばれるアレキサンダー・カートライトでした。ニューヨーク市の消防団員だった彼は、初めてルールを成文化しました (ピッチャーはアンダーハンドスロー、ワンバウンド捕球でアウト、9人制、塁間90フィート等)。そのルール第8条に「試合は21点で成立する。但し、試合終了時に両チームのアウト数は同じであること。」という条文がありました。当初は、9回制ではなかったのです。1846年6月19日、ニッカーボッカークラブとニューヨーククラブとの間で、この新しいルールによる初めての試合が行われました(現在でもアメリカではこの6月19日を「ベースボールの日」としています)。試合ではカートライトが審判をつとめました。結果は、4回、23対1で、ニューヨーククラブが勝っています。19世紀当時は試合の後に親睦会がありました。試合後に相手チームを食事に招き、交流を深め合うのが習慣になっていたようです。チームにはお抱え料理人がいて、料理人は親睦会に向けて料理を作らなければなりません。しかし、21点先取ルールではいつ試合が終わるかわからないため料理を出すタイミングに困っていました。それで、「試合の終了時間が予想できるようなルールにしてほしい」とシェフがカートライトに相談した所、試合を回数(イニング)で区切ることを思いつき、9回までに得点数の多いチームが勝ちというルールに変更したのでした。それが1857年なので、15年間は21点制で試合が行われていたことになります。社交・親睦のパーティーが重視され、それを含めたものがベースボールの様式だったと言えます。


2023/11/13  社交・親睦のベースボール
1876年(明治9)東京開成高校と横浜居留民(外国人チーム)が対戦します。開成高校のベースボールチームには、レギュラー9人の他に、大久保利通の子息、木戸孝允の甥もいました。対する外国人チームは、外交官や雇い教師で構成されており、センターなしの一名足りない8名だったようです。この中には、ホーレスウィルソンもいて、3番レフトで出場しています。試合は、3回裏に開成学校が6点を入れて逆転するのですが、実力差は大きく、11対34で外国人チームが勝利しています。これだけの大量スコアになるのは、バッターは下手投げの希望通りに投げるピッチャーのボールを打っていたためです。当時は既に21点先取制から9回制になったルールで試合が行われていますが、スコアを見ると、7回で終わっています。その理由は、横浜から来ているメンバーが汽車に乗り遅れないためということになっていますが、横浜から来た選手を歓迎するパーティーのために早く切り上げたという説もあります。この説が正しいのであれば、ベースボールが輸入された際、プレイ場面だけでなく、ゲームの後に行われるパーティーを含めたものがベースボールの様式であり、明治初頭はまだ、社交・親睦を重んじるベースボールであったと推し量ることが出来ます。外国人チームとの試合は、この試合を含め5試合行われています。その後、アメリカから帰国した平岡凞が新橋アスレチック倶楽部をつくり、日本人チーム同士の試合へと繋がって行きます。そして、再度アメリカ人チームと試合を行うのは、初めての試合から20年後の1896年(明治29)でした。その野球というのは、一高(東京大学)で武士道神と結びついた野球でした。既に社交・親睦を深めるベースボールはなりを潜め、勝つことが全ての野球へと変質して行ったのです。


2023/11/6      日本に伝わった明治のベースボール
・ホーレスウィルソンが開成高校に来て野球を伝える。(1872年・M5)
・開成高校の学生と横浜居留民(外国人)が試合をする。(1876年・M9)
・平岡凞がアメリカから帰国し、新橋アスレチック倶楽部をつくる。(1878年・M11)
・正岡子規が活躍した一高が全盛の時代、イムブリー事件(1890年・M23)
・早稲田、慶応が一高に勝利し、早慶時代へ(1904年・M37)
・中学野球大会(高校野球・夏)の始まり(1915年・T4)
・選抜中等学校野球大会(高校野球・春)の始まり。甲子園球場完成(1924年・T13)
・アメリカ大リーグを招待。ベーブルース来日、プロ野球チーム巨人軍の設立。(1934年・S9)
・プロリーグの発足(1935年・S10)
明治の初頭にホーレスウィルソンによって伝えられたベースボールは、学生を中心に広がります。この頃、本場アメリカでもルール改正が行われ、それをすぐに取り入れるという時期でもありました。。正岡子規もベースボールに興じた一人ですが、子規の行ったベースボールは現在のルールとは随分違っています。
・ピッチャーはボールをアンダーハンドで投げた。
・ピッチャーはピッチャーボックス(ピッチャープレートではない)の中から投げた。
・バッターはハイボールとかローボールとか自分の好きなストライクゾーンを要求できた。
・ワンバウンド捕球すれば、バッターはアウトになる。
・グローブはなく素手、キャッチャーはワンバウンドでボールを捕球した。
・ボール9球でバッター一塁に進む。
当時のピッチャーの役割は、打者から三振をとることではなく、打ってもらうためにバッターの希望通りの球を投げることでした。野手は打ったボールを取って、バッター(走者)をアウトにしようと活躍します。ピッチャー対バッターの対決ではなく、野手対バッター(走者)のゲームだったようです。1876年(M9)の開成高校と横浜居留民(外国人)の試合は、11対34で外国人チームが勝っています。これだけの大量スコアになるのは、バッターは下手投げで希望通りのボールを打っていたからであり、試合も大変長い時間を要していたと考えられます。


2023/10/30   日本にベースボールを伝えたホーレス・ウィルソン
ベースボールを初めて日本に伝えたのはホーレス・ウィルソンというアメリカ人でした。欧米の文化を少しでも早く取り入れようとする明治政府は、多くの外国人教師を招いています。ホーレス・ウィルソンもその一人であり、東京開成学校(東大の前身)に雇い外国人として赴任しました。学生に英語を教える傍らベースボールを学生と一緒に行ったのでした。ホーレス・ウィルソンは南北戦争(1861~1865年に起こった米国の内戦)に参戦し、その時にベースボールを知ったようです。戦争の傍ら兵士達はベースボールに興じ、戦争が終わると、それぞれの地方に戻り行うことで、ベースボールが全土に広がって行ったようです。戦争によってベースボールがアメリカに定着する契機となったというのは興味深いです。日本にベースボール伝わったのが1872年(明治5)にとされ、それを記念するモニュメントが東京神田区錦町にある学士会館(旧帝大卒業生の交流を目的として造られたもの)の敷地内にあります。ホーレス・ウィルソンの野球殿堂入りを記念して2003(平成15)年に建立されました。野球のボールを握った手の記念碑はブロンズ製で、高さ2.37メートル、正面には「日本野球発祥の地」と書かれています。ボールには世界地図が描かれ、日本とアメリカをボールの縫い目が繋ぐことで、“野球の国際化”を表現しています。ホーレス・ウィルソンは1872(明治5)年から6年間日本に滞在し、生徒達に野球を教えることで、一高から野球が始まっていくのでした。


2023/10/23   『ノボさん』に見られるベースボール
正岡子規と夏目漱石の交流を描いた『ノボさん』には、ベースボールを行う場面が3カ所出てきます。
①上京して東京大学予備門に入学した後、平岡凞からベースボールの指導を受ける場面。(1884年17歳)
②常磐会寄宿舎に移り住み、学生にベースボールを教える場面。(1888年9月、21歳)
・1888年8月:鎌倉・江ノ島へ旅行中に初めての喀血
・1889年5月:二度目の喀血⇒子規(ホトトギス)を号す。
③松山に帰省して、河東碧梧桐にベースボールを指導する場面。(1889年夏、22歳)
・1889年8月:松山の自宅で大喀血
・1889年11月:常磐会寄宿舎に「ボール会」を作り、ベースボール大会を行う。
・1892年12月:日本新聞社に入社
・1895年4月:従軍記者として遼東半島に赴く。帰国の船上で喀血
(④)1898年5月:車夫に抱えられ一年ぶりに人力車での外出、泳ぐ人を見てべーすぼーる短歌を9首作る。
1884年(明治17)一高に入学した子規はベースボールと出会います。1887年(明治19)にはベースボール会メンバーとして、対外試合に出場しています。翌年の試合では、キャッチャーを務めています。1890年(明治23)3月に上野公園で行われた「第4回常磐会寄宿舎ベースボール大会」には、キャッチャー、1番バッターで出場しています。書生や職人などが見物に集まり、一時は「立錐の地なし」というぐらい賑わったそうです。しかし、既に喀血を三度経験した子規には自分の体調の変化にも気づいており、「馬鹿にくたびれたかい、バットがあたらないと、一層くたびれるようじゃナ。しばらくやらないと、ちょっとした呼吸を忘れる…恐ろしいもんじゃナ」と語っています。同年、5月に行われた明治学院と一高との試合を子規は観戦し、現役プレイヤーを退いています。それは、結核と診断されたからでした。ベースボールをプレイした期間は6年ぐらいとなります。


2023/10/16   結核と闘った正岡子規
子規の時代の結核は「死に病」「亡国病」と呼ばれていました。今では薬(抗結核薬)が開発されており、きちんと薬を飲めば治る病気ですが、子規の時代はこれといった治療法もなく、子規は34歳で亡くなっています。樋口一葉(24歳)、石川啄木(27歳)も肺結核に倒れています。喀血して口の中が血で染まった自分を、くちばしの中が赤いホトトギスと重ね合わせ俳号を「子規(ホトトギス)」としました。1898年(明治32)に結核の死亡統計が行われるようになってからも結核死はどんどん増え、1918年(大正7)にピークを迎えました(人口10万人あたり253.2人)。2021年の結核死は(人口10万対1.5人)ですから、いかに流行していたのかが分かります。子規は、更に結核菌が脊椎へ感染した脊椎カリエスへと進行し、手術を二度受けたのですが、失敗に終わり、寝たきりの生活となります。脊椎カリエスで臀部と背中に2カ所の穴が空いて、そこがただれて膿が溜まり、出血と膿で悪臭が立ち込めていたそうです。ガーゼの取り替えや排泄の世話、部屋の清掃、食事の世話などに献身的に介護をしたのが、母の八重と三つ違いの妹の律でした。1893年11月、2人は子規の看病のために東京で暮らすようになります。寝たきりの生活を強いられても食欲旺盛で、好きなものを好きなだけ食べていたようです。死期迫り自暴自棄になる子規の我が儘を八重と律は受け止め、子規の世話に身を捧げました。以下は、子規の結核に関する来歴です。
・1888年8月:鎌倉・江ノ島へ旅行中に初めての喀血
・1889年5月:二度目の喀血、医師に肺結核と診断⇒子規(ホトトギス)と号す。
・1889年8月:松山の自宅で大喀血
・1895年4月:従軍記者として遼東半島に赴き、帰国の船上で大喀血(5月)神戸病院に入院、須磨で療養。
・1896年3月:脊椎カリエスと診断され腰部を手術する。(4月) 再手術も失敗し寝たきりとなる。
・1898年5月:車夫に抱えられ一年ぶりに人力車での外出、泳ぐ人を見てべーすぼーる短歌を9首作る。
・1899年7月:座ることさえ困難になり寝たきりになる。
・1900年8月:大量喀血、漱石が子規を訪ねる。
・1902年9月19日:死去


2023/10/8   『ノボさん 小説 正岡子規と夏目漱石』(伊集院静著)
『ノボさん』は正岡子規のこと。この小説には、正岡子規と夏目漱石の交流が描かれています。2人に起こった出来事を大まかに整理すると以下のようになります。
1884年(明治17)正岡子規、大学予備門予科に入学、同級に夏目金之助(漱石)、南方熊楠がいる。ベースボールに出会う。
1884年(明治17)正岡子規、大学予備門予科に入学、同級に夏目金之助(漱石)、南方熊楠がいる。ベースボールに出会う。
1885年(明治18)学期末試験に不合格となり落第、漱石も腹膜炎のため試験を受けられず落第。
1889年(明治22)1月、落語を通して漱石との交流が始まる。5月:漱石は二度目の喀血をした子規の病床を見舞う。漱石は子規の『七草集』を評する。
1890年(明治23)9月:子規は帝国大学文科大哲学科に、漱石は英文学科に入学
1892年(明治25)7月:子規と漱石は京都、堺を旅行、先に子規は松山へ、その後で漱石が松山の子規の実家を訪ねる。子規に学科試験不合格で落第の通知が届く。退学を決意する。12月:日本新聞社に入社
1893年(明治26)7月:漱石は英文科を卒業し、大学院へ。10月:東京高等師範学校の英語教師になる。
1895年(明治28)4月:漱石は愛媛県立尋常中学校の英語教師として赴任。子規は従軍記者として遼東半島へ、そこで森鴎外と会う。
5月:帰国の船上で喀血。神戸病院に入院、須磨で療養。8月:松山の漱石の下宿に移り50日ほど同居。
1896年(明治29)4月:漱石は第五高等学校講師(熊本大)となる。子規は脊椎カリエスと診断され腰部を手術する。再手術も失敗し寝たきりとなる。6月:漱石、中根鏡子と結婚。7月:教授に昇任。
1897年(明治30)8月:子規大喀血の後、漱石が寺田寅彦と子規を見舞う。
1900年(明治33)9月:漱石が文部省派遣留学生に選ばれロンドンへ2年間の留学。
1902年(明治35)9月9日子規死去、12月、漱石は子規の死を知る。ロンドンを発ち帰国の途につく。
1905年(明治38)1月:漱石『吾輩は猫である』をホトトギスに連載
1906年(明治39)4月:漱石『坊っちゃん』を連載

『ノボさん』からは、子規が「来る者拒まず」という社交的、行動的なのに対して、漱石は神経質で気難しい人として描かれています。子規が漱石を初めて見たのが1887年(明治20)寄席を観に行った時で、次に言葉を交わすのが学校の図書館でした。落語の話題から打ち解け、それ以降、漱石の家を訪ねる関係になります。更に、子規が心血を注いだ『七草集』(詩文、俳句をまとめた文集)に対し、その評を書いた往復書簡を通して親交が深められます。落第した子規に対して追試を受けるように勧めたり、子規の結核のことを何よりも心配したりしたのは漱石でした。漱石が松山で教師をしていた時、子規は50日余りも同居するようになります(子規、漱石28歳)。しかし、漱石にとって松山の生活は決して嬉しいものではなかったようで、僅か一年で辞めて熊本に行きます。それが『坊っちゃん』の下地になっているようです。この後、子規は手術にも失敗し、病状は更に悪化して寝たきりの生活を強いられます。そして、35歳という若さで亡くなります。その3ヵ月後の12月、遠いロンドンの地で漱石は子規の死を知らされるのでした。


2023/10/2   正岡子規と平岡凞(ひろし)
1884年(明治17)9月11日、大学予備門(東京大学の前身)に入学した正岡子規は、ベースボールに出会います。入学後新橋クラブの平岡凞を訪ねベースボールの指導を受けます。平岡は日本初の野球チームである「新橋アスレチック倶楽部」創設者です。
<平岡凞>
1856年(安政3)田安徳川家の家老の家である平岡凞一の長男として江戸に生まれる。
1871年(明治4)15歳のときにアメリカへ渡り車両製造技術を学ぶ。
1876年(明治9)機関車・機械類製造技術のほかベースボールを修得し帰国。工部省鉄道局に勤める。
1878年(明治11)新橋停車場構内に日本初の野球場「保健場」を作り、日本初の野球チーム「新橋アスレチック倶楽部」を組織する。
1882年(明治15)芝生のグラウンドを汐留に造り本拠地とする。駒場農学校との初の対抗戦を行う。
1884年(明治17)正岡子規が新橋に出向き平岡から野球の指導を受ける。
1888年(明治21)平岡が鉄道局を退職したため「新橋アスレチック倶楽部」解散となる。
平岡はボールやバットをアメリカから取り寄せています。また、ルールブックを毎年取り寄せ最新ルールで野球を行っています。「新橋アスレチック倶楽部」のユニフォームは、アメリカで見たものを注文して作らせたようです。当時は、まだ野球を素手で行う時代であり、ミットもなく、キャッチャーはワンバウンドしてボールを捕球していました。ピッチャーも要求した高さに下手投げで投げなくてはいけないので時間を要し、午前中に始まった試合が夕方に終わることも少なくなかったようです。平岡は日本で初めてカーブを投げた人物とも言われており、1959年に野球殿堂入りをしています。


2023/9/25  正岡子規 ベースボール九首
正岡子規はベースボールのナインにちなんで短歌を九首作っています。これを詠んだのが、1898(明治31)年31歳の時で、既に肺結核に侵され寝たきりの生活を強いられていました。病床でベースボールを行う自分の姿を思い浮かべながら詠んだのでしょう。
久方のアメリカ人のはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも
國人ととつ國人と打ちきそふベースボールは見ればゆゝしも
若人のすなる遊びはさはにあれどベースボールに如く者はあらじ
九つの人九つの場を占めてベースボールの始まらんとす
九つの人九つのあらそひにベースボールの今日も暮れけり
打ち揚ぐるボールは高く雲に入りて又も落ち來る人の手の中に
なかなかに打ち揚げたるはあやふかり草行く球のとゞまらなくに
打ちはづす球キャッチャーの手に在りてベースを人の行きがてにする
今やかの三つのベースに人満ちてそゞろに胸の打ち騒ぐかな


2023/9/18 正岡子規とベースボール
有名な歌人である正岡子規は、一高時代(今の東大)は野球選手として活躍し、明治時代の日本野球史に深くかかわった人でもあります。2002年に野球殿堂入りを果たしており、野球殿堂博物館にはこの写真が掲げられています。正岡子規の生い立ち(ベースボールとの出会い以降)は以下のようになります。
1884(明治17)年  大学予備門予科に入学、ベースボールに出会う。新橋倶楽部の平岡を訪ね(ベースボールの)指導を受ける。
上野公園博物館横の空地で「第4回常磐会寄宿舎ベースボール大会」を行う。
(キャッチャー・1番バッターで出場)。
1888(明治21)年  鎌倉・江ノ島旅行中、初めて「喀血」する。翌年5月に肺結核と診断。
1889(明治22)年 二度目の「喀血」後、「子規(ほととぎす)」と号する。松山に帰り河東碧梧桐にベースボールを指南する。
1890(明治23)年  ユニフォーム姿の写真を撮り、4月6日大谷是空に送る。雅号に「野球(の・ぼーる)」
明治学院と第一高等中学校との試合を観戦(インブリー事件に遭遇)
1892(明治25)年  大学を落第したことから中退を決意し、日本新聞社に入社する。
1895(明治28)年  記者となり日清戦争(遼東半島)に従軍。その帰途大喀血する。松山で50日余、夏目漱石の下宿で静養する。
帰京途中、奈良で「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」の句を詠む。
1896(明治29)年 脊椎カリエスと診断され腰部を手術する。(4月) 再手術も失敗し 歩行困難(寝たきり) となる。
新聞『日本』に『松蘿玉液(しょうらぎょくえき)』を連載する。
7月23日、27日には、野球の試合方法やルール、技術について詳細に解説している。
1898(明治31)年 ベースボール短歌九首を詠む。
1900(明治33)年 大量喀血(病状次第に悪化)する。
1902(明治35)年 新聞『日本』に随筆集『病床六尺』を連載。5月5日~9月17日、127回の連載。
(9月19日)午前1時、死去する。
子規の年齢は、明治の元号と同じです。明治17年、東京大学予備門時代にベースボールを知り、ベースボールに夢中になるのですが、肺結核で喀血をします。明治23年の明治学院との試合には既に出ていないので、選手として活躍するのは6年間という短い期間ということになります。喀血で野球が出来なくなっても、俳句や短歌にベースボールを詠み、ベースボールを常に思う子規が偲ばれます。


2023/9/11 野球とベースボール
かなり以前の国語の教科書に「野球」と「ベースボール」という説明文が載っていました。
・・・ベースボールが初めて日本に伝えられたのは明治5年ごろであるが、長い間、この球技は、「ベースボール」または「ベース」という外来語の名前で呼ばれてきた。 「野球」という訳語が生まれたのは、明治27年秋のことである。そのころ、第一高等学校(今の東京大学教養学部)で、ベースボール部の歴史を編集するときに、マネージャーをしていた中馬庚(ちゅうまんかのえ)という人が、「野球」という訳語を思い付いたという。「広い所 (野)でやる球技」という意味であろう ・・・ 「野球」と「ベースボール」(小学校国語六年下)
中馬庚がベースボールを野球と翻訳するのが1894年(明治24)ですが、それより4年前に正岡子規自身の幼名である「升(のぼる)」にちなんで、「野・球(のぼーる)」という雅号を用いていました。「野球」という表記を最初に用いた人物は正岡子規なのですが、それはベースボールに対する訳語ではなかったのです。子規は今の「野球」をそのまま「ベースボール」と使っていました。あくまでも自身の雅号として使っていたため、中馬庚が初めてベースボールを野球と訳したことになるようです。なんとも惜しいこと。


2023/9/4  市川崑監督『東京オリンピック』男子マラソン
今回も記録映画『東京オリンピック』の話です。陸上最終競技、男子マラソンは、アベベ(エチオキア)が2時間12分11秒2の世界最高記録で優勝しました。2番手で競技場に入ってきたのは円谷幸吉でした。そのすぐ後にヒートリー(イギリス)がいて、円谷はゴール目前で抜き去られ、銅メダルとなりました。その後の円谷には、更なる活躍が期待されますが、腰の持病が悪化し椎間板ヘルニアとアキレス腱の手術を受けたものの復調かなわず、68年1月、「幸吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません。・・・幸吉は父母上様のそばで暮らしとうございました」と遺書を残し自ら命を絶っています。何と享年27歳という若さでした。
さて、マラソン大会の映像には驚くことが幾つかありました。給水ポイントでは、多くの観衆が集まり、次々と選手がやって来ます。そこには、水、ジュースなどの飲料が用意されています。水と言っても、食器洗いの片側がイボイボになったスポンジです。それに水を含ませたものを選手たちは取って、顔や体をぬらしていました。また、青いプラスチック製のポリバケツから柄杓で水を体にかける選手もいました。給水ポイントでは、慌てる様子もなく、多くの選手が立ち止まって、用意されたオレンジジュースを二三杯飲んでからまた走り出す様子が見られました。大変のどかな光景であり、オリンピックの決勝というよりは、地方の小さなマラソン大会のように映りました。


2023/8/28 チクサクコール
先日、市川崑監督の『東京オリンピック』を観ていました。この映画は1964年(昭和39年)東京オリンピックの記録映画なのですが、観ていたら、何と棒高跳び決勝で、チクサクコールで応援をするドイツの応援団の映像があったのです。
「チクサクチクサク」(ホイホイホイ)
「チクサクチクサク」(ホイホイホイ)
「イビー」(チャ)「イビー」(チャ)
「イビー」(チャチャチャー・ウー)
違うのは最後の(ウー)だけは低音のおっさんの声でした。東京オリンピック棒高跳びの決勝は、 フレッド・ハンセン(アメリカ)とヴォルフガング・ラインハルト(ドイツ)が9時間に及ぶ激闘を繰り返し、最後にハンセンが5m10のオリンピック新記録で優勝しています。今年のみはま大会でも、大レクの最後はチクサクコールで締めたのですが、チクサクコールとは一体何なのでしょう?インディアンのまじないだとか言う人もいたのですが、およそ何か分からずに、周りの雰囲気でやっている人がほとんどではないでしょうか。何故ドイツ人がチクサクコールをやっているのか?チクサクコールは何語?謎は深まるばかりです。


2023/7/31   浮腹巻(うきはらまき)
退職したら時間はあります。しかし、このままダラダラしていてはいけないと思い、水曜日は水泳について調べようと自分にノルマを課しています。今は、日本泳法の泳ぎについて、ネットで画像・映像を観ています。最近見たものに「浮腹巻」があり、大変興味をそそられました。これは、現代の浮き輪のことであり、江戸時代には、既に浮き輪があったようです。この絵は、葛飾北斎が気の向くままに描いたさまざまな図柄を集めた「北斎漫画」に収められており、1814年(文化11年)から初編が出版されました。十五編からなる北斎の代表的な絵手本の総図数は約3900で、シーボルトによってヨーロッパに紹介されたことから「ホクサイスケッチ」として世界にその名を知られているそうです。最終編が出版されたのは北斎死後の1878年(明治11年)という大作です。さて、このスケッチの右上2つには、浮き袋を持って水面に浮かんでいる様子が描かれています。視力検査のランドルト環のようなものを体に巻き付けているのですが、材質は何なのかがわかりません。皮をつなぎ合わせて縫っているのでしょうか。とても知りたいです。腹巻と命名するところが面白いです。


2023/7/17  「障害」「障がい」「障碍」
たのスポ、2009年9月号(No.231)の特集名は「障がい児・者の体育とスポーツの明日」であり、「障害」ではなく「障がい」と表記されています。その理由について編集後記で愛知班の成瀬さんは次のように説明されています。「今月号の特集名は『障がい児・者の体育とスポーツの明日』とした。障害の害を平仮名にしたのは、障害があることを「害」という文字を使って表すことへの”疑問”からであるが、まだまだこなされた表現とは云えない。そもそも「がい」という文字は残ったままであるし、「障」という文字が持つ意味も吟味されていない。また文字を平仮名にすればそれでいいのかという疑念も残る。よって、今号では、特集名に合わせて「障がい」と統一することはせず執筆者の記述通りに表現した。」とあるのです。このような考えに立つと、「障」も否定的な意味合いがあるので、「しょうがい」と表記せざるを得なくなり、実際にこう表記する人もいるのです。また、「障害」ではなく「障碍」とすべきという主張もあります。文化庁によると、「障碍」と「障害」は、明治以降は同じ意味で使われていたのが、戦後の当用漢字表、常用漢字表に「害」の字のみが入り、「障碍」という表記は少なくなっていったようです。障害者団体は「害ではなく碍」を望む声があり、常用漢字表の改訂時にも「碍」の追加を文科省でも検討してきたのですが、「追加を要するような使用頻度の高まりや使用状況の広がりが生じているとは判断できない」として「碍」の追加が見送られています。これは、鶏が先かと卵が先かの話と一緒で、常用漢字表に「碍」を追加すれば、社会で使われるようになり「障碍者」が一般的になるかもしれません。ただ、障害者は余りにも一般化されており、今更「障碍者」はないだろうと、私は思うのです。たのスポの話に戻すと、同志会はこれまでも、今でも「障害」「障害児体育」と表記して来たので、たのスポ誌での編集班による「障がい」への書き換えは行き過ぎであると思います。


2023/7/10 「オウム返し」は差別用語なのか
学習指導案に「オウム返し」という言葉を使っていることに対して異議を唱えた先生がいました。丁度、同和の公開授業を控え、指導案を全体で検討している時でした。子どもが教師の言葉を繰り返す様子を「オウム返し」と表現し、そのような授業ではダメだということを指導案を書いた先生は言いたかったようです。批判した先生は、「オウム返しは自閉症児を指す言葉なので差別用語に相当する」と言うのです。人の言った言葉をそのまま繰り返す子どもの様から、オウムと自閉症児を関連付けていて、その先生の意識こそが差別に相当するのではないかと私は思ったのです。指摘した先生も、どこかで聞いてきた話であって、その耳学問を職場で話しているに過ぎません。最初にそれを言った人は誰なのか知りたいし、関連付けて話す人こそ人権感覚が欠如しています。「オウム返し」が差別用語だとしたその指摘に対して、誰も口を挟まなかった会議の空気が私には不思議に思えましたが、それどころか、指導案を書いた先生が、「ご指摘いただきありがとうございました。」など発言して、更に驚いたのものでした。「オウム返し」という言葉は既に死語になっていますが、どうして差別用語なのかを突き詰める議論の方こそ、人権研修にふさわしいと思うのです。


2023/7/3 WEIO(ウェイオー:The World Eskimo-Indian Olympics)
WEIOは、先住民のオリンピックです。1961年にアラスカ州フェアバンクスのコミュニティーイベントとして始まり、1973年からインディアンも加わるようになりました。参加するためには、エスキモー、アリュート、インディアンの血を16分の1以上受け継いでいることが必要とされています。先住民のオリンピックだけあって、競技が大変ユニークで興味深いです。その幾つかを紹介すると、「イヤー・プル」は耳に引っ掛けた紐を使った綱引きのことで、痛すぎて諦めた方が負けとなります。これは、凍傷の痛みに耐えることが目的となっています。10kg近い鉛を紐で耳に引っ掛けて運び、移動距離を競う「イヤー・ウエイト」という種目もあります。「ナックルホップ」は、腕立て伏せの姿勢で手をグーにし、アザラシのように飛び跳ねながら進む距離を競います。他にも俊敏性とバランス力を競うハサミ幅跳び、アラスカンハイキック、アザラシの皮剥き競争などもあります。これらは生活に根ざした身体動作がそのまま競技として残し、競技化することで失われてきた先住民の文化を今に伝える大きな役割を担っているのです。


2023/6/26 何をもって差別用語とするのか
WEIO(ウェイオー)は、The World Eskimo-Indian Olympics=ワールド・エスキモー・インディアン・オリンピック)の略で、毎年7月ごろにアラスカのフェアバンクスで開催されている先住民のオリンピックです。このエスキモーやインディアンという言葉は、今では差別用語としてイヌイットやネイティブアメリカンと使うとされています。しかし、何故インディアンやエスキモーがダメなのか、また、誰がそう決めたのかということは分かっていません。確かな理由もないのですが、使わないことが無難だと考えられているのでしょう。しかし、WEIOが示すように、それらの言葉を使うことで民族のアイデンティティーを守ろうとする人たちがいます。差別用語と決めつけた人たちは、当事者たちが使うこの現状をどのように受け止めているのでしょうか。いけないのが理由も分からないのに自粛、規制をしていしまうことです。何となく使わないことで、その対象となる人たちを特別視してしまい、そこから差別意識が生まれるということもあります。何故インディアンやエスキモーがダメなのか教えてほしいです。


2023/6/19   障害児学級の在り方
これまで酷い原学級保障の姿を見てきた訳ですが、一方で障害児学級王国とでも言うのか、障害児を囲い込むような障害児学級の在り方にも疑問を持っていました。それが私が最後に勤めた学校の障害児学級でした。その障害児学級を仮に「ひまわり学級」とすると、朝は「ひまわり体育」と言ってトレーニングばかりをさせています。障害児は体力が劣るので、トレーニングが一番ということで校内を何周も走らされる可哀想な姿を何度も見ました。また、研究授業は大がかりなもので、フードコートを開き簡単な調理や接客を子どもたちがするのです。学校では調理など一切認められていないのですが、ひまわりには許されるのです。対象の子どもがクラスに戻って、作ったお菓子を周囲に見せびらかすので、学級の子どもからしてみれば羨望しかなく、「ひまわりは先生に何でもやってもらえるからいい」となります。まさしく特別扱いでした。ひまわり学級の行事に左右されることも多く、学級のイベントが出来ないこともありました。水泳などは、学年の水泳に十分参加できるのに、学年の水泳の横で、ひまわりの子ども達が浮き輪で遊んでいます。その様子を学年の子ども達は見るのですから、「ひまわりはいい」となるのです。問題なのは、対象となる子どもがどのような形で通級するのが良いのかということについて学級担任が口を挟めないということでした。本当は、子どもの様子を見ながら、参加の形を決めれば良いはずなのに、障担で全て決めてしまいます。今更言っても仕方のないことで、批判も出来なかった自分の力の無さを悔いてしまいます。原学級保障は問題ありですが、障害者学級で子どもを囲い込むのも問題です。


2023/6/12   原学級保障
私は初任からの3年間を病弱の養護学校で勤め、その後は小学校に転勤しました。小学校枠で採用されていて、やがては小学校に戻ると考えたていたので、遅れをとりたくはないという焦りがあったのです。今からしてみればおかしな話ですが、転勤していなかったら、また違う教師人生だったのかもしれません。さて、転勤した学校が同和校であり、解放教育を強烈に推進する学校でした。転勤してすぐに言われたことは、「養護学校は必要だと思うか?」とか、「障害児学級は差別学級と思わないか」ということでした。障害児を取り出すこと=差別に繋がるという考えなのです。もちろん障害児学級はありません。障担が各教室に行って、対象となる子どもの横で授業を行っていたのでした。担任がやる学習内容が理解できるなら教室の授業も可能ですが、中には、会話が出来ない子どももいて、担任の授業中に、別メニューの授業が障担とその子どもとの間で行われます。当然、学級の子どもからは「(障担の)先生の声が聞こえて気になって授業に集中できない」「先生がいて黒板が見えない」など、不満の声が、保護者を通じて知らされてきます。それでも、その声は障害者に対する偏見であるとして、聞き入れることもありませんでした。彼等はよく「障害者は地域で生きる」と言って、周囲の子どもたちとの関係を築くことを重視しますが、小学校を終えた子どもが地域で育つという姿を見たことはありません。また、彼等は障害児の発達を完全に無視しており、「養護学校でどれだけの力を付けてくれるのか?」ということを口にします。原学級保障という考えに立つと、「その子に応じて」ということが出来ず、周囲の子どもがどう関わらせるのかが課題なのです。「その子に応じる」按排も発達保障か原学級保障かという二分されたイデオロギーに立つので、学校の体制や教師の考えに左右され難しい所です。ただ、何でも差別であるという原学級保障を推進する人たちの考えは、子どもたちにとっては迷惑な話であることは確かです。大阪や奈良の行きすぎた原学級保障に対する警鐘が昨年の文科省の通達であるという風に私は理解をしています。


2023/6/5   障害児教育の行方
今年も5月の連休中に、かつて一緒に勤めた学校の先生たちとバーベキューをしました。 私が支援学校から、同和校に転勤した学校で、5年、6年と組んだ先生たちです。学校が同和校だっただけに、その人たちは同和教育や解放教育を強烈に押し進めてきた人たちです。5人の担任で唯一私だけが全く思想が異なっています。当時の子どもはしんどかったけど、実践の自由があり、私がやろうとしていることには全て理解を示してくれました。今も付き合いがあって私にとっては数少ない心を許せる人たちなのです。さて、先日のバーベキューでは、昨年4.26の文科省通達のことが話題となりました。当然、その先生たちは苦々しく怒っています。「障害児教育がボロボロになっていく」「障害児が大切にされていない」「こんな学校はもうかわりたい」と愚痴を吐露します。その先生たちにとっては、インクルーシブ教育というのは原学級保障であると捉えています。この通知の背景には、大阪を始めとする関西圏では、原学級保障を推し進め、対象となる子どもが大切にされていない現状があるからです。私は文科省の通達は行き過ぎた原学級保障に対する警告であるというふうに受け止めています。きっと現場は混乱しているとは思いますが、私の立場からすれば、文科省の通達を歓迎する次第です。 結局、発達保障と原学級保障というこの溝というのは決して埋まることはありません。子どもの発達を願わない教師なんて居ないと思うし、集団の中で育つ大切さも分かる。それが、教師のイデオロギーや学校の体制によって左右されてきました。この問題というのは私の在職中も解決はしなかったし、永遠に解決しない問題なのでしょう。


2023/5/29        少数民族・原住民族・先住民族
日本では、アイヌを「先住民族」としています。「先住民族」というのは、自由な意思や合意なく、その国家に編入された人々を意味します。アイヌは明治期に強制的に日本に編入させられたのだから「先住民族」と呼ぶにふさわしいでしょう。日本の「先住民族」に相当する言葉は、台湾では「原住民族」、中華圏では「少数民族」と呼ぶそうです。台湾では、「先住民族」という言葉には、「既に滅んでしまった」という意味があるために、元々の住民であり差別感を持たない「原住民族」を選んでいます。憲法にも公式名称として「原住民族」が採用されています。「先住民」と「原住民」とでは、「原住民」の方が未開で、野蛮で、差別的な印象を持つのですが、これは日本人の感覚なのでしょうか。一番おかしいと思うのが、中華圏の「少数民族」です。「少数民族」とは、みずからの自由な意思や合意で、独立した地位や民族自決権を放棄してその国家に統合された人々です。しかし、貧困からの脱却という名目で、中国では強制移住をさせられている多くの少数民族がいます。「みずからの自由な意思や合意」は全くないので、中国こそ「先住民族」を呼ばないといけません。少数民族のアイデンティティーを破壊してしまうのが今の中国、習近平のやり方です。


2023/5/22   バンジージャンプ
先日の高齢者ハイキングでは恩智から信貴山を通って王寺まで歩きました。恩智越えという古道だそうです。途中の信貴山の開運橋では、若者がバンジージャンプをやっていました。開運バンジーというそうですが、よくやるわと恐る恐る橋の上から見ていました。さて、このバンジージャンプはニュージーランドのアラン・ジョン・ハケットという人が考案したようです。そのモデルが、ヴァヌアツ共和国の島、ペンテ・コスト島で行われる「ナゴル(Nagol)」という通過儀礼とされています。20mもあるやぐらの上から地面に向かってダイブするのですが、はじめは低い位置から飛び降りて、年齢や経験で最高位置からとなるようです。ダイブできるのは、割礼を終えた男性のみ。木の皮をはいで作ったツルを足首に巻き、これが命綱となります。やぐらの下は安全のために地面が柔らかく掘り返されています。真下に落ちると地面に直撃するので、ダイバーは高い位置からは遠くに飛び出すようにしています。ダイブは地面寸前まで落ちて、その反動でやぐらの方向に引っ張られて地面に着くようになっています。地面の土は掘られているとは言え、ツルの長さの調整が上手くいかないと怪我をしたり命の危険にさらされることになります。通過儀礼や豊穣祈願に始まるナゴルという伝統が、今では、この島の観光資源になっているようです。バンジージャンプは決してやることはないけれど、観光のためにダイブするナゴルの男たちのことを考えると、どうも好きになれません。


2023/5/15  異動の葉書に憂鬱な思い
毎年5月の連休前後に異動の葉書が届きます。連休前に来たのが、かつて一緒に勤めた人で、この春から教頭になった人からでした。挨拶文の横に「自分にこんな日が来るとは思いませんでした。先生から学んだことを活かしながら教諭で頑張るつもりでしたが、今はそれも叶わなくなってしまいました。新しいステージで頑張ります」私はこのようなメッセージを読んで大変憂鬱な気分になりました。この人に限らず、管理職になることに後ろめたさを感じている人が結構多いということです。管理職には向き不向きがありますが、その人が管理職になる志をもってなろうと思ったのであれば、しっかり教頭の仕事に打ち込んで欲しいと思うし応援したい。後ろめたさなど感じて欲しくないと思うのです。ただ、今まで私が出会ってきた管理職というのは、授業や実践に魅力を感じなくなった人、子どもと接するのが煩わしくなった人が管理職になるケースも多くあって、そういう人たちが管理職になると職員の足を引っ張っていたことも事実です。どこを見てこの人を管理職に採用したのだろうと疑問に感じることが多々ありました。だからこそこれまで沢山見てきた人たちを反面教師として仕事に全うして欲しいと思うのです。また、管理職になった人は「自分にはその気はないけども、机の上に管理職試験の案内が置いていた」とか、「校長に勧められて断り切れなかった」とかよく言います。管理職試験を受けているということは、管理職になりたいから受けるのであって、人から勧められなったという言い訳は大変聞き苦しいです。自分が職場には不可欠な人間であるとでも言いたいのでしょうか。管理職になろうと決めたのであれば、よくある管理職のイメージを刷新するという高い志をもって職務に専念していただきたいものです。


2023/5/8  『星野君の二塁打』から部活や体罰問題を考える
たのスポ大阪班で「体育・スポーツと体罰」という特集を組んだことがあります。2013年のことでした。この前年、大阪市立桜宮高校でバスケットボール部の主将が顧問から体罰を受け、翌日に自らの命を絶つという痛ましい事件が起こりました。体罰に対する批判と共に、顧問と生徒との関係、部活の在り方が厳しく問われることになりました。これを受けてのたのスポ編集でした。そして、次の大きな事件が、2018年にあった日大アメフト部の悪質タックル問題でした。無防備な状態だった関学大のクォーターバックに、日大選手が背後から激しくタックルをして負傷させました。監督からの「潰してこい」という指示の有無を巡って連日報道がなされ大きな関心を呼びました。この時に取り上げられたのが『星野君の二塁打』でした。「監督に言われたことを守ることが正しいのか」「管理しやすい人間を作っているだけではないのか」など、ここでも監督と選手の在り方について論議が起きました。このような大きな2つの節目があり、もう20年も経つことなのに、今でも体罰に関する事件が後を絶ちません。過去の教訓が生かされることもなく同じ失敗を未だ繰り返しているのです。その背景には、部活の経験を通して、別府監督を支持するようなスポーツ観をアスリートは身についてしまい、また、その中から監督となる指導者が生まれているという悪循環があります。別府監督を支持する学生のアンケートの中に、「そもそも監督のサインに従わないなら、監督はいなくてもいいことになってしまう。」という意見がありました。監督という存在を絶対視し、服従を当然のように考える古さが、今なお続く体罰やむなしとする部活世界を容認しているのではないでしょうか。『星野君の二塁打』は、部活世界をあぶり出し、対立の構図を生むにふさわしい教材です。別府監督を支持する学生にこそ、この教材を通して自らのスポーツ観を問い直し、体罰や部活問題について考えて欲しいと思うのです。


2023/5/1  星野君、別府監督の背後にあるもの
私の授業(と言うよりは『星野君の二塁打』を使って実践された幾つかの授業例)では、別府監督の背後には教育としての日本の野球、星野君の背後にはアメリカのベースボールがあるという文化論と結びつけるような授業を行っています。明治期に輸入されたベースボールは、一高(東大)から始まり、早慶戦へ。中学野球(高校野球)から戦後のプロ野球へという流れで広まってゆくのですが、野球の担い手と言えば学生野球であり、教育としての野球なのです。そのエピソードとしてイムブリー事件(1890年に第一高等中学校の学生が波羅大学(のちの明治学院)のアメリカ人宣教師イムブリーに重傷を負わせた事件)を取り上げ、野球場が精神修養の場であると考えられていたことを紹介します。優勝劣敗の勝利至上主義、武士道から来る精神主義、自己犠牲の精神を強いる集団主義、これらが定着していったものが日本の野球でした。高校野球の広がりと共に「爽やかで好ましい青年像」が作られ、チームへの献身や集団内の自己犠牲が後の少年野球にも受け継がれて行きます。別府監督の野球はこのような精神によって支えられています。しかし、本来のベースボールはそうではありません。その始まりは地域住民の親睦、親善から発生しており、社交を目的として広まっていったものです。初期のベースボールは下手投げで自分の好きなボールを打って良かった時代があり、勝敗よりもプレイそのものを楽しむ中で、決定(決断力)、チームワークの重視(合意形成)がベースボールの基軸になっています。チームワークというのは日本のように「和を乱さないこと」ではなく、合意形成を目指すことである点においても違っています。つまり、星野君と別府監督が負うものが社交のためのベースボールと教育のための野球であるのです。・・・という具合に授業を進めたのですが、そんな単純化できるものでもないだろうと思うし、ベースボールの社交は中村敏雄の使うイギリスの社交とどう違うのか分からないままでいます。


2023/4/24  星野派か別府派か
「ベースボールと野球」という2コマの講義では、『星野君の二塁打』を使って授業を行いました。対象は、保育士や幼稚園教諭を目指す学生60名、小学校教諭を目指す学生40名、計100名の学生です。)『星野君の二塁打』(1967年版)を通読しアンケートに答えてもらいました。その結果は表の様になりますが、小学生と同じように大学生でも、星野君を支持する派52%、別府監督を支持する派42%という具合に二分されます。⇒アンケート結果の詳細  大学で以前にされていた授業でも、ほぼ同数の意見に分かれていたようです。②③の「どちらかというと~」に関しては、別府監督の考えに賛同しながらも、「出場停止にするほどのことではない」という意見が多かったです。私が注目したいのは、小学校段階ではほとんどが星野派であるのに、大学生では別府派が増えているということです。これは、中学、高校の部活などの経験によって別府監督の言動を肯定するスポーツ観が形成されているのだと思います。「おまえらには野球がわからんのや」と発したスポ少の子どもは、部活に代表される不合理な世界を小学校段階で既に経験しているのであって、星野君を支持した多数派の子どもたちも、やがては別府監督の世界(部活世界)を肯定していくようなスポーツ観に染まっていくのでしょう。「野球ってそんなものである」という現状肯定が今でもなくならない体罰を容認する土壌を作っているのだと思います。


2023/4/17  星野君を悪いお手本にさせないために
高学年で何度か『星野君の二塁打』の授業を行いました。試合の翌日、別府監督が子どもたちを集めて、何と言ったのかを考えさせます。「よくやってくれた。君のおかげで次の大会に出られる」という多くの意見がある一方で、「野球は集団でやるスポーツなのだから作戦を守らなかった星野君はダメだ」という一部の意見があります。いろんな意見が出た所で、その後の『星野君の二塁打』を最後まで読みます。すると、出場停止を命じる別府監督の酷さに驚いてしまい、星野君を支持する子どもが更に増えます。一方で、別府監督の言動はやむをえないとする少数の子どもたちがいます。大多数の星野派と少数の別府派という構図の下で意見交流するのですが、その少数派には、スポ少の子どもたちが多くいます。「何故別府監督を支持するのかわからない」という多数派の意見に対して、「監督に言われたことは絶対守らないといけない。バントしないなんてあり得ない」と反論します。こんな酷い監督の言うことにどうして従うのか多数派は理解できないのです。そして、「おまえらには野球がわからんのや」という捨て台詞を残す子どもさえいます。ここに監督の意見に逆らうことの出来ないスポ少の子どもたちの置かれている今を見ることができます。「・・・三振したとき、監督の顔を見るともうダメだと思った。」と日記に書いてくる子どもがいました。上意下達という管理下でいつも監督の顔をうかがってプレイするスポ少の子どもたちの状況を『星野君の二塁打』は明らかにしてくれるのです。野球少年の生きづらさを吐露させる教材が『星野君の二塁打』ではないかと思うのです。星野君と別府監督を対比させる中で、互いの立場(身についたスポーツ観)を闘わせ、立場の違う意見を知り、相手を理解しようとする、理解する努力をする、授業はその過程で十分ではないかと思うのです。正解なんてないし、道徳のように答えを押しつけることもしない。そんな授業が『星野君の二塁打』に求められるべきだと思うのですが。


2023/4/10  星野君が悪いお手本になる道徳教材
道徳教材「星野君の二塁打」は「規則の尊重」を内容項目としています。(1~4年「規則の尊重」5,6年、中学校「遵法精神,公徳心」)、一般的な道徳の授業では、星野君の取った行動について子どもに賛否を問います。
発問)星野くんがバントの指示を守らなかった判断について、どう思いますか?
⇒賛成:星野君が打って勝てたんだから。バントをしていたら負けていたかもしれない。
⇒反対:監督の指示を無視するのは良くない。監督は経験者。みんなで決めたことなんだから。
という具合に対立した意見が出てきます。小学校でこの授業を行うと、星野君の取った行動に多くの子どもが賛同し、別府監督は酷い大人となります。割れた意見が出たところで論議となるのですが、その後がいただけません。「きまりを守らなかった星野君はダメ」を目指して、次のような発問でジワジワ子どもを追い詰めます。(以下は実践例、小学館みんなの教育技術:6年道徳『星野君の二るい打』授業レポート~きまりを守って行動しようとする実践意欲と態度を育てる」から)
1)星野くんは次の試合で「控え」にまわることになりましたが、もし、次の試合も出場できるとしたら考えは変わりますか?
⇒今回は勝ったとしても、みんなが自分勝手なことをしていつかは負けてしまう。チームの関係が悪くなってしまう。
2)もし、監督の指示を聞かずにバントをせず負けてしまったらどうなると思いますか?
⇒なんで打ったのかと思われる。自分で自分をせめてしまう。
3)では、作戦どおりにバントをして負けたとしたらどうなるでしょうか?
⇒負けても助け合うことができるチームになれる。チームワークが高まる。
4)作戦どおりやって勝てたらどうですか?
⇒うれしい。きもちいい。
という具合に、次々に教師の誘導とも言える発問によって、きまりを守ることの大切さを子どもに擦り込み、それに類する発言を子どもに言わせています。は、予想される子どもの答えとしていますが、ここには、星野君の言動に賛成する発言は一つも見当たりません。子どもに葛藤や対立を生じさせながら、最後は、教師の強引とも言えるまとめ方となるのです。それなら、何のために「星野君の判断について、どう思いますか?」と問うのでしょうか。道徳の授業では、最後に「教師の講話」というものがあって、教師があるべき姿を説いて授業が終わります。そして、教材から学んだことを生活の問題と関連付けさせます。最後の発問は「きまりを守ることはなぜ大切なのでしょうか。」と問い、「『みんなはひとりのためにひとりはみんなのために』が大切だと思いました。」「きまりを守らないとチームメイトのみんながばらばらになってしまうし、クラスのことで考えたらきまりを守らなかったら楽しくなくなってしまうから、守ろうと思いました。」という感想を子どもに述べさせています。別府監督の指示に反論の余地なく服従させられる星野君=野球少年たち。この姿は、この授業での教師と子どもの関係と重なります。これが道徳の目指す「愛国心」「伝統文化」を重んじる望ましい日本人の在り方なのでしょう。「きまりを守る」ためには、多様な考え方を認めずに、特定の価値観を擦り込む、それが道徳(戦前の「修身」と言っても良いかも知れない)なのです。道徳教材である以上、きまりを守らない星野君は永遠に悪いお手本になります。道徳はこわいものです。


2023/4/3  「星野君の二塁打」が教科書から消える
道徳教材「星野君の二塁打」が、2024年度から使われる小学校の教科書から消えるそうです。監督の送りバントのサインに背き二塁打を打ってゲームに勝つ。しかし、「きまりを守らなかった」として、別府監督は次の大会からはメンバーから星野君を外すという話です。なぜ、教科書から消えるのかその理由については、 「子ども自らが考えることが重視される時代、監督の指示への服従を求める古さが浮かび上がった結果」とか、「野球のルールを知らない子どもが多いことも影響したよう」(朝日新聞)としています。これまで「星野君の二塁打」を採用していた教科書会社は、「規則の尊重」の内容項目を教えるのに別の教材を採用したと言います。「星野君」研究の第一人者(とされている)の功刀さん(奈良女子大特任教授)は、「子どもの権利条約で意見表明権に光が当たる時代、監督の指示への服従を求める古さが浮かび上がっていた。もっと早く掲載されなくなってもよかった教材だと思う」と話しておられます。確かに、徳目を教える道徳なので、きまりを守らなかった星野君は最後は悪い見本になってしまいます。しかし、服従を強いられるスポーツ少年たちの葛藤や苦悩を吐露させる教材として、「星野君の二塁打」は値打ちある教材だと思います。教科書から消えて子どもの目に触れられなくなって果たして良いのでしょうか。星野君が悪者にならない体育実践もあるので、功刀さんのコメントは意外に思えるのです。


2023/3/27  排便教育
これは現役の時に、是非やろうと思っていた実践です。高学年を持つと、学校のトイレで大便をやりたくないと思う子どもが多くなり、特に女子ではそれが顕著です。我慢するので、お腹が痛くなるけど、大をしていることを友達に知られたくないので、トイレにも行けずに困っている。そんな相談を女子の保護者から受けたことがありました。自然な便意を無理に押し殺すから便秘になって常に不快感に包まれ、授業にも集中できなかったようです。これは、立派な健康教育実践になるのではないでしょうか?排泄の仕組み、肛門の仕組み、便意はなぜ起きるのか?便秘はなぜ起こるのか?我慢したらどうなるのか?など、子どもはこういう話は好きそうです。結局やらずじまいになってしまい、私は大変惜しいことをしたと思っております。


2023/3/20 ドッジボールワールドカップ
先日、ドッジボールのワールドカップのことが報じられていました。日本は女子が世界2位、男子と混合が世界3位だったそうです。このルールは我々の知っているものとは随分違っています。ゲームは選手6人がコートの中央に並べられた5個のボールを奪い合う所から始まります。5個のボールを使って当て合います。外野とかもなくて、キャッチに成功すると投球した相手をアウトにでき、味方が復活できます。ゲームは1セット3分間、相手チームのメンバーを多く減らしたほうが勝利となります。前半後半各15分の計30分間で勝利したセット数で勝敗が決まります。小学生には人気のあるドッジボールですが、私はこれほどえげつないゲームはないと思います。 一部の子どもが、逃げ回る大多数の友達を容赦なく当て、その様子は草食動物を追いかける肉食動物のようです。当てられた子どもは痛そうにして外野に逃れていきます。外野でも大抵はボールが回ってくることもなく、そのうち時間が来て、多くの子どもはボールを投げることもなく痛いままゲームが終わります。こんな面白くもないゲームなのに、学級遊びというと何故かドッジボールになります。当てられ役に回るほとんどの子どもはこのゲームの不条理を十分理解しているはずなのに、ドッジボールとなるのです。国際ルールで行っても、同じようなことがきっと起こることでしょう。ただ、このゲーム、小学生だけが行い、中学生になると全くやらなくなるというのも不思議です。


2023/3/13  迫り来る水泳の民間委託
このようなことにお困りではありませんか?
・天候に左右され計画通りに水泳授業が進まない
・シーズンしか使わないプールの維持管理費が負担になっている
・働き方改革、近年の教育環境の変化で、教員やスタッフの業務負担が増えている
・プール施設不備による安全に関する不安
・夏場の子ども達の体力低下
これは民間委託で水泳の授業を行っているスイミングスクールのホームページに載っていたものです。千葉県佐倉市、埼玉県志木市、枚方市、奈良市、他にも調べたらもっと沢山の自治体が挙げられるでしょう。コナミやYMCAなどの民間スイミングスクールと提携して水泳指導が進められています。学校で行うのか、スイミングスクールにバスで行ってするかの違いはあっても、そこに共通するのが「指導にあたったのは教員ではなく専門のインストラクターです(朝日新聞Edua)」ということです。プールの老朽化の問題、教師の働き方改革という問題、そして、コロナ禍で水泳指導がなくなり、再開よりも民間委託の方が良いと考えるようになった教師の意識という問題、それらが相まって水泳授業の民間委託が当然のように推し進められるようになっています。それはおかしいといくら正論を述べても(例えば、老朽化したらそれを改修するのが当然だという意見など)、民間委託は避けて通れない問題です。そう考えるとするならば、民間委託を受け入れた上で、現実的な少しでもましな水泳指導の在り方を模索するべきではないかと思うのです。


2023/3/3  ストライクの話
和歌山支部ニュースに「体育・スポーツPick up」というコーナーが不定期にあって、森田さんという智辯和歌山高校の先生が執筆されています。野球に関する話題を以前にも取り上げましたが、今回は「ストライク」の話になっています。和歌山支部ニュース2023年3月号「ベースボール(野球)」の「ストライク」の話。ベースボールが親睦や社交を目的に広まったというのですが、それはイギリスの社交とどう違うのか?その辺りがよく分かりません。この連載が51話だそうで、一冊の本にもなるのではないと思えるくらい野球の文化が学べます。


2023/2/21 退職して思うこと
退職してこの3月で2年になります。これ以上無理!といろんな面で自分の限界を感じていたので、私にとって退職は良い機会でした。退職された大阪支部の人たちは清々しい顔をされていたので、自分もやがてはそういう夢のような日が訪れるのだろうと現役の時は思っていました。それが、いざ退職となると、良かったこととそうでもないこともあり、実際には半々と言った感じです。家の前の駐車場は、小学生の集合場所になっていて、登校する姿を見送ってから一日が始まります。週に1,2回働いてそれ以外は自分の時間となります。時間はたっぷりあって夜更かしも出来るのですが、親の医者への送迎を始め、いろいろやることがあって、思い描いていたほど自由にはなっていません。それよりも、日々を充実させなければという思いに駆られます。ダラダラしていては世の中から取り残されそうで、計画を立てて自分にノルマを課すようにしています。


2023/2/14  28年ぶりのお礼
退職後、倉庫の書類整理をしていたら、「10カ年研修講座」というレジュメが見つかりました。日付は1995年8月23日となっています。10年目を経験した教師に向けての官製研修でした。「中学年学級経営の実際」というタイトルで、奈良市の先生がお話をされていました。このような行かされる研修は、イヤイヤ行っているというのもあって、なかなか頭に入って来なかったのですが、この先生の話だけは、心に残っていて、レジュメに書かれたハウツーをその後すぐに取り入れました。学級経営というものを真剣に考えるきっかけとなった研修でした。私に影響を与えてくれたこの先生に、お礼を言いたいと思って、その後調べたら、早期退職されて、サイクルショップを経営されていることが分かりました。それで、勇気を出して、メールを送ったら「うちのサイクルショップに是非来てください」という運びとなって、先日、京都にあるサイクルショップに行ってきました。あの日から28年以上経っているのですが、その先生も研修の日のことを覚えておられました。組合のこと、同和のことを始め、自身の経験についていろんな話を聞くことができました。同じ時代を過ごした教師にしか分からない話題に話が弾み、2時間以上話をしていました。自分に影響を与えてくださった先生に直接お礼を言うことが出来て良かったです。


2023/2/7 喜連村史の会 2月読書会
先月と今月、「喜連村史の会」の読書会に参加してきました。榊原さんがこの会の代表であり、会が作った『謎解き喜連村史第一巻』という本を元に話を進められます。読書会は榊原さんの寶圓寺で夜の7時から行われ、地元の方が10数名参加されていました。喜連村史の会は、毎年、喜連小学校で6年生対象に喜連村の歴史について特別授業をされています。先日はその内容をプレゼン資料で紹介されました。何故私がこの読書会に参加したのかと申しますと、私は喜連西小学校出身であり、喜連は高校を卒業するまで育った故郷であるからです。私の住んでいた団地は既になく、今はマンションが建っていて、当時の面影はありません。しかし、喜連西小学校の南には大塚地蔵というお地蔵さんがあります(電気屋さんの一角)。これは、私が5年生の時のこと、低学年の子どもがボールを取ろうとし車の下に入った所、動き出した車にひかれて亡くなり、その後建てられたものでした。そのお地蔵さんには「大塚地蔵(喜連西地蔵)」と書かれてあります(ストリートビューでも見られます)。この大塚という地名は大きな古墳があった証だそうです。こんな話を興味深く聞くことが出来て、自分の生い立ちを確かなものにしてくれます。


2023/1/30  学校から水泳が消えていく
水泳の民間委託が現実味を帯びている今、私はやがては水泳は学校からなくなっていくと考えています。一旦そうなったところで、「はやり水泳は学校に必要なんだ!」という声が上がってほしいのですが。プールの老朽化という問題と教師の働き方改革という問題が同時進行で進むこの状況に対して、なす術がないと言った感じです。
唯一、学校水泳が生き残る道は、安全目的に行う着衣泳などの水泳指導しかないでしょう。平泳ぎやクロールなど速さ追求の近代泳法は止めることです。1988年7月に起きたなだしお事件がいかに近代泳法が役に立っていないかを物語っています。 民間に任せず、教師が水泳指導をするためにも、背泳から着衣泳に至る指導のノウハウを身につけるべきではないでしょうか。


2022/03/31 教科担任制について考える その⑦
「小中連携」ということで、かつて中学校体育教師が小学校に来て授業を行うことがあった。受ける小学校の方で何をしてもらうのか管理職は考えたのだろうが、何故かスポーツテストの補助として来てもらうことになり、当日は測定種目の一つに入ってもらったのだった。スポーツテストが始まる前に全校児童の前で紹介があった。校長から「小中連携で中学校から来ていただいた・・・。」と、やたらと「小中連携」という言葉を強調していた。その後、中学校体育教師は朝礼台に上がって準備運動をすることになった。ラジオ体操の音楽が流れかけたが、不安だったのだろう(その気持ちはよく分かる)。急遽音楽が中止になってストレッチにかわった。「とりあえずスポーツテスト」は、来てもらった体育教師に余りにも失礼ではかなったか。小中連携で何を目的に行うのかを抜きに、ただ「小学校と中学校が連携して子どもを見てますよ。」というメッセージを単に発したいがためにやるとこのような失敗が起きるのである。先生になりたての若い体育教師はどの様な感想を持ったのだろう。これは、私が勤めた学校でのケースだが、他校でも体育の「小中連携」が大抵酷いと聞く。ある学校では、中学校から来た体育教師は、整列や行進を最後までしていたという。しかし、小学校の教師が期待する学習規律や規範意識という思惑と一致しているのだそうだ。本来、小学校が期待するものは専門性ではなかったのか。これでは、生活指導のためにある小中連携である。小中連携と言っても、中学校に教えを請うというこの関係がおかしい。小学校教師が中学校に行って教えることがないというのもおかしい。この小中の上下関係が崩されない限り言葉だけの「小中連携」になるだろう。制度だけ先に決めて、後は現場の工夫でどうにかしろといういつものやり方である。体育専科に話を戻すと、一貫校では中学校の体育教師が小学校の授業をするようである。私の見てきた中学校体育教師が余りにも酷いだけに、教えられる子どもが可哀想だ。専門性を期待されているのだから、生活指導ではなく、本来備えているべき専門性を発揮してもらいたいものだ。


2022/03/27 教科担任制について考える その⑥
体育科教育3月号に描かれている体育専科の形を見る限り、担任と体育専科が一緒になって行うTT方式が望ましいとされているようだ。「学級担任が体育授業に関わりながら、専門性のある体育専科が良質な体育授業をする」のだろうが、既に算数のTTで失敗しているではないかと思う。習熟度別指導が流行った20年ほど前、少人数加配が多くの学校では算数に充てられた。そして、習熟度別の分割にするか、TTにするかでいろいろ論議したものだった。習熟に反対する人たちは、単純分割の少人数指導で授業を進めたが、TTで授業を進めたりする学校も多く見られた。私が勤めた学校でも、教師間でも意見が分かれ、いろんな形の授業を経験してきた。結論的には、TTは止めた方が良いと言うことである。その理由として、まず、教えるという魅力を失う、ヤル気をなくすことである。TTでは、T1、T2と分かれるが、授業を自分で進められず机間巡視ばかりするT2はやりがいがなく面白くない。また、授業や進路調整の打ち合わせの時間も確保できない今に合ったやり方だとは思えない。そもそも、人数が足りないの学校の現状からすれば、同じ時間に2人の教師が教えるのは無駄だろう。それよりも、習熟には反対だが、そうなったとしても、分割授業の方がまだましだということである。(習熟をしない>習熟>TTという図式)小学校の体育専科を考えたときにも同じ事が言えるのではないか。20年前の失敗を教訓とすべきである。


2022/03/17   教科担任制について考える その⑤
体育科教育3月号には「小学校体育の教科担任制の導入に向けて」という小特集が組まれている。その中の論考には、既に教科担任制を実施している学校でとったアンケート調査を考察しており、そこには興味深い結果が載ってあった。「体育は専門的な教員が担当するのが望ましいと感じる一方で、学級担任が体育授業に関わりながら良質な体育事業を目指すことの重要性を、多くの教員が認識していると言う事実を明らかにすることができました」とある。この質問が、「教科担任・専科教員に単独で任せるのか?(32.53%)学級担任を含めたTTが良いか?(67.47%)」という問いなので、「体育の授業は、専科が良いのか、学級担任が良いか」ではない。しかし体育を専門としている教師は、体育で学級経営を行っており、体育と学級経営は一体であると理解できる。それなら、高学年になれば体育を教えられなくなるので、高学年の担任を避け、それ以下の低中学年の担任を選ぶのだろうか。また、体育専科となると学級経営が出来ない訳であるから、学級経営を求める教師は、体育専科を敬遠するだろうか。各校でどのように体育専科が決まっていくのか。いったのか。4月から始まる体育専科に注目したい。


2022/03/14   教科担任制について考える その④
体育の教科担任制を考えてみたい。そのモデルとなるのが中学校教師であるが、同志会の中学校教師は別として、私の見る限り専門性を発揮できる体育教師はほとんどいない。中学校の授業を参観する時があるが、今まで唸るような授業を観たことはない。それどころか、観てもらう授業にもかかわらず、何故そこまでお粗末な授業しかできないのかと唸ってしまう。卒業した子どもの中学校での様子を観に行く機会があった。水泳の授業だった。私の教えた子どもがプールサイドで正座をさせされていて、教師は気に留めることなく淡々と授業を進めていた。他の子どもは教師の一方的な指示でただ単に泳ぎを繰り返している。何の疑いもなく一所懸命教師のメニューをこなしている子どもが可哀想にさえ思えた。こんな恥ずかしい授業がよくもできるものだと思った。私(たち)から見れば、たった一つの教科しか教えないのに、体育の専門家として恥ずかしくはないのかと思う。そういう教師は教科指導に魅力を失い、部活に生きがいを見出すのだろう。或いは、生徒指導に力を発揮し、生徒指導部長の肩書きを添え、行く行くは管理職の道を進むのだろう。これが私が見てきた中学校体育教師の姿である。部活や生指に忙殺され、本来求められる教科指導での専門性が発揮できていない。中学校体育教師を見る限り、小学校の体育専科というものが望めないのだ。


2022/2/26  教科担任制について考える  その③
教科担任制をめぐる問題は、究極は一人前の小学校教師とは何なのかと言うことを問うことだと思う。従来、多くの学校では一部の教科、特に、音楽、家庭科は専科の教師が教えてきた。しかし年度によっては、音楽や家庭科を担任がしなければならないこともあるし、低学年ではほとんど担任が音楽を教えているだろう。私の話となるが、かつて家庭科を教えた年度が何度かあった。「果たして自分が出来るのだろうか」と学年当初は不安だった。しかし、いざやってみると結構面白く、自分でも出来るものだと言う不思議な自信を持てたことを思い出す。また、低学年の音楽ではオルガンを弾けないので、子どもと一緒に鍵盤ハーモニカを練習した。子どもが指を動かすのと同じように、自分もたどたどしく練習していたこともある。それも結構面白かった。こうして、小学校教師は自分の不得手をなくし、経験と共にどの教科も教えられる教師になっていくものだと考える。教科担任制になれば、学級担任はある教科を教えられないことになるし、教科担任はその教科しか教えられないことになる。教師の教える教科が限定され、専門の教科しか教えられない教師を量産することにもなる。とりわけ学級経営など形のない教師文化は学級担任を経験しないと継承されないだろう。果たしてそれで良いのだろうかと言うことが問われるのだ。結論から言うと、教科担任という専門家の道を目指すのではなく、どの教科も教えられる力量を持った教師が初めて一人前の小学校教師になれるのだ。それを壊していく教科担任制である。このような負の部分をどう埋めていくのか、各校での論議が求められるのだが、そんな時間は無いだろう。


2022/2/20  教科担任制について考える その②
退職最後の年は理科が専科だった。教務の先生が理科を教えたいと言うことで、5,6年の理科は専科となった。家庭科や音楽も専科だったので、空き時間が増えて嬉しい半面、理科の授業が教えられないことが残念に思えた。理科そのものを教えられない不満もあるが、学年で集まって教材研究が出来ないことが大変残念に思えた。理科では新しい単元に入るときは、学年の教師が理科室に集まり、予備実験を行ったものだった。経験のある教師から教科書にも載っていない様々な理科のハウツーを教えてもらえたし(教師文化の伝達)理科室の備品の数々を知ることが出来た。それ以上に、予備実験をしながら子どものことについて常に会話を重ねていた。教科担任制になると、子どもの情報交換ができなくなるのだ。もちろん定期的に学年会を開けば良い話ではあるが。算数、理科、英語、体育。教科担任制になると、同じ学年の教師間の繋がりが希薄になるような気がする。中学校はそうだと言われれば話はそれまでになってしまうが、小学校での学級担任の意味を再確認する必要がある。


2022/2/14  教科担任制について考える その①
4月から教科担任制が始まるそうだが、この報道には呆れてしまう。「算数や理科は5、6年生から授業が難しくなるよね。それに日本はいま国際化教育にも力を入れている。だから、英語も含めて専門の先生が教えることで授業の質を上げるねらいがあるんだ。体育については、定年後も働く先生が増えていることもあり、体力面も考えてのことだ。」体育だけが、専門性よりも定年延長の教師のために教科担任制になると言う。未だ芸能教科と言われる域を脱していない。体育を専門にする先生たちよ!これ程馬鹿にされて悔しくはないのかい!


2021/3/31   最後のあいさつ
3月31日は私にとっては教師最後の日でした。午後3時にほとんどの職員が職員室に集まり離任式が始まりました。私を含め7名が学校を去ることになっていました。最後なので、思いを存分述べたろうと思っていたのですが、7名もいるので、短い離任のあいさつになりました。「自分はかなりうたれ弱く、トラブルがあると随分引きずってしまう教師であったこと」「そんな教師でも定年まで勤めることができたことに感謝」「しかし親とのトラブルなど辛いときに助けてくれる管理職は極めて少なかったこと」「そんな管理職に限って『チーム○○』と言うが、その度に『チーム教育委員会やろ!?』と思っていたこと」「管理職たるものは、職場の教師がピンチになった時に、助けになることが一番大きな役割であること」「教育委員会のイエスマンが仕事ではないこと」など。管理職の心得を説いたような最後のあいさつになってしまいました。


20/5/31なぜ「浮く・泳ぐ運動」が「水泳運動」にかわったのか? 
この間の「おもしろ体育スクール」のでは、学習指導要領における中学年の水泳についてお話しました。
2002年学習指導要領→3年 基本の運動 「浮く・泳ぐ運動」 4年「水泳」
2011年学習指導用量→中学年 浮く・泳ぐ運動「呼吸をしながらの初歩的な泳ぎ」が登場
2020年学習指導要領→中学年 水泳運動 「呼吸をしながらの初歩的な泳ぎ」
2011年に4年「水泳」から「浮く・泳ぐ運動」に変わった理由としては、高学年の近代泳法の習熟度が低いためであり、もっと中学年の水泳で呼吸を重視した泳ぎを身につけさせることが優先され、そのために「呼吸をしながらの初歩的な泳ぎ」を導入したようです。それが、今回の改訂で「水泳運動」に変わったのはどうしてなのか?と言う質問について例会では、明確に答えられませんでした。それで、体育科教育2017.7 特集【学習指導要領の改訂】(新しい学習指導要領とこれからの水泳)を見ていたら。髙田彬成というスポーツ庁の調査官が「水泳系領域のねらい」についてQ&Aで次のように書いているのを見つけました。少し長いのですが、見てください。
「Q2 今回の改訂で、何がどう変わったの?」
・・・低学年の「水遊び」は幼稚園との接続を考慮しています。水泳に限らず、低学年の領域にすべて「遊び」が入っているのはこのためです。他方、高学年は中学校の運動につながる運動、と捉えています。つまり、中学校の「水泳」につながる運動としての「水泳運動」ということになります。これは陸上競技につながる陸上運動、球技につながるボール運動……などと考え方は同じです。これまで「水泳運動」という言葉は使ってきませんでしたが、中学校の運動につなげることを明確にするためにこのような名称を用いました。
では、中学年はどうしたか。現行の「浮く・泳ぐ運動」は、どうしても「浮く運動」「泳ぐ運動」の二つに分けて考えられる傾向にありました。そのため両者は関連性の深い運動であるにもかかわらず、一つ一つに分けて授業が組まれていたようです。これは「浮く・泳ぐ運動」という領域名称に引っ張られてしまっているからではないかと考え、中学年の名称も高学年同様「水泳運動」に改めました。そして、その中身を「浮いて進む運動」「もぐる·浮く運動」の二つとしました。従来の「浮く」「泳ぐ」という分け方ではなく、低·中学年の4年間の系統性を重視して枠組みを見直した結果です。そして、もう一つの大きな変更点として、高学年に「安全確保につながる運動」を新設したことが挙げられます。
この文章からは、前回の改訂では「浮く・泳ぐ」にしたために、「浮ぐ」のと「泳ぐ」の2つに分けて考えられていた。両者は関係がある。「浮く・泳ぐ」に引っ張られないように高学年同様「水泳運動」にした。(ここまでは分かります。しかし、それ以下の文章が難解)その中身を、「浮いて進む運動」と「もぐる・浮く運動」にしたと言うのです。(「浮いて進む」と言うのは「泳ぐ」ことではないのか?とツッコみたくなります。後者には「もぐる」が加わっていますが、これでは、従来の「浮く・泳ぐ」と変わらないのではないか?)と思うのです。この文章、どう思われますか?私の理解力がないのでしょうか?

20/5/25 英語を止めたらどうだろう
コロナで授業が出来なかった時間を埋め合わせるために、夏休みや冬休みの短縮、土曜授業、7時間授業を検討する地教委もあるという。運動会中止、水泳指導中止、校外学習中止と楽しい行事が削られて、学習だけのために学校に来るであろう子どもらがとても可哀想である。学力低下、学力格差に対する策だろうが、それらが生じているのかどうかも分からないのに、早くも決まってしまっている。学力は時間や量で決まるという学力に対する文科省や教委の見方がよく分かる。
たかが、2ヶ月のこと。春休みやゴールデンウィークをぬいたら、1ヶ月半の遅れである。そんな遅れなんて充分取り戻せる。今こそ教師の力量を発揮すべきときではないだろうか。教科書のカス教材は読んで終わりにすればいい。それほど学力低下、学力格差が心配であるなら、この際、学力が何なのかも分からない英語なんか止めてしまうのが一番良い。高学年は週2時間もあるので、それをなくして他の教科に充てたらいい。英語を来年度から開始するのも考えられる。慣れ親しむお遊びの時間なんて必要ないと思うのだが。どうだろう?

20/5/23  おもしろ体育スクール「ドル平泳法による水泳指導」
zoomによる例会がありました。30名をこえる参加者で、まずは良かったと思っています。普段見られない方や、初参加者もおられて、身内の会と言うより少しは開けた会になったのではないでしょうか?一方的な話で、いろいろ不手際もありました。また、論議の柱立てもなくて、みんなが黙ってしまうこともありました。この課題を、次回のおもしろスクールにつなげたいものです。

2020/5/6 ICTの遅れ
コロナでいかに日本のICTが遅れているということがわかったことでしょう。ネット環境や携帯があれば、担任が自宅で授業を行うことも今は可能です。それなのに、やってみようとは思わないのが、今の学校の姿です。
こういうことを話したら、「全ての家庭に揃っているものではない。」「パソコンのない家はどうするんだ」と、まあ予想される答えが返ってきます。ほとんどの家庭にメール配信されています。携帯やパソコンがあれば可能なのです。と言うより、可能を求めようとしない学校の姿があります。「できない」という答えのために、わざわざその理由を見つけてくるのです。その可能性を見つけるのが、教師の役目ではないでしょうか。ICT環境をどう整備するのかを考えるのが教師の仕事ではないのか?と厳しく問いたくなります。
これは、今に始まったことではありません。運動会で弁当を持って来れない子がいるから、運動会の保護者と一緒に食べる弁当が禁止になったのと同じ論理です。その代わりの役割を教師が担うべきではなかったか?或いは、母の日、父の日の作文を書かせない教師も然り。「それに代わる人が必ずいる。あなたは一人ではない。」そういうことを教えるのが教師の仕事ではなかったか?教師は何のために今いるのか?思考停止になってしまう今の学校の姿を嘆きます。うちの職場はそういう人ばかりなので、こういうことを話題にしてしまったことを後悔しています。

19/12/25   笑ってしまった「体力テスト」の報道
「体力テスト 小5男子全国下回る 中2女子以外過去最低」らしい。どこの番組だったか知らないが、テレビには数値が示されている背景に、反復横跳びをする映像が流されていた。子どもが靴下を履いたまま反復横跳びをしているのだ。滑りながらやっている子どもの様子につい笑ってしまった。これでは、数値も上がらないだろう。どこの学校だろう?逆に興味が湧く。

19/11/23  「気をつけ」する砂の音
ワシの学校では全校朝会の時に、朝礼台の階段の二段目に教師が上ると、全員気をつけすることになっている。その際、「シャッ」という砂の音が一斉に聞こえてくる。軍隊の整列なのかと思ってしまう。以前はそんなこと無かったが、ある教師が前の学校でやっていたやり方をそのままワシの学校でやったために、それが慣例となってしまった。「砂の音が気味悪い」などと年度末の総括に書いても、子どもが分かりやすいタイミングだと言ってほとんどの教師が支持してるのだ。ワシの感覚がきっとずれているかもしれないが、パブロフの犬の条件反射でもあるまいしやめてほしい。
これに似たのが、地下鉄の見るに堪えられないプラットホームのライン。二列に並んで待つとか、動きまで矢印で示されている。コンビニの足型やレジへのラインも同様である。こういうのをかかないと並べないのだろうか?これでは譲り合う心も生じないだろう。その根底にはヒトを血の通わないモノとみなす人間観があると思うのだが。殺伐としたイヤな世の中に学校になってきている。

19/11/11 かけ足会始まる
ワシは子どもの宿題をできる限り始業前に片づけている。朝は大変忙しくて、「頼むから横から余りゴジャゴジャ言わんといて」と子どもに頼んでいる。だから、朝の保護者からの長電話はやめてほしいと思うのだ。(もちろんそうは言ってられないケースもあるのだが。)それが、先週から「走る~走る~おれーたーちー」のカラオケが大音量で流れてくるようになった。「丸付けしてんのに、うるせー」とペースを乱されながら必死に丸を打つ。この音楽が鳴ったら、条件反射のように皆運動場へ移動する。「いつの曲なん?他に曲ないの?」と思うのだが、ワシの学校ではずっとこの曲だ。そして、かけ足が始まる。準備運動の後に、運動場をぐるぐる回っている。「歩くな~」「ファイト~」「がんばれ~」以外の言葉は聞かれない。何の科学もない。全国津々浦々、どこの学校でもこういうことをしているのだろうか?何の疑いもなく取り憑かれたみたいに走っている様子が不思議。

19/11/4   してやられた感
外国語が登場したのが2002年の学習指導要領。総合の時間の国際理解としての位置づけでした。そのため、地域によっては外国語であるハングルを教える学校もありました。しかし、「特色ある学校づくり」として多くの地教委が英語を採り入れ、英語をやっているという既成事実を作ってしまい、総合=英語みたいになってしまいました。それからゆとり教育の見直しと共に週3時間の総合の時間は、1時間は外国語となり、2011年から週2時間となって総合が骨抜きとなりました。実質英語なのに未だ外国語としていますが、20年かけて英語を導入する長期的な戦略が文部省(文科省)にあったのでしょうか?してやられた感があります。
英語には否定的な見解ばかり書いている私ですが、英語のテキストを見ていて、多文化を知るという点では、興味深いものも含まれています。外国の文化、言語、遺産を知ることは面白い。だからこそ、これは国際理解の範疇であり、本来、総合の時間として行うべきものでしょう。英語をやめてもう一度総合を見直す。本当の総合が骨抜きになってしまって残念で仕方ありません。

19/10/26 「英語をやります」って言い切ったら!?
週2回の英語。今行われている授業内容では、どうしても批判をしたくなるのです。しかし、気をつけなければならないのは、私のようなもうすぐで教師が終わってしまう者と、これからイヤでも向き合わなくてはいけない多くの人とでは違うので、できる限り生産的な書き方をしなければと自分を戒めています。
それでも、英語の授業は酷いので、こんな訳の分からない授業が続くのであれば、「中学の内容が小学校に下りてきてそれをやっている」と、スパンと言い切った方がまだましだと思うのです。それを、慣れ親しむだとか、コミュニケーション能力だとか言うから、ややこしくなり、批判もしたくなるのです。お経を覚えるみたいに何度も何度も同じフレーズをくり返すのでもなく、どうでもいい歌を歌わず、スマイルも強要せず、単語も文法もしっかり教えて、小学生に無理のない範囲で英語の授業をやった方がいいのではないでしょうか。やっぱり見切り発車。学年の到達点もない手探りの今がいけません。

19/10/20 怪しいコニュニケーション力
先日4年生の英語の研究授業がありました。Do you have~?を使って、持っている文具を尋ねると言った内容でした。その後の協議で、そうなのかと疑問に感じることがありました。よくコミュニケーション力ということが英語の授業でとやかく言われますが、その捉え方は次のようになります。
子どもには身の周りの文具がたくさんあり、テキストにも大人でも知らない単語が並んでいます。会話をするためには、最低それらが分かっていなければ会話は成立しません。実際、単語が分からずに泣いている子どもの姿を何度か見てきました。しかし、単語を知らなくても、それを乗り越えるのがコミュニケーション力だと言うのです。分からなくても、身振り手振りで何とか伝えようとする、そうすることによってコミュニケーション力が身につくと言うのです。そこで、強要されるのがスマイル、アイコンタクト、ジェスチャー。それによってコミュニケーション力が培われると言う論理です。単語を知らなくてもいい、相手に伝えようという気持ちによって英会話が成立すると言うのです。実際、授業では会話をする子どもの横に来て、「スマイル、スマイル」という声かけをしていました。
コミュニケーション力の捉え方に驚いたのですが、こういう文言がもてはやされることに危なさを感じます。百マス計算が流行ったときの集中力というのと同じような気がします。高学年であれば週2時間、中学年の活動に週1時間、私の学校では国語を犠牲にして行います。得体の知れないコミュニケーション力には振り回されたくはないです。

19/10/12 「慣れ親しむ」でいいのか
学校では既に週2時間の英語を行っています。移行期にあたる今年度は年間50時間で良いはずなのに、職員に何の相談もなしに勝手に英語の専科枠を取ってきたがために、時間割に外国語は2時間となってしまいました。時間割に入り切らない一時間の捻出をどうしているのかと言うと、朝の帯タイム(15分×3コマ)として国語が充てられ犠牲になってしまったのです。しかし、「2020年からはどうせ週2時間になるのだから」と考える人がほとんどなので、英語に対する批判は全く生まれることがなく、多くの人は先取りをしているという優越感を抱いているのです。犠牲を払ってまで週に2時間も費やすことに何の疑問も生じないというのが今の学校です。
国語が犠牲になるぐらい、英語の授業が充実したものになっているのかと言うと全くそうでもありません。英語専科の先生が、毎週の計画を立てて下さるのですが、教科書に基づく簡単なフレーズの繰り返しと、何の意味があるの?というようなゲームと、どこかのチャンツ、アニメを見て歌っているのです。
そして、出てくるのが何でも「慣れ親しむ」です。「算数に慣れ親しむ」とか、「子どもは今国語に慣れ親しんでいます」などとは言いません。そんなことを言ったら保護者が「しっかり教えてくれ!」と怒ってくるでしょう。「これやったら漢字の一つでも覚える方がまだまし。」こんな思いで、週2時間の英語の授業をやっています。

19/10/6   玉入れぐらい
運動会についても日々おかしいと思うことがいっぱいあります。これは、前々回の運動会時間短縮に関連するお話です。
昨日、運動会が行われました。一年生は玉入れを行うのですが、うちの学校でも「ダンス玉入れ」なるものをやっておりました。音楽が流れている間、ダンスを踊って、音楽が止まったら玉入れをするようです。これは時間短縮になっているのでしょうか?
まあ、それはおいといて、最後の玉入れのカウントを待っていると、「赤2、緑5、青9、黄10」と言う教師の声が聞こえてきました。入った玉の数を数えるのではなく、残ったた玉の数で勝敗を決めると言うのです。ですから、「いーち、にーい・・・」という玉のカウントはなく、これが時間短縮につながると言うのです。
しかし、玉入れの面白い所は、一年生も、他学年も、観客席の保護者も、全員で玉を数える時間にあるのではないでしょうか?どこの色が最後まで残っているのか?ハラハラしながら見守ります。最後に、その場の全員が勝敗が分かる瞬間に出会えると思うのです。残り玉を数えるのは、とてもあっさりしていて、盛り上がりに欠けた玉入れでした。応援席にいた多くの子どもも、「なんで数えへんの?」「どこの色が勝ったの?」と聞いていました。みんなで玉を数える時間ぐらい残してあげてはと思いました。

19/09/29    たかが帽子で-はびこるゼロ・トレランス-(若者への苦言 その2)
一学期のこと、水泳の授業で水泳帽を忘れた子どもがいました。昨年度受け持った子どもだったので、私の持っていた帽子を貸したのです。すると、その子どもの担任が「これを認めたら学校の決まりが全てくずれてしまう」と言うのです。まあ今は私のクラスの子どもでもないので、仕方ないことなのかと思いましたが、結局その子は暑い中二時間の水泳を見学させられたのでした。それまでも、忘れた子どもには水泳帽を貸していたので、私の行いをその教師は苦々しく思っていたのでしょう。
これに似たことは、夏期休業中の水泳教室でも起こりました。わざわざ水泳練習のために学校へ泳ぎに来ているにも関わらず、プールカードに印がないという理由で入らせないのです。問題としたいのはその教師の姿です。保護者に連絡して何とか子どもをプールに入らせようと頭が働かないのです。(私の学校では、プールカードしかダメで、連絡帳の保護者の印も認めていません。そんなために保護者から不満の声が多発しています。)
子どもがどう困るかよりも、決まりがあるからと言って、プールに入らせないことを優先させる、こう言った教師が増えてきています。ゼロ・トレランスと言うよりも、教師としての資質の問題です。「あんたは何のために教師になったの?」と問いたい所です。

19/09/24    運動会の時間短縮
去年から運動会の時間が短くなり一競技なくなりました。暑くて子どもの体のことを第一に考えたからというのは理解できます。しかし、それなら運動会の時期をずらして涼しくなってからやればいいだけのことであると思うのです。
以前、10月10日が体育の日で、この日前後に運動会をやる学校が多かったです。(「体育の日」は「スポーツの日」と名前が変わり、10月第2月曜に。来年だけは東京オリンピック・パラリンピックがあるので、7月24日になります。)丁度稲刈りの時期と重なり、運動会は五穀豊穣を祝うお祭りでもあったのです。それが、どうして9月の終わりにやるようになったのでしょう?暑いに決まっているのに、こんな時期にやること自体無理があります。
元々、9月の初めと言うと、まだ暑い時期が続くので、一学期の続きの水泳をやっていました。二学期の水泳は、夏休みに練習した成果を発表する大事な時間でもあったのです。それなのに、一学期で水泳を終えてしまう学校が増えてきました。そうすることによって、夏休みにプールの機械を動かす費用も水道料金もいらないし、教師もプールの管理をしないで済みます。全く大人の都合です。それまでプールに使っていた費用は、今何に使われているのでしょうか?学校のためにその分適正に使われているのかどうか疑ってしまいます。
最近では、暑い時期を避けて、春に運動会をやる学校も増えています。大きな行事を一学期に移したら二学期にゆとりができると言います。ところが、ゴールデンウィーク明けも結構暑いです。また、学年始まりで学級づくりもできていない段階での運動会は難しいです。そういうことで、元の二学期にもどした学校も出てきています。これも大人の都合であって、やっぱり、子どものことを第一に考えていないと思うのです。前からだけど、学校はおかしいです。

17/3/25    笑える道徳教科書検定
道徳教科書検定には驚いた。こんなことを真剣に考えておる文科省官僚の感覚には参ってしまう。
・「しょうぼうだんのおじさん(小4)」という教材でおじさんを→しょうぼうだんのおじいさんに(おじさんには感謝や尊敬の気持ちが足りないのだろうか?)
・「大すきわたしたの町(小1)」で、アスレチック公園で遊ぶ子どもたち→和楽器を売る店に(「伝統と文化の尊重、国や郷土を愛する態度の扱いが不適切」とするが、金儲けで和楽器を売るよりは、公園で無邪気に遊ぶ子どもの方が郷土を愛しているのではないだろうか?)
・「にちようびのさんぽみち(小1)」では、パン屋→和菓子屋に(パン業界と和菓子屋業界の確執が生じるだろう)
と、教科書そのものを見ていないのでなんとも言いがたいが、こんな些細なことに言及することそのものが、次期指導要領の思惑が見え隠れして危ない。

16/12/27    売名行為(若者への苦言 その1)
若い人たちが病んでいる。学校の古い体制に不満を持ち苦しんでいる姿を見て何とか力になりたいと思っていた。その思いは今でも変わりない。しかし、中には疑うようなことをしでかす者もおる。学校の古い体制の中心になる(抵抗勢力となる)若いヤツもおるし、「それは違うだろう!」という理解できない言動が目に付くときもある。その一つ目が、若いのに売名行為をしていることだ。
かなり前の中間研究集会が東京の明星学園で開かれたときのことだった。夜には交流会もあって、学生や院生もたくさん参加していたが、何人かの院生が自分の名刺を配る姿が少し気になっていた。ワシの所にも配りに来ていたのだが、ワシが小学校の教師だと分かると、配ろうとしていた名刺をスッと引っ込めたのだった。就職に少しでも役立たせようとしていたのか?大学の教師には配るが、関係のない小学校の教師には不要と判断したのだろう。ソイツはその後、どうなったのか知らないが、こんな人は教師になってもらいたくないと思ったのだった。
若いのに売名行為をするのは職場にもおる。その典型が何でも引き受けて研究授業、実践報告をするヤツだ。「おまえには思想はないのか?」と問いたくなるくらい人権でも教科でも何でも引き受ける。いろんな大会文書に自分の名前が載ることに快感を覚えているのだろう。はたまた、専門用語が並んで、誰が読むんだという難しい指導案を書くヤツもいる。指導主事に褒められようと授業をしている。
共通するのが子どものために授業をしているのではない。かつて出会った院生のように、自分の将来のためにやっているようにしか見えない。やりたいがらない若いヤツよりはましかもしれないが。

16/10/5   続き・若い人たちが抵抗勢力
かつての運動会のように、盛り上がりが運動会の評価になってしまうのはどうかと思い、今までは、午前中のプログラム最後の団体演技(組体表現)を最後にしてほしいと、プログラム変更の提案をした。(ワシの学校では、午前中の最後のプログラムに6年の組体、運動会最後のプログラムがリレーとなっている。)とりわけ、今年は組体への思い入れ(何度か記してきたようにワシは組体に熱い思いを全く持ってはいない。組体自粛を起こさせている教委や事なかれ主義の学校の姿勢に対する苛立ちがあるだけ)が、あったので今年こそ組体をやるべきだと考えていた。他学年のプログラム順を大幅に変えるのではなく、学年内での順序の入れ替えなので、すんなり受け入れられるだろうと思っていたら、そうでもなかった。
「運動会のとりを6年の演技で締めくくりたい」に対しては、予想以上に抵抗を示す意見が幾つかあった。「わからないでもないけど、変えるのはどうか」と言う意見だった。「リレーが最後だと盛り上がる」というくだらん意見に対しては過去の体験を話した。盛り上がることが運動会の評価なのか?たった2時間程度のリレーの時間。それも順番を教えるだけ。それが学習の成果の場と言えるのか?どれだけリレーらしき指導をしているのか?
驚くのが、たいてい抵抗勢力は年寄りのはずなのに、若いヤツが抵抗勢力になっていることだ。保守的な発言が何と多いことか。在るものを変えようとはしないから、学校が澱んでくる。そんなんに手を貸しているんだと言いたくなった。中には、「そんなん何に重きを置くかで、当該学年が決めたらいいこと」という建設的な意見もあったが、会議の時間がかかってしまって、この結末は、管理職の判断に任せるということになってしまった。こんな些細なことをなんで管理職に委ねんねん!!と怒っておった。
学校ってあるものをなかなか変えようとはしない古い体質がある。若いヤツが抵抗勢力になってどないすんねん。彼らがこれからの日本の教育を支えるのかと思うと、将来は暗い。

16/9/22    若い人たちが抵抗勢力 ーリレーの話ー
「若いヤツが抵抗勢力」というお話をしたいのですが、その前段としてのリレーの話をします。そして今話題の組体操についての話へと続くので、まずはリレーの話から。
これは体育の雑誌にも一部書いたことです。『かつて6年生を担任した時のことです。リレーは運動会プログラムの最終競技になっていました。四色対抗のリレーはアンカーがほぼ同時にバトンをもらい、最終のゴールまで決着がわからないという白熱した展開となりました。驚いたのがその歓声でした。悲鳴とも思えるような声が運動場全体を包んでおり、運動会最大の盛り上がりを呈していました。そして、プログラム終了後や、運動会が終わった後も、「さすが6年生です」「今年の運動会は最後のリレーで良い運動会になりました」と言う感想をすれ違う保護者から幾度となくもらいました。しかし、実際はほとんど組体操の練習に時間を費やし、リレーはというと、順番を覚えるために練習を2回程度持っただけでした。組体操の評価ではなくリレーへの賛辞に、複雑な思いを抱いたのでした。他学年の教員からも同じような感想をもらったのは本当に残念なことでした。その時感じたことは、観る側は運動会に何を求めて観覧しているのかということです。観る側が求めているのは、瞬時の面白さ、快楽かと思ったくらいでした。』
どうでしょうか?全員リレーをするとどうしても差がついて、中には半周以上離されているリレーさえあります。それと比べたら最後まで決着がわからないリレーは、観衆を惹きつけます。バトンパスの指導なんてほとんでしていないのですから、それが下手くそでも何でもいいのです。競ったシーンさえあれば観衆の心を充たすのです。「素晴らしい運動会をありがとう」という声に戸惑うばかりでした。

16/9/19    注目の実践と言うが・・・
以前に片本支部長と飲み会の席で話していた他愛もないこと。全国大会に出てくる実践に対して「注目の実践」などというのはいかんよなという話だった。どこか実践に対して優劣をつけているみたいで、そんなんは同志会に馴染まんやろということ。「注目の実践」の裏にはほとんどの「注目されない実践」があって、誰もが一所懸命実践して持って来るのにそれはいかんやろという話をしていた。「全国研究局の目にたまたまとまった実践」とか「研究局の意向に沿った実践」とか、長ったらしいからいっそう「冬大会で報告する実践」であってもいいわけ。研究局の意向に沿った実践が多くなったら、それこそ変な研究団体になってくる。自分勝手にねらいを決めてやっている実践がたくさんあった方が健全な研究団体だと思う。「注目の実践」はやっぱりひっかかってしまう。

16/9/4    骨抜きの組体報告書
市教委への報告書は、何度か書き直しをさせられて、結局骨抜きの文書が送られてしまうことになってしまった。と言うのも、この文書自体、校長名で教育長宛に報告するので、校長の推敲(推敲はよりよいものに仕上げることなので、この場合、改悪がふさわしいか?)が入り、教委の姿勢に意見するという部分がカットされてしまった。
ワシが問いたかったのは、子どもの安全を第一に考える機会となったのは評価できるが、上からの通達や書かなければ実施できないような報告書は、組体操自粛ムードを起こしていること、巨大ピラミッドに代表される組立体操だけでなく、組体操までも否定してしまう風潮を作っていることを強調したかった。しかし、「言い方を柔らかくした方がいい」とか、「過激な文言を控えた方がいい」とかの校長の注文が付いて、一番言いたかったことが伝わらない中身となってしまった。
また、驚くのが、組体操を学習指導要領との関連づけをしようとするのだ。組体操は学習指導要領にも載っていないが、「体つくり運動」「表現運動」に相当する部分を無理に引っ張ってきて、何とか関連付けようとしている。「教育委員会様、組体したいので、どうかさせてください」のような中身になってしまったのが気に入らない。

16/8/29   続・組体操
市教委から下りてくる報告書を書かないといけない→そんなのは面倒だし事故とかあってとやかく言われるもなんだから→組体操はやめとこう。こんな理由で止める学校が増えていると聞く。報告書のプレッシャーが組体操自粛ムードを引き起こしている。
ワシは組体操に特別熱い思いもないけど、こんなくだらん理由で止めてしまうのもおかしい。今年こそやる意味がある!!という思いで、報告書を書くことにした。
報告書を書くにあたって、学年の先生と組体操についていろいろ話し合った。一番先に考えたのが、やはり子どもの安全。「教師が補助につかなくてはならないような危険な技をどうしてする必要があるのか?」ということで、三段タワーは止めることにした。また、「子どもの顔も見えない技は省こう」と言うことで、誰がどこにいるのかわからない巨大ピラミッドも止めにした。
結局、形としては、自粛ということになってしまったのかもしれない。しかし、高度化、高層化を目指さない組体操もあるはずで、組体表現としての形を追求したいと思う。

16/8/24    組体操
教育委員会が、実施するのなら書けというので「運動会・体育大会に係る組体操実施計画書」というものを書いた。
1.実施日
2.全体計画(目的・実施内容・実施技等)
3.指導計画(練習予定等)
4.練習プログラム(技の練習方法、技のポイント、留意事項等)
5.補助の仕方
6.教員の配置計画(練習期間中、当日)
7.保護者への説明(説明方法、説明日)等
という細かい項目までも決められている。
ワシは組体操に対する思い入れは全くなく、これまでも組体ではなくどちらかというと民舞に力を入れてきた方だ。しかし、組体バッシングが進む中、このような教育委員会の通達が自粛ムードを生み出し、取りやめる学校も増えてきているが、果たしてそれで良いのだろうか?こんな時だからこそ、組体操をやる意味があるのだと思う。
ワシは組体に一所懸命ではなかったが、同志会の実践では、「組体表現」として取り組まれた実践がたくさんある。テーマを決め、ストーリー性を持たせた実践は、高度化・高層化を目指していない。
子どもの顔も見えないピラミッドをやる意味があるのか?安全という面と子どもが主役という面で、これまでの組体を見直してみたいと思う。

16/8/15   やっと歩けるようになりました
5月10日に怪我をしてから約3ヶ月経ちました。左足肉離れだと診断されたのが、実はアキレス腱断裂でした。ギプスをまいて2ヶ月の松葉杖の生活。たいそうな装具を1ヶ月間。(ロボットと言われていました)やっとそれも外れて、何とか歩けるようになりました。まだアキレス腱が伸びないので、階段を下りるのが不便です。必要以上の力を加えると、再び切れそうな気がして、普通には歩けません。完全に治るまでにはまだ1ヶ月かかるようです。手術をしていないのですが、くっついているのが不思議です。
この間、ブログも止まったままでした。とにかく時間が経ってほしくて、毎日が憂鬱でした。跳び箱で怪我をしたのが何とも情けない話です。若いときのイメージはくせ者です。しっかり準備運動をしなければいけないという当たり前のことを思い知らされました。

16/5/22    情けないお話
先々週の火曜日の放課後、学年の先生たちと跳び箱の指導の仕方について、実技を行っていました。今子どもたちが挑戦している台上前転、ネックスプリング、ヘッドスプリングなどをやっていました。「55歳になってもなかなかできるもんやないの」と調子に乗って跳んでいたら、ロイター板を踏み切ったその瞬間、左足に激痛が走りました。左足裏の感覚がしびれているのか?どうも変で、歩くのも困難でした。すぐに、整形外科に行ったところ、肉離れだと言われました。アキレス腱とふくらはぎの間が特にが痛くて、足が伸びません。今は湿布を貼って足首を固定していますが、歩くのが困難です。完治するのには時間がかかるようです。中間研究集会の時は、つえをついて歩いていました。すると、地下鉄では見知らぬ人から一日乗車券をもらったり、席をゆずってくれたり、福岡の人は優しい。学校でも、手すりを使って階段を上っていると、「先生大丈夫?」と声をかけて、子ども達も優しいです。準備運動も十分せずにやったのが失敗で、気持ちは若くても、体はそうではないというのがよく分かった次第です。

16/4/11   ~流~式
新年度が始まり、教育書の置いてある本屋に行ったら、○○式、○○流といった類いの本が平積みされてあった。自分の名前に○式、○流とつけているのだ。本の表紙には、そのおっさんの顔がアップで載せてあって笑顔がとても暑苦しい。こんな趣味の悪い書籍を求める教師がおるのだろうか。見ていたら固有名詞だけでなく秋田県式というのもあった。○式は誰もが広くその効果を認めるものであって、水道方式、オギノ式(この二つを並べてよいのかわからないが)ぐらいなのに。公文式は確かに個人の名前だが。
また、○流には個人の名前などつけてはいけないと思う。茶道や華道や日本泳法の流派がつけるものであって、これに人名などが付くこと自体畏れ多い。自分の名前に「式」「流」など付けて恥ずかしくないのか?教師のセンスが問われている。

15/12/13    Thirty Years Ago  30年前のお話
その人の顔を久しぶりに見ることができた。動員で生かされる出張があって挨拶を遠くで聴いていた。人権団体の重責を担われているこの人とかつて一緒だったことがあり、たくさんのことを学ばせてもらった。「子どもの前に立ったらたくさんの事を言わない」などはこの人から教わったことであり、今でもワシは肝に銘じている。卒業式前になるとその人は会議でこんなことを言っていた。「部落差別の諸悪の根源は天皇制である。その象徴の日の丸を掲げ、君が代を歌わせるとは何たること!!」と管理職に詰め寄っていた。ワシも感化されて同じように反対の意を述べていたのである。
しかし、聞くところによると、今は町の行事では堂々と君が代を歌っているそうだ。変節したのか、やむを得ないとして歌っているのか知らないが、人権団体の偉いさんになって大会で分かりきったようなことを話している挨拶の中身全てが嘘くさく聞こえてしまう。子どもに語る資格なんてないだろうと思うのだ。
同和教育が暗い影を落としていた30年前。ワシは奈良県の教師になった。あのときの全ては何だったのか?同和に関する一つ一つの場面、吐かれた数々の暴言、滑稽とも思える話し合いに費やした時間。傷つけ合った会議。あれらは一体何だったのだろう。そうでない時代になったことを心から歓迎したいのだが、何もなかったかのように進む今が信じられないのである。

15/11/24    研究協議がおもろない話
2学期にはたくさんの研究授業が集中するので、自習させて授業を観に行くのが大変。「ふざけとらんやろな」と思いながら参観するので、しっかり参観できていない自分がいる。
まあ、授業はいい。いらんのが研究協議だ。ワシの学校の研究協議は次のようにして進められている。
①授業者から今日の授業について語る。②授業を一緒に考えた学年から話す。③今日の授業についての意見交流 (ここまでで約40分)④講師(たいていは指導主事)からの話(約40分)
何かテーマを決めてそれについて論じ合うのならわかるが、各々が感想を述べるので、とりとめもない話になってしまう。40分間も時間があるので、なかなか自分から発言する者は少ない。この間は司会をした。いつものようにシーンとなったまずい空気が流れていたので、少し冗談交じりに、「教室では子どもにしっかり意見を言いなさいとか言うてるんちゃうん!!」「そんな自分でええのかい?」とか、「私の視線を外す人は当てます」とか言って発言を促した。すると、ぽつぽつ手を挙げて発言し出すが、一度しゃべり出すとまあこれが長い。「この子は1年のときはこんなんやった」とか思い出を話をする人もいる。話したい内容についてエピソードを援用する発言をせずに、エピソードを繰り返し語るから時間がかかってしまって深まりのない発言となる。(しかしこれは同志会にもおる。数珠つなぎのような話をして結局何を言いたかったのか分からない独りよがりの人)自分から言わないくせに、当てられたら長々と話す。これは教師の悪い癖だ。
最後は、指導主事が感想を述べてまとめを行う。中には指導要領の解説をするような指導主事もいて、講師からはこれまで余りためになる話をきいたことがない。また、指導主事の発言に対して、意見を述べる時間が設定されていないのも問題だ。更に80分も長すぎる。「こんな身にならん研究協議やめへんか?」「身内で突っ込んだ話をした方がためになる」と言い続けてきたが、このスタイルは変わらない。他の学校は、どうされているのか聞きたい所である。

15/11/15   免許更新講習を終えて思うこと
くだらない免許更新講習については書きたくないのだが、これを受ける側(大学)の問題について最後に触れたいと思う。前にも書いたことだが、1つの講座を除いて本当に疲れる講座だった。受講するワシの意欲のなさも問題だと思うが、「こんなひどい授業をよくぞ提供してくれたものだ」と呆れるものが多かった。特に一般教養(2日12時間1万2千円)はひどい。共通しているのが用意したパワーポイントを延々と見せて、一方的に話す講義タイプだ。中には、明らかに準備不足の先生もいた。パソコンからいろんなパワポを講習中に探して、前で「これちゃう」とか「これでもない」とかブツブツつぶやいているヤツもおった。どこかで話をしたパワポの流用もあった。授業に真摯に向き合っているのか?学生がよくこれで文句を言わないものだと思った。だから、最後のアンケートには思いをつらつらいっぱい書かせてもらった。同志会の大学の先生達がこんなひどい授業をしていないことを信じたい。

15/11/12  続々・免許更新講習
免許更新の修了証が郵送されてきて、これでやっと終わった。しかし、とても失礼な紙切れが添えてあったので、ここに紹介したい。「願い出のありました免許状更新講習修了確認書をお送りします。お確かめの上、お受け取り下さい。なお、証明書は再発行できませんので、次の更新時まで大切に保管くださるようお願いいたします。」
「願い出のありました」という文言がとても腹立つ。誰がお願いをしたのか?3万円払った上に3千円の収入印紙を貼らされて郵送したこの書類だ。書くのであれば、「願い出のありました」→「高額出費をされた」とか「時間と労力を費やされた」に訂正すべき。
二つ目は、「次の更新時までに」とある所だ。ワシにはもう次はない。35歳、45歳の人であればわかるが。年齢も確認せずに、皆に同じ文書を送っているのであろう。もうちょっと配慮がほしいものだ。
思えば「美しい国づくり」などと言っていた一次安倍内閣の時に、教師バッシングの旗印としてできた免許更新制度。次の民主党政権でなくなるという淡い期待もあったが、なくなりはしなかった。これでワシは二度とないものの、これから何回か無駄な時間を費やされる教師の皆さんがとても可哀想である。

15/8/12  続・免許更新講習
ワシは55歳になる年なので対象者だが、ほとんどの人が「あと5年で定年なのに、どうして免許更新に行かなければならないのか?」と不満に思って受講されていることだろう。5日間3万円。時間と金の無駄使いだ。免許更新講習が既に終わった人からは、「行って良かった」という話は余り聞かれない。せいぜい「5日間もまあよくやった」とか、「人の話を長時間聞ける忍耐力がこの年になっても残っていてよかった」など、講習が良かったと言うよりは、講習に耐えて頑張ったという感想である。
さて、講習の対象者が、どうして35歳、45歳、55歳なのか?その根拠を知りたい。違う年齢の教師が、互いの意見や実践を交流し合える時間があるなら分かるが、一方的な大学の先生の話で、受講者が発言できるのは質問ぐらいである。同年齢の教師の間で意見交流できるならば、もうちょっとましな講習になっていたことだろう。
ただ、35歳、45歳、55歳と言う区分は、とても分かりやすい。顔を見たらだいたい年齢が分かってくる。中には、「45歳にしては老け顔、55歳にしては若作りやな」という判断の難しい方もおられ、こういう観察をすることぐらいしか楽しみはなかった。

15/8/9  免許更新講習
去年2日間行った免許更新講習に、今年は残りの3日間大阪教育大に行ってきた。なぜ3万も払ってこんなことをしなければならないのか?全ては安倍のせいだけど、ほとんどの受講者はワシのようにその意味を見出せないまま、学ぶ意欲がかなり低下した状態で参加しているのではないだろうか。講座を開いている大学の先生もそう言われているくらいおかしな制度だ。
夏は暑いからプール。そんな軽い気持ちで体育の講座を選んだ。1日目は水泳の実技と講義。2日目は指導要領の解説と熱中症の講義、3日目は、ボール運動の実技と講義だった。同志会の大学の先生はどうなのか知らないけど、パワーポイントを見せて延々と話すそのスタイルは皆同じでとても退屈した。教師はしゃべりたがりで常に口がムズムズしているというのを知らないのだろうか?参加型の講習を大学の先生は考えられないのだろうか?学生が可哀想だと思った3日間だった。

14/12/14    グーパー体操
11月の全国常任には福井県の先生が来られていた。福井の学校では握力をつけるために毎朝グーパー体操をやっているという話をしておられた。そして、先日テレビでもその場面が放送されていたので、「これか!!」と思って観ていた。福井の子どもは業間にも校舎の周りをぐるぐる走っている様子が映っていた。日本地図が用意されていて、走るごとにマス目をぬっていくようだ。テレビというのもあるのか、イヤイヤ走る子どもは見られなかった。雨で駆け足がないと校舎中が歓喜の渦で包まれるワシの学校とは大きな違いである。
「楽しい体育」は眼も触れず、頑なに子どもが嫌がっていた「体力づくり体育」を続けてやっていた福井県。それが今や学力も体力もトップクラスとして福井詣でが始まっているというのはおもしろい現象。全国常任のときに紹介されていた『福井県の学力・体力がトップクラスの秘密』を読んでみた。福井の子ども達は、無言で掃除をするそうで、ワシの学校では考えられないことだ。「しゃべってたら掃除でけへんやろ!!」と叱りつけるときもあるが、無言で掃除する子どもも気持ち悪い。しかし、修身が復活するかもしれない今のご時世、規範意識についてとやかく言う人には無言清掃は受け入れられ易いだろう。この無言清掃、永平寺の修行僧をモデルに中学校の取り組みから広まっていったようだ。中学生が無言で掃除する姿は、もっと想像しにくい。

14/12/7 生きている証拠探し
今年も「からだ気づき」をやっています。理科室の人体模型をフルに活用しています。人体模型で背骨や肩甲骨の観察を行いました。人体模型の足首を外して(ほんまはアカンと思うのですが)、自分の足先と比べました。その時は、跳馬で着地に失敗して足首がとれた(外れた)体験談も欠かさず話しました。
先日やったのが、「生きている証拠探し」でした。ペアになって、観察したり、触れたりして生きている証拠を見つけるというワークショップです。子どもの感想には次のようなものがありました。「4年前、ひいおばあちゃんが死にました。ひいおばあちゃんの体をさわりました。すごくつめたかったです。ペアの人の体は温かかったです。人が生きている理由が分かってよかったです。」友達の体に死んだおばあちゃんを重ね合わせ、生きていることを再発見しています。他の教材や学習ではできないことではないかと思いました。

14/10/26  お局について
先週は組合の教研集会があった。教科ごとの分科会は成立せず、随分前から発達別分科会になっている。それも、どんなレポートが出るのかも事前に分からないという落ちぶれよう。ワシは中学年の分科会の運営を任されており、レポートのない時のために、幾つかのプレゼンを用意して、分科会に臨んだ。案の定、ワシを入れて3人という少なさ。時間が有り余っているので、学校の話をしてたら、お局のことが話題となった。
真面目に実践されている方からすれば、「お局」と言う言葉自体女性蔑視だと思うが、分科会では、「お局」として君臨する女性教師は、各学校にいるなと言う話になった。以下その内容である。
・お局は低学年しか担任しない。人事では最後までわがままを押し通し、低学年から人事が固まってくる。(それを受け入れている学校も問題。)
・お局は、「私も若い頃はやったものです。」と言って研究授業をやらない。教師力がつくとうまいこと言って若い者に振る。
・経験だけで教師をやっており、目新しいものを採り入れようとしない。
・他の担任が違うことをすれば極度に不機嫌になる。「私のクラスはやっていないから学級通信を出すのをやめてください。」って当たり前のように言う。
・掲示物など、教室のデザインを統一しようとする。
・休憩時間は必ず職員室にいる。
・旅行のお菓子は欠かさず配る。おかき類が特に好きである。ポリポリ音を立てて食べるのが似合っている。
他にも、もっとひどいことが出てきたが、ここには書けないことのでこれくらいにしておく。大規模校では、低学年に集中するので、そこに行かされた若い教師が可哀想である。お局同士の対立に巻き込まれ、おろおろする若い教師もいる。自分と違ったことをしたら、いい顔をしないというのは本当にやりにくい。教師以前に人として問題だろう。こういう人にこそ、免許更新講習を受けて頂きたいものである。

14/10/13  子どもの体力低下
朝日新聞の一面に「子供の体力 85年ごろピーク」という見出しで、子どもの体力を憂う記事が載っていた。文科省が50年間を分析したらしい。それによると、小中学生の体力が、1985年度ごろをピークに低下していること。五輪が国内で開かれた後に向上する傾向があるので、その期待が高まると言ったような内容だ。大学の先生によると「80年ごろまでの学校は、運動の苦手な子に歯を食いしばって頑張らせる『根性型』の指導をしたが、徐々に『苦しければやらなくていい』となった。結果的に全く運動しない層が現れ、平均を押し下げた」と分析している。「体力を向上させるためには、歯を食いしばってでもさせるろ!!」と言うのは世間受けするだろうし、ワシの学校なんぞは積極的に受け入れることだろう。
しかし、「体力づくり体育」は多くの体育嫌いを産み出したではないか。その反動で「たのしい体育」が始まり、30年間続いたのだ。これをどう見るのか?またまた、休み時間も走らされ、行進ばかりさせられる体育にもどるのだろうか。歴史の過ちが再び繰り返されようとしている。
以下、思いつきの疑問。
①85年の子どもの体力に戻ることが必要なのかどうか?
②85年の子どもが大人になって健康的な生活を送っているのかどうか?
③東京五輪が始まった64年度よりも今の子どものテストの結果が上である事実をどう見るのか?
④子どもの体力はどういう値を示せば良いと言えるのか?国際比較も必要。
このようなことに触れた上で、子どもの体力について報じて欲しい。朝日に限らず、体力低下を煽る報道しかできない新聞社にはいつも疑問を持つ。

14/9/28 実習生が教育実習を終えて
先週、実習生による研究授業があり一ヶ月の実習が終わった。何を言っているのかよくわからない話し方も、ぎこちない動きも、例えるなら丁度高見盛のようだった。小学4年生に対して、板書の1文字が、手のひらほどの大きさの文字を書くので、黒板が足りずに前で困っている彼。発した言葉に子どもがポカンと口を開けており、その様子に前でまた困っている彼。日々失敗を繰り返す彼だったが、誠実なためどこか憎めない。「職員室の掃除などしていないで、教材研究しろ!子どもとの関係を作れ!」と苦言を呈したが、根は真面目なので、研究授業に向けて一所懸命プランを練っていた。運動会予行の日も、「出んでええから、しっかり発問を練って!」と言ったら、教室で4時間目まで向き合っていた。当日は、4年生算数「四角形の対角線」の授業だった。強引なまとめ方だったものの、しっかり教材研究したために良い授業ができた。彼にとっても自信に繋がったようである。
教育実習では、ワシのクラス以外にも、他学年の授業参観に行っていた。そこで、様々な教師の授業に出会ったようだ。中には、実習生が悩んでしまうような授業や、ブログに書けないようなえげつないことをしでかす教師もおったようで、いろんな教師に出会い、ある意味勉強になったようだ。自分がそうであったように、「学ぶ教師、学んではならない教師の取捨選択をして、自分の理想とする教師像を描くものです。」と最後に偉そうに言わせてもらって、教育実習が終わった。

14/9/14  続々・教育実習
先週はまだ頭にくることがありました。実習生は4年生のワシのクラスに来ていますが、3年生の先生から放課後に運動会のグッズを作る手伝いを頼まれたようです。それをきいたワシは、「そういうことを頼むのはいかんでしょう。実習生にはいろいろやることがあるんですよ!」ときっぱり断りました。どうも、教育実習生を便利屋みたいに思うておるのです。例え、自分の学年の4年生であっても、実習生を使うような真似はしません。しかし、人の良い彼は3年生のお手伝いに行ったようです。ワシの心が狭いのでしょうか?

14/9/13 続・教育実習
ワシは7時前に学校に着き、子どもが来る8時まで教室でぼーっとしている。教材を準備したり、掃除をしたりして子どもが来るのを待つ。この時間が何とも気持ちよい。先週、コピーをとりに2階の教室から職員室に下りたら、何と実習生が職員室の掃除をしていた。「何やってんの?そんなんせんでええって。」と言った。実習生が教室に入ってくるのが遅いなと思っていたら、掃除をしていたのだ。放課後、「誰かにせえって言われたん?」「大学でするよう言われた?」と聞くとそうではないらしい。自分からやってるとのこと。
それで、「今あんたにとって大事なのは、職員室の掃除よりも子どもとの関係を作ること!」「子どもを教室で迎えてあげてはどう?」と苦言を呈した。教育実習生が職員室の掃除をやってるというのは聞いたことがない。それを「ようやってる」と評価する職場が何とも情けない。ワシがやらしているようで、大変気分悪かった。

14/9/8  教育実習
新学期が始まり1日からワシのクラスに教育実習生が来ている。礼儀正しいいい人だが、余りにも子どもと接する態度がぎこちない。若いんだから子ども達(4年)が取り巻くだろうと思いきや、一緒に遊んでいる姿も余り見られない。一週間が経ったが、自ら話すでもないので、クラスの子どもとも話が弾まず、子どもが寄りつかない。先生になったらきっとやっていけないのでは?というほどいい人すぎるのだ。教師には向いていないワシが何とかやっているので、彼にもやっていけるように何とかしてあげたい。一ヶ月の間に何ができるのか思いを巡らせている。

14/9/21   続・体育主任について
かつて体育の雑誌に書いたことがある。これもワシの市だけかもしれないが、体育主任となることが管理職の近道となっているということだ。各市町村には教科ごとの研究会があり、各校輪番制の研究授業や休業中の研修、体育では、夏期休業中の陸上記録会や水泳記録会など大規模の行事が行われている。校長が会長となり、運営は各校の体育主任でが担っている。この校長と言えば元々体育主任をしている場合が多く、体育主任がやがては校長となっていく。出世魚のように。
ワシの市では、会長から息のかかった(別言すれば従順な)若い教師が体育主任になり、研究授業のための集まりや水泳、陸上記録会などを通して交流を深め、更には各イベント後の親密な飲み会などを通して親交を深めていく。また、異動は市町村内が多いため、前回書いたように、体育主任のポストを保障されて次校に転勤をすることがある。中学校であれば、生徒指導主任という肩書きも備えて管理職になっていく。若い教師が若い時分から志を共にして、体育を通して管理職になって行く。体育主任が管理職への近道だと考える教師さえいるようだ。

14/9/20    体育主任について
ワシの市の固有のしきたりなのかどうかはわからないが、転勤したてでまだ学校の様子も十分わからないような若い人が、いきなり体育主任になっている。前の学校で体育主任をしていたらそうなるようだ。新たになった体育主任は大変気合いが入っており、管理的な指導でその手腕を振るおうとしておる。
運動会の練習が始まった。澄んだ秋空に響く怒号や罵声に毎年うんざりしているが、今度来た体育主任は余りそんなことをしないのでホッとしていた。しかし、「休め」と「気をつけ」を何度となく繰り返すのには参ってしまった。「休め」から一斉に足を引くその音が合わないと言うことで、何度となく繰り返していた。サッという音が好きらしい。それも、朝会台から下りるタイミングが大事だそうで、動きに合わして「気をつけ」「休め」をさせている。まるで軍隊か宗教団体のマスゲームのようである。
管理的な指導しかできない体育主任は、また転勤しても、同じ指導をするのだろう。管理的な指導が濃縮されていくのだ。体育主任がまた次の学校でも体育主任となっていくこのシステムを変えない限り、まともな運動会全体練習は望めない。

14/8/26   1995年 東京大会
1995年東京大会の提案集に書かれた文書が必要だということだったので、その部分をスキャンしてABUさんに送った。自分の書いた原稿がないとのことだが、教育課程分科会の基調提案には、大阪支部がかつて取り組んでいた「競争研究」のことが書かれていた。何故競争研究なのか、どんなアプローチで競争に迫るのかが整理されている。
ほぼ20年前の東京大会。京王プラザが宿舎で、和光までが遠かったのを思い出す。提案集をパラパラめくると、ワシも水泳分科会の基調提案をしており、分かったようなことを書いた文書が残っている。この頃はまだ全国大会が3泊4日だった。特別講座が9講座もあり、中村敏雄氏、尾木直樹氏、谷口源太郎氏、宮川ひろ氏などの著名人が名を連ねている。そして、記念講演は中沢啓治氏だった。この記念講演がどんな話だったのか、あったことすら思い出せない。どれもが聴きたい内容である。とりわけ、中村敏雄講演は、水泳分科会にとっては、大変刺激的で意味深い講演だった。今は水泳分科会ではなく、水泳「水辺文化」分科会と言うのも、この講演があったからである。
もう一つ考える材料になったのが、大会基調報告である。なんとたったの5ページ。ワシはとても気に入った。長い文章よりも、スリムな文面にして、報告をしっかりする方が良いのでは。基調文章の文言校正に時間をかけるよりも、報告を充実させるのも一つの方法だろう。読まれない基調よりも、心に残る報告の方が良いに決まってる。

14/8/10   免許更新講習
全国大会を含めて9泊10日の旅行から帰ってきて、今日からあの免許更新講習が始まった。その前に、みやぎ大会の後のこと。盛岡ではさんさ踊りを見て(踊って)、富岡製糸場によって、長野では恩師に会って、いろんなことがあった10日間だった。この間、奈良ブロックの民舞教室もあったが、奈良ブロックの人たちにお任せしてしまった。
さて、今日から始まった免許更新講習。朝の9時から4時半まで、聞かされっぱなしの講習。おまけに昼までの講義は、幼保の話だった。確かに「最新の教育事情」ということだったが、幼保のことなので悪いが興味が持てない。知っておくことは大事だと思うが、今日のこの講座は失敗したと思った。募集の際、講習の対象が、幼稚園、小学校の教員とあった。講師が幼稚園の教員養成の先生だったので、幼保の話になるのは仕方ないかもしれない。しかし、小学校のことも視野に入れた話をしてほしかった。或いは、この講座の対象を幼稚園のみと明記すべきだと思った。隣にいた小学校の先生も「つらい講義でした」と言っておられた。
1教室に100人。35歳、45歳、55歳という3層の受講者が同じ教室にいる。中には判断の難しい人もいるが、10年ずつ離れているのですぐに年齢が分かってしまう。違う年齢の者が同じ教室で講義を受けている様子が奇異に感じられた。退屈なので辺りを見渡すと、うつらうつらの若いやつもいる(35歳)。「講師の前でようやりよるな」と思ったとき、Hの顔が浮かんだ。明日も、講義に耐えなくてはいけない。

14/7/30   わかってもらえない教師の夏休み
昨日のこと。民舞教室から帰ってきて荷物を持って家に入ろうとすると、近所の人から、「暑いですね。今からお祭りですか。」と声をかけられた。パーランクを見てそう言ったのだと思うが、説明するのも煩わしかったので、「お祭りは早く終わりましてん。」と返した。平日に太鼓を持っていたら、楽しいお祭りに行くと思うのだろう。先日行った散髪屋でも、「よう焼けてはるねー。こんな暑い中、プールに入ったら、気持ちいいでしょねー。」と。朝から昼まで3時間から4時間、炎天下にいることがどれだけ大変なことか、なかなか分かってもらえない。「代わってあげよう」と言いたくなるのだった。
行きたくもない出張に行かされ、聞きたくもない話も聞かされ、土日に関係なく多忙な教師の夏休みは、なかなか理解されない。世間の人たちは、夏休みと言うだけで羨ましいと思うのだろう。夏休みという語感がいけない。これに替わる言葉を探したいものである。

14/7/26 泳げるための水泳教室 4日目
水泳教室の始まる前に1部のプールがある。教師は朝の8時半から12時までずっとプールにいるのでとても疲れる。プール開放などやめたらいいと思うのだが。私は泳げるための水泳教室を指導しているので、1部の指導は他の教師がしている。プールの中に入って子どもの監視をしていたが、指導の教師がいきなり「プールサイドに子どもを座らせてバタ足しなさい」と言うのだった。その後も、何度もバタ足で泳がせていた。「おいおい、1学期の水泳で私の授業を横で見てたんとちゃうんかい?」と言いたくなった。ドル平をずーとやっていたので、バタ足で泳がないと不安になるのだろうか?

14/7/24 泳げるための水泳教室 3日目
今日はドル平からクロールを行った。泳げていなかった子どもたちも泳げるようになって嬉しい。ドル平が泳げさえすれば、他の泳法は難なく泳げてしまう。ワシの学校では、午前中に2部の水泳指導があって、5,6年対象の水泳教室はⅡ部に開かれる。Ⅰ部は、全学年対象のプール開放となっている。教師が少しばかり指導して、その後は、全くの自由時間となる。自由時間に水泳の事故が起きているのにどんなものなのか?他の学校はどうしているのだろうか?

14/7/23    泳げるための水泳教室 2日目
昨日の「伏し浮き呼吸」を丁寧に行った。少しでも早く息つぎをしたいために、アゴをあげてしまうのだが、そこは、体が浮きあがってくるのをまつ。この理解が子どもにとってはとても難しい。キックによる推進力で体を浮き上がらせる方法もあるが、それではドル平にならないと思う。伏し浮き呼吸が15回が出来たら、ドル平で25mは泳げてしまう。15回が1つの目安だと考える。今日の水泳教室で困ったことが起きた。スパイダーマンの人形の手首から先が取れてしまったのだ。十数年前に日本橋のおもちゃ屋で買ったが、夏の太陽にさらしていたため、プラスチックの部分がもう限界なんだろう。ホームセンターで接着剤を買ってつないだけど、なかなかついてくれない。

14/7/22    泳げるための水泳教室
今日から4日間の予定で始まった。5・6年で25mを泳げていない子どもが対象だ。昨年度4年生で受け持った子どももいて、「去年は泳げてたやないか!!」と、去年自分のやった水泳指導が問われている。
息つぎから浮き、ドル平とやったが、今日は時間的なこともあって、「伏し浮き呼吸(呼吸と浮きの結合)」をとばしてドル平に進んだ。伏し浮き呼吸は、「123~パッ」とその場でふし浮きを繰り返し、呼吸の回数を増やしていく。それをぬいて、息つぎの練習の後は、ペアで手を引いて、ドル平に結びつけたのだった。
ほとんど多くの子どもはドル平で泳げるようになったが、息つぎを見ていると、浮いてから呼吸をすることが意識されず、すぐにアゴをあげて息つぎをするドル平になっていた。改めて、「伏し浮き呼吸」の大切さがわかった。明日は、伏し浮き呼吸から、もう一度やってみようと思う。

14/7/21   ドル平実技
今日の午前中に、葛城市の「学びサークル」という研修会でドル平を教えてきました。若い先生が対象の官製の学習会のようで、休日にも関わらず15人ほどの参加がありました。奈良ブロックの会員であるT先生がこの会を運営されているようです。座学が30分、実技が1時間半で、座学では、「なぜバタ足なのか?」「なぜ水泳に限って能力別指導を行うのか?」「なぜドル平は誕生したのか?」ということを、日本の水泳の歴史に触れ、日本泳法の映像も交えながらお話しました。実技では、「息つぎ」「浮き」「伏し浮き呼吸」「ドル平」が前半、後半は、近代泳法の平泳ぎとクロールを行いました。

13/7/30    大阪支部大会(豊能)
支部大会は128名の参加者がありました。豊能三島ブロックのとくに若い人たちの活躍がとても頼もしかったです。ご苦労様でした。ワシは授業づくり入門だったので、午前中は水泳、午後はバスケと、これだけ真剣に実技をしたのは初めてでした。ドル平の参加者は少なかったのですが、呼吸からドル平、ドル平から近代泳法まで行いました。時間が余ったので、日本泳法も参加者に試してもらいました。平泳ぎ、横泳ぎ、抜き手、潜水泳法をやってもらいました。抜き手の指導で、「これは無理やわ」というのがわかったのが収穫でした。奈良ブロックに2名の入会がありました。よかったです。次は全国大会です。ささもりさんのクロールの実践報告を楽しみにしております。

13/6/16 日本の子どもに日本の泳ぎを
既にドル平実践が始まっています。これまでに3回(4時間)入りました。今年は幸運なことに、昨年3年生でドル平を教えた子ども達を、引き続き4年で教えることができます。こんなこと初めてで大変喜んでおります。今年は、ドル平~平泳ぎを行います。水泳は5年生からとなりましたが、4年生でも平泳ぎは十分習熟できます。ドル平と平泳ぎは最も関連があるので習熟が容易です。
実践のタイトルを「日本の子どもに日本の泳ぎを」にしました。これは、中森孜郎さんの「日本の子どもに日本の踊りを」のパクリです。でも、結構本気。静かな水での近代泳法と、動く水での日本泳法で泳げるようにさせたいです。平泳ぎというのは、あおり足とカエル足があって、その総称を平泳ぎというのだということを伝えたいのです。うずまきの中を子どもがすべるように平泳ぎで泳ぐ姿を思い描いています。

13/5/18 リボン走
春休みにあった関近ブロック集会で教えてもらったリボン走を実践しています。リボン走は速さが目に見えるという利点があります(速さの可視化)。ストップウォッチでの計測は、運動後にタイムを見て、「速い」「遅い」の判断が出来ますが、リボン走は、運動の途中に、リボンの上下で速い遅いの判断が出来ます。よって、どの区間で上がっていた、下がっていたと記録するのも大切ですが、それよりも、走っている途中に、外からの目で速い遅いを伝え、走っている本人が走りの改善に繋げるようなことを学習の中心に据えるべきではないかと思うのです。そうしないとストップウォッチで計ることと何ら変わらないのではないでしょうか。
それで、兄弟チームを組み、一方のチームが走るときは、一方が横から観察します。40m走なので、10mごとの区間に4人が立ち、リボンがよく上がるときは両手を、少しでも上がるときは片手を、上がらないときは手を挙げないように、それと同時に「両手」「片手」と大声で怒鳴るように指示しました。走っている横から怒鳴られるのは、余り好ましくないかもしれませんが、最後の30m~40mの区間でリボンの下がる子も、最後まで力をぬかずに走るようになります。
リボンは3mで走っていますが、これを4mにする意味があまりわかりません。4mにしたら挙がらなくなるので、長くして走るよりも、両手が挙がるような走りをする方がいいのかとも思うのです。

13/4/28    まんだら
昨日は、泉州ブロックの民舞教室に参加してエイサーを踊りました。今日は足が痛くて動きたくはなかったのですが、「曼荼羅(茶でないことを今発見)」を観に、奈良国立博物館まで行ってきました。今、當麻寺特別展が開かれています。信心もないなら、お寺や仏像に特に興味もないのですが、曼荼羅(曼陀羅)だけは惹かれるものがあります。展示してあるのは、綴織當麻曼陀羅で、約4m四方の平面に、中将姫の話が描かれています。たくさんの何とも言えない表情の仏と、上には天女が舞って楽器を鳴らしている様子。周囲にはいろんな建物。ワシには何かかわりませんが、物語の一部を表しているのでしょう。全く飽きず、観ているだけで時間が過ぎてしまいました。今日は駐車場に困りました。ゴールデンウィークには行くものではないということがよくわかりました。

13/2/3 人権の報告
先日、市の人権教育の大会があり実践報告してきました。「外れ」くじを引いてしまって、3年生が報告しなければならないことになったのです。くじ引きでしか、報告者が決まらないというこの実情。「人権教育こそ大事」とか表面的には言っているものの、皆さんうんざりしていることがよくわかります。
私もこんなくだらない報告に力を注ぐのはご免だと思い、今までやってきたことやごく当たり前に行っている実践で、人権に絡む内容を報告しようと思いました。「子どもの『観』をどう育てるのか」というタイトルで、一つは、夏に行った「ドル平の水泳指導」(3年生)、もう一つは3年前に行った「スポーツの中の男と女」(6年生)です。
ドル平の内容は、ワシがいろんな所で書いている能力別水泳指導への疑問と、子どもの能力観の変容です。ペア学習(上手-下手の技能傾斜のある二人組で学習を進める)によって互いの見方が授業を経るごとに変わっていく様子を、個人ノートの記述(ペアの友達のこと、自分のことを書くようにしている)から拾い上げ、上手-下手の関係の推移を報告しました。
①初めのうちは上手な子が下手な子に対して大変厳しい見方をしていること。できないことの記述や、言ってもやってくれないという不満も見られる。
②授業を重ねるごとに、できることや、技術的な内容が書かれるようになる。(上手-下手が技術的な内容で結びつく)
③泳げなかった子どもが、泳げることになったことを自分のことのように喜べる。
7/17<個人ノート最後の時間「ドル平の授業を終えて」>
わたしは、初めて25mをおよぐときに、さいごまでおよげたけど、ペアのB君は、5mしか泳げませんでした。その時のB君のいきつぎは10回ぐらいでした。その次のプールに入ったら10mでした。
7回目のプールの時は、25mにちょうせんしました。わたしは、「トーン、トーン、スー、パッ」と言いながら、B君の前で歩いて行きました。さいしょは、リズムよくおよいでいたけど、15mぐらいでしんどくなってきました。わたしは「がんばれー。」と言いました。さいごの方は、いきがはやくなっていました。でも、がんばって25mにやっとつきました。B君が25mをおよぎきったときは、とてもくるしそうでした。「あー、つかれた。」とBくんは空を見て言っていました。それを見て、わたしはB君がすごいなーと思いました。なぜかというと、5mしかおよげなかったのに、25mもおよげたからです。わたしは、とってもうれしくなりました。(Aさん)
こんな場面が、ドル平指導ではたくさん生まれるということを力説してきました。
冬大会で、和光中学の5泊6日の水泳合宿の映像を見ました。最後の3キロの遠泳で、浜辺に辿り着き、皆が泣いていました。中でも、中学3年生のコーチ役の女生徒が泣いているシーンが印象的でした。自分のことでなく下級生が泳ぎ切ったことに対する感動の涙だったのです。同じようなことは日々の授業の中でも可能です。そんな場面を作っていかなくてはいけないと思うのです。
ドル平の資料をいっぱい用意して、人権の報告と言うよりは、ドル平の宣伝をしてきたのかもしれません。

13/1/20  どうしてプールが1950年~70年に造られたのか
学校の沿革史を見れば、はやいところで1950年代(見た限り一番はやいのは吹田市のある小学校)で、多くが70年までの間に集中しています。わしの学校は1963年で近隣の学校でもこれに近い時期に造られています。プールの造成と共に近代泳法の指導が導入され、それを支えるバタ足指導が急速に普及してきます。それまで、日本泳法中心の指導が近代泳法中心の指導へと変わり、プールの造成が教育内容までも変えていったと言えるでしょう。しかし、どうして、この時期に、それも急に。考えられるのは、東京五輪。海外から多くの選手が来るのに、プールがないのは恥ずかしいとでも思ったのでしょうか?プールを造成するのに莫大な費用がかかったことでしょう。それとも、他の理由があるからなのか?知りたいとこです。不思議なのは、泉南地方にプールが今もない学校があるということ。浜水があるから必要としなかったのか?海で泳いでいたのか?どうかは分かりませんが、半世紀以上経つのに、プールを造ろうとする声も上がらないのはどうしてなのか?泉南の人たちにおたずねしたいです。

12/12/25 新学校体育叢書『水泳の授業』
『水泳の授業』が出版された。いつから始まったのかも思い出せないくらい前に始まった叢書作りだが、何かあっけなく終わってしまったという感じだ。「これでいいのか」「時間をかけたらもっといいものになったのでは」「もっとたくさんの目で確かめた方が良かった」こういう思いであるにも関わらず、出版となってしまったのは不本意なことだ。
新叢書のアピールしたい点は、あとがきに書いたが以下の3点である。
①旧叢書以降の研究の成果(教科内容研究、教育課程研究)、特に90年代の教科内容研究の時代の水泳実践を知らせること。
②トライアル実践から、ドル平を水辺文化の基礎に位置づけた点。
③水泳は、現在でも能力別(泳力別)水泳指導が一般的だが、異質協同のグループ学習ので、「わかり・できる」水泳指導の形を示すこと。
このことがどこまで伝わったのかは、読後の感想を寄せてもらえればと思う。叢書のことがいつも頭の片隅にある状態からは解放されたが、心底喜べないのが今の心境である。

12/8/28 体育とスポーツの図書館
8月23日に体育とスポーツの図書館に行ってきました。昨年も全国大会の後に行ったので今回で2回目となります。今回の目的は水泳叢書原稿のためでした。巻末につける資料として全国大会の提案集に載っている基調提案や実践を載せようと思うのですが、私の手元には90年以降のものしかなかったからです。それ以前のものを調べると、おもしろい同志会の歴史を垣間見ることができました。
全国大会というのは、68佐島→69間人→70八丈島→71福井→72岩井→73白浜→74多度津→75天草→76石川→77長野→78秋田→79京都→80札幌→81恵那→82広島→83山形→84沖縄→85大阪→86群馬→87神戸→88山梨→89京都→90高知・・・となります。68以前はどうだったのかわからないので、教えて欲しいです。
70年ごろは、全国大会ではなく、夏期研究集会と呼ばれていたようで、参加者も200名ぐらいの大会だったようです。大会提案集ではなく「体育グループ」に書かれています。そこには、今の大レクの前身か、2泊3日の最後の夜は、キャンプファイヤーをしていたようです。提案集には昼寝をする人へ・・・という注意書きもあって、とてものんびりした大会だったようです。会員がどんどん増えてくる時期で、若い人がたくさん集まり、活気のある大会になったことでしょう。基調提案+実践報告という形の提案集ができてくるのが88山梨大会辺りからです。
水泳に関しては、タイトルを並べてみるだけでもその時代の研究テーマがよくわかります。興味深いのは、かつては、水泳分科会には遠泳の実技があったようです。そのころはドル平~近代泳法への発展(系統性研究)を課題としながら、遠泳(日本泳法)を行うこの矛盾?どんな位置づけで遠泳を行っていたのでしょうか。
朝の10時から3時まで、結構勉強になりました。足助はとてもいいところです。今度は、観光で行ってみたいです。

12/6/11 ブイが来た
今年の実践は、うずまき(洗濯機)でドル平をしようと考えています。動く水でのドル平指導です。これが日本泳法の学習に通じるのかどうかはわかりませんが、実践で確かめてみようと思っています。うずまきと言っても、子どもたちはただ単に流される経験しかないと思われます。授業では、うずまきの中をどれだけ泳いだ(流れた、流された)かに目を向けさせたいと思い、その目安となるブイが必要です。プールに浮かべて、泳いだ(流れた、流された)距離に拘ってほしいと思いました。それで、少し前にネットで注文したブイが、昨日届いたので早速今日はプールに浮かべてみました。本当はもっと小さいサイズのブイが欲しかったのですが、24㎝のものしかなく大きいです。これは養殖や、海水浴場の沖に浮いているまさしくあのブイです。ブイを固定するためのおもりになるモノをさがしたのですが、体育倉庫には旗立台しかなく、浮かべてみても流されるようで心許ないです。うずまきではきっと流されるだろうと予想されますが、プールでの目印として活用出来ると思いますので、明日の水泳で試そうと思っています。

12/3/11 シンポジウム「柔道死と武道必修化を考える」
3/10の奈良女で開かれたシンポジウムに参加した。3/9に文科省から「武道必修化に伴う柔道の安全管理の徹底について」という通達が出された所で、実施する今になって、各校に状況調査(提出期限5/31)をするようだ。その調査内容は、以下のアドレスで見ることができるが、何を今更と言った感じだ。
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/nc/__icsFiles/afieldfile/2012/03/09/1318538_1.pdf
実態把握も出来ていないのに見切り発車すること自体おかしなこと。授業で生徒を死なせるようなことが起きれば、どのような責任を取るというのだろう。
シンポジウムには、全国柔道事故被害者の会の方も来られていたが、責任問題も不備であり、これまでの事故による死亡、障害は泣き寝入りすることが多いようだ。法整備も不十分な中で実施して良いのだろうか。一番困るのは中学校の体育教師である。参加者の発言の中に、柔道を否定されているような捉え方をされた人もいたようだが、柔道を否定するわけで無く、男女全員が部活ではなく授業で柔道をすることの危険性をもっと自覚すべきだということだ。
そもそも、元を辿れば、教育基本法を改悪した安倍内閣の美しい国づくりから始まる一連の流れである。美しい国づくりのために生徒が亡くなるようなことがあってはならない。実態把握もできていない現時点での柔道の実施は、即刻中止すべきである。

11/9/19 水平姿勢について
水泳の実践報告を聞く度、ドル平にとって水平姿勢が不可欠な技術であるような捉え方をされているのが気になる。確かに、ドル平で泳ぐ際に、水平姿勢をとって泳ぐと力が入らずに泳げるのだが、その前の段階の伏し浮き呼吸の段階から、水平姿勢を大切にするというのはどうだろう?たのスポ合併号でも井上実践においては、「水平姿勢を強調して」と書かれている。また、大阪でもsasamoriさんも、水平姿勢が指導の上で大事だと言っているが「本当にそうなん?」という疑問をこの間持っている。
水平姿勢が大切だというのは、これは大学のA先生の主張だと思われる。それに、何の疑いも持たず、特に関東の方は、それを強調する指導をされているようだ。水平姿勢が必要とされるのは、体の抵抗を軽減するためのストリームラインを作り出すための水中での姿勢である。が、ちょっと待って!ドル平は、進むことを暫定的無視したのではなかったか?水平姿勢を必要とされるのは、推進力を問題とする場合であって、呼吸-浮きの結合を教える段階では問題としない。と言うよりは、推進力の助けを借りて浮き+呼吸を教えるのであれば、基本的には、バタ足で推進力を得るバタ足指導と変わらないだろう。
ドル平指導では、呼吸と浮きを教え、それを統合していく伏し浮き呼吸を次の段階で学習するが、その際にも、私は水平姿勢を必要としない。浮きと呼吸のタイミングを教える際、その「浮き」に相当するのは、伏し浮きではない。それは、クラゲ浮き(がっくり浮き)であり、呼吸のタイミングをつかませるためには、伏し浮きではないのだ。この段階で、井上実践にあるような「けのび」を教えることは、リラックスに反する指導であると考えるからである。水平姿勢になろうとすれば、体を伸ばすことが必要であり、リラックスができないと思うからだ。A先生は、かかとまで浮かせるようでなければならないと言われているようだが、そこまで必要だろうか。
一方で、推進力を借りてドル平(伏し浮き呼吸)を教えるという指導があっても良いわけであり、その場合は、「進むことの暫定的無視」と言わない方が良いだろう。「水平姿勢」についてみなさんはどう考えておられるのだろうか。

11/8/14 体育とスポーツの図書館
愛知県の足助にNPO法人「体育とスポーツの図書館」があります。愛知支部の方が出資されて、全国でも珍しい図書館が2010年2月に開館しました。古い民家を改築して建てれたこの図書館になかなか行くことが出来なかったのですが、東京大会が終わった後に、やっと訪れることができました。
急な坂を登った所にある図書館は、ごく普通の民家です。しかし、中には体育・スポーツに関する書籍がたくさん並べてあります。館内の一番奥にこの3月に亡くなられた中村敏雄氏のコーナーが設けられてあり、蔵書がぎっしり並んでいました。かつて、出原さんの研究室で見た「バドミントンライブラリー」(1900年ごろだったか?のイギリスのスポーツ書)のswimmingの巻を手に取り頁を開くと、所々に下線が引かれてありました。英語で書かれたスポーツの原書に貪欲にあたっておられた中村先生を偲ぶことができました。ここには私の知らない同志会の書籍がたくさんあって、立ち読みしているうちにすぐに時間が経ってましました。足助の町もほんとにいいところで、再びゆっくり時間をとって来たいと思いました。

11/8/4 研修多すぎ
ずっと書き込みをしておらず、夏休みに入ってしまっている。今年は、何かと研修が多くて、英語だの、道徳だの、人権だの・・・。算数の研究指定が終わって、ほっとしてたら去年よりも増えている。同志会の大会が土日にあるので、夏休みと言っても休むことができない。土日の扱いについては、良心的な校長は、その分を平日に振り替えてくれるそうだが、ワシの所は、勝手にしろとでも言うのか、振り替えてくれもしない。先日の学習会の時に、komaedaさんが、「公費を使って行く出張はレポートも書かないのに、参加費も旅費も払っていく研修にどうしてレポート書かなければならないのか?こんなおかしい話はない。」と言っておられた。ワシもその通りだと思って、それを教頭にぶつけたら、「先生のいうことはごもっともやけど・・・。」と困った顔をしていた。それから数日後、旅費とかは出ないけど、なんと出張扱いとなったのだ。言ってみるものだなと思った。しかし、振り替えもないし、これで喜んでいてはダメだ。そもそも、こんな扱いは校長の判断によって違うこと自体おかしいことだ。夏休みの研修は、学校を飛び出して、自ら学ぶ機会ではなかったか?学校のくだらん研修をやめて、もっと自由に学べる夏休みにしてほしい。

11/8/4 どうして8月5日が平和登校日なのか?
ワシの市も含め、5日が平和登校日とする学校が多いようだ。どうして6日ではなく、5日なのか?全く納得のいかない所である。6日にこわだるからこそ平和登校日なのではなかったか?6日が土曜日だから金曜日にするとはどういうことだ?ワシは平和学習を6日にすることには反対である。暑いし、子どもも来ないし、もっと教育条件の良いときに平和学習をすればよいと考えるからだ。今年のように、6日でなく簡単に5日を平和登校日に決めてしまうこと自体、こだわってたんとちがうんかい!?と厳しく問いたい。せめて、今年なら9日にすべきだったのではないか?
ワシの市のもっとおかしなことが、20日を登校日としていることだ。この日、土曜日にわざわざ登校日させるのだ。6日を登校日とせず、20日の土曜日を登校日としている。訳わからんすぎ。奈良県の場合は、元々21日が教師の給料日だったため、それに合わせて子どもに登校させるというひどいことをやっていた。これはあまりだということで、県下でも多くの市では登校日をなくしている。その名残を我が市では頑なに守っているのだ。子どもの宿題を休み中に見られるので助かるという教師もおるようだが、どう考えてもおかしいだろう。この日に奉仕作業として、草引きをさせるようだが、暑い日にわざわざ登校してまで、やらせることなのか?
平和登校と言い、土曜日の登校日と言い、こんなおかしなことがあっても良いのだろうか?

11/7/10 アルキメデスの原理 その2
「物体が水中で受ける浮力の大きさは、物体が水中でおしのけた水の重さに等しい」これがアルキメデスの原理で、長野の中学の先生が生徒にやらせたように、ワシも理科室でやってみた。鼻に水が入るのを防ぐために、去年脳ドックで使った耳栓を鼻に詰めて行った。初め、勢いよく頭をバケツにつっこんだら、水がトレーの外にあふれて、理科室は水浸し。それで、2回目はゆっくり頭を突っ込んだ。水面が目の前を通り過ぎるのが見えて、何とも心地よい世界だった。あふれた水の重さを量ったら、3280gだった。これは、保健室で量ったのと比べて軽い。首がつながっている分重いのだろうか。これで、頭を水上に出したら、約3㎏のおもりを持つことと同じだということだ。子どもではどうなのか知りたいところだが、これをやらせるのはためらってしまう。

11/6/30 頭の重さ
頭の重さを知りたい。長野の中学校の先生がやっていたように、まずは、体重計で調べようと思った。保健室の体重計が、家にあるものよりも高そうなので、正確に量ることができるだろうと思って、保健室で頭の重さを量った。保健の先生はすぐに、「体と繋がっているからそれは無理」と言ったが、「まあええやないか」と思って保健室に寝転がって量ってみた。結果は、仰向けになった場合は、4.2㎏だったが、横になったら3.7㎏と軽くなってしまう。何度かやってみたが、約4㎏前後だった。どうしても、頭だけの重さを知りたいのだが、頭を切ることも出来ない。頭の重さは体重のだいたい何%なのか、書いてある書籍などないものか?教えてほしいものである。

11/6/23 これじゃダメだよ!水泳の授業
知人の保護者の方から次のようなメールを頂きました。今日は水泳の授業参観があったようです。「子どもの授業参観、すごく晴れていて、プール学習でした。能力別で、指導はほとんどなく(女の先生は水着にも着替えておられず)25メートル中、息継ぎ3回だけ!と叫んでおられました。子どもは、「先生はいつも無茶なこと言う。」と怒っていました。半分は自由時間です。よくこれを参観させるなーって感じます。後からの懇談では、泳げる子が泳げない友だちを教えているところを見てほしいと言われて、唖然としました。こんなもんなんですねぇ。子どもは、「先生は何も教えてくれず、友達にいつも教えてもらってる」と言っています。…懇談終わってから、担任の先生に学校のプール学習にも期待したいと言ってみたのですが、時間少ないし、みんなスイミング行ってますからねぇと全くやる気なしで残念です…」
授業参観で自由時間はないだろう!と思うのですが、ひどい水泳の授業風景が浮かんできます。こんなことをしているから、保護者はスイミングスクールに通わせることになるのでしょう。指導らしき指導もせず子ども任せ。よくぞ子どもが子どもを教える姿を見てほしいなんて言えるなと思います。

11/6/20 アルキメデスの原理 その1
「物体が水中で受ける浮力の大きさは、物体が水中でおしのけた水の重さに等しい」これがアルキメデスの原理で、水をいっぱいはった水槽に、人が入ったときに、水槽からあふれ出した水の重さが浮力の大きさとなる。それで、前回の話の続き。手首を水面に上下させることで、体が浮き沈みが起こることを実技教室などで見せているが、この手首の部分の浮力はどれくらいなのかを調べたくなった。それで、ワシの隣が理科室で、掃除の担当場所でもあるので、この実験をした。1リットルマスにいっぱい水をためた中に、手首を突っ込むと、当然、水があふれ出した。そのあふれた水の重さを量ると300gだった。両手で600gとなり、浮力が600gとなる。手首の比重もあるが、水面に手首を出すと、だいたい600gの重さがかかることになるのだろうか?掃除の時間になって、ワシのクラスの子どもが来ていたので、4年の子どもにもやってもらったら170g~190gになって、両手で340g~380gの浮力を得ることになる。この考え方は合ってるのかどうかわからないが、明日は、頭の重さを保健室で量ろうと思う。

11/6/20 かなづちの水泳指導
『かなづちの水泳指導』(H.T.Aホワイティング/泰流社)という千円の本が手元にあって、amazonでみたら古本でも高値がついていて驚く。水プロに参加するようになったころに、勧められて買ったと思うのだが、読み返して見ると結構大事なことが載っている。ワシは水泳の実技教室で、水と体との関係を説明するときに、仰向けになって両腕を挙げ、手首を水面に出し入れする動作をやってもらう。水面に手首が出ることによって、重力がかかり下半身が浮いてくる(やじろべえの原理)。だれから教わったのかはわからず、これをずっとやっているのだが、この出所は、この本からのものなのだろうと言うことに今気づいた。以下、本書から。
1.両腕を頭上にのばして水中に置くことによって、重心の位置を身体の上部にあげる。腕が胴体と一直線になるまで,できるだけ遠くに伸ばすほど重心の位置は身体の上部にあがることになる。
2.1の状態で手首を折りまげると,手首は水面上に出て、水によってその重量が支えられていない状態になる。こうすることによって、身体の上部の重量が増し、その結果重心がひきあげられ、回転に及ぼす偶力を減じることになる。
3.浅い呼吸をすることによって肺がふくらみすぎないようにする(肺がふくらみすぎると浮心の位置が身体の上部にひきあげられることになり、その結果脚から回転を起こしやすい状態になる)。
この過程でむずかしいことは、肺内空気量が小さくなりすぎると、身体の比重が水の比重よりも大きくなって、身体全体が沈んでしまうということである。
「気をつけ」の姿勢で浮かんでいると、脚が下がって体が立ってしまうのは、重心(へそあたり)と浮心(みぞおちあたり)が離れていることによって回転運動が起きるためであって、腕を伸ばすことによって、重心が腕の方に引き上げられ、回転が抑えられるようになる。これに手首の動作を伴うことによって、身体が浮いたり沈んだりすることがわかるのだ。「肺がふくらみすぎない」というのは、これまで意識したことがないので、(確かに浮心が上がるように理屈では思えるが)さっそくプールで試してみようと思う。

11/6/11 体力向上に関する変な動き
奈良県では、体力テストの成績が思わしくないのを受けて、学校体育課の体力向上推進係が中心となって、体力向上のためにいろんなことをやってるようだ。
①最下位レベルにある小学校の体力を向上させるため、教員2人を「体力向上推進コーディネーター」として北部と南部の2校に配置し、県内を北部と中南部に分けて各学校を訪問させる。
②学校運動場芝生化推進事業
③元気な大和っ子を育む学校表彰
④小学校の体力テスト実施にかかる高校生サポート(近隣の高校が体力テストの実施日に手伝いに)
⑤教員採用試験の加点制度。スポーツ特別加点。課題である「体力向上」のため、スポーツの分野で優れた実績を有する人に対し加点が新たに加わる。 また、小学校体育の実技試験で、表現運動(リズムダンス)に替えて、体つくり運動(多様な動きをつくる運動)・走の運動(小型ハードル走等)を実施。
・・・と、まあいろんなことを考えておるようだ。校庭芝生化は、校庭芝生化のために体力づくり体育をしなければならないようになってくるし、それなりの実績を残さないといけないだろう。既に芝生化を実施した学校では維持管理にたいへんなようである。芝生化をしたら体力向上につながるという発想自体が単純すぎる。また、採用試験の加点というのも気になる。受験要項に細かくどのレベルの成績なのかとか、競技種目についても書かれていて、1次試験で3点の加点がなされるようだ。これも、教員採用試験と体力向上がどう関係するのか全くわからない。体力づくり体育で子どもがどうなってきたのかを、まずは学習してもらいたいと思う。

11/5/30 市教組総会
組合員であってよかったことがほとんど感じられない組合であるが、ワシは市の執行委員にあたっているらしく、今日の総会に出なければならないことになっていた。今年は転勤して今の市から脱出するつもりだったがそれもできなかった。組合の恩恵など感じられないなと思っていたから、余計に行くのはためらった。しかし、出席して、どこの職場も病んでいることが聞けただけでもよかったか。
今、某市では、どこの学校でも「あいさつ運動」が盛んなようだ。ある学校では、地域の人にわかるように、わざわざ教師と子どもが門の外に出て、あいさつをしているらしい。その様子は、ヤクザの親分のお出迎えのようだという。子どもを並ばせ、大声を出させているようだ。どいつもコイツも校長になったらこんなことしか考えられないのか?発想が貧困すぎる。他のヤツとは違ったアピールができないものだろうか?もっと大事にしないといけないことが他にもあるだろう。
と言っても、組合員もほとんどいないのではねのける力もない。反対が声とならない情けなさ。組合の総会で不満を漏らしていても仕方ないだろう。と一方では情けない気持ちになっていた。

11/4/1 古代ギリシャ展
31日のできごと。ハイキングではかわり映えのしない景色ばかりなので、いろんなことを考えてしまって何の気晴らしにもならない。それで、前から行ってみたかった古代ギリシャ展を観に三宮まで出かけた。たくさんの展示物の中では、大理石できたミュロンの円盤投げの像もそうだが、やはり興味深かったのが、壺に描かれた五種競技。幅跳び選手がおもりを両手に持って跳んでいたのはどうしてなのか不思議だった。また、五種競技の様子を再現したビデオが映されており、素っ裸で走る男たちも面白かった。美しい肉体を求めた古代ギリシャの世界は、同時に同性愛(ホモセクシャル)の世界でもあったんだということが壺に描かれた絵からわかった。ここでは説明できないような絵が描かれており、かなり驚いてしまった。

11/3/20 中年ハイキング
久しぶりの日記の書き込み。転勤が叶わず、家で腐っていても仕方ないと思って、ハイキングに出かけた。上ノ太子から二上山に登って家まで、約13㎞歩いた。失意も紛れるだろうと思ったが、歩いていたらいろんなことを考えてしまい、卑屈な人間になりそうだった。
平日なので、人も少なかったが、小学生も登山をしていて、坂道を登ってくる。全ての子どもが「こんにちは」と、元気な声を向こうからかけてくれた。わしの学校では、来年度からは教師が朝立ってあいさつをするらしいが、教師の(こわい)顔を見てあいさつする子どもが本当に素晴らしい子どもなのか?それよりも、今日の子どものような自然とあいさつできる子どもの方がいいだろう。あいさつ運動も良いかもしれないが、それよりも大事なことがあるだろう!と、歩きながら、またまた、鬱陶しいことを考えてしまうのだった。
帰りは温泉につかって、当麻駅の辺りをとぼとぼ歩いていたら、semikoさんに会った。「なにしてんのよ?」と言われて、「歩いてるんです」と、つまらん答え方をしてしまった。偶然に会って驚いた。体の為には良かったが、時間が十分あるため、いろんなことを考えすぎて、一人で歩くのはあまり良くない。

10/10/29 ネットカフェ職員室
冬大会に行ってきました。水泳の叢書会議があるので前泊しました。前泊するのは初めてですが、編集委員の人たちは、毎年前泊されているようです。たのスポがこういう力によって支えられているんだと思いました。(が、無理してまで出すのは今でも反対です。)前泊した夜に、東京の先生達と話す事ができて、ひどい状況を知らされました。教師にパソコンが配られ、黙々と各自のパソコンに向き合う姿は、ネットカフェと同じだと言われます。また、綱紀粛正のための研修が、終業式後の午後からあって、1時間以上拘束されたと、東京の杉良太郎さんは嘆いておられました。寒々とした職場になっているようです。東から西へ言っているうちにそんな職場になってしまうのでしょうか。

10/10/11 リレーについて思うこと
運動会が終わりました。最後のプログラムである6年生の色別対抗リレーは最後までどのチームが勝つか分からない近年まれに見る接戦となりました。その雰囲気というか空気というか、歓声がすごくて、コンサート会場に来ているような大変な盛り上がりでした。出会う保護者にも、「よかったですね」とか、他学年の先生からも、「6年生がしめてくれたいい運動会になりましたわ」と絶賛されたのです。しかし、「いい運動会になりましたわ」と言われる度に素直には喜べませんでした。なぜなら、リレーで接戦になったのは、全くの偶然、たまたまだからです。一応、50m走のタイムを元に色分け(4色)していますが、これが35人も走るのですから接戦になること自体とても難しいことです。去年もそうだったし、他学年でもそうでした。半周遅れてゴールすると言ったリレーも珍しくありません。本当にたまたまなのです。それに、運動会の練習と言うと、ほとんど組体操に時間を費やし、リレーは一回きりの練習のみ。そのリレーが絶賛されるとは何か奇異な感じさえします。
ほとんど練習もせず、たまたまはまったリレーが、運動会の善し悪しを決める判断材料になるというのは何とも悲しいことです。リレーのために組体操が陰に隠れてしまった感さえします。そういう運動会の評価しかできないというのは、教師も含め、観る側の視点が成熟していないとも言えるのではないでしょうか?(言い過ぎかも。)
それにしても、あの盛り上がりとは何でしょう?リレーという文化の持つすごさというか、太刀打ちできないなと感じてしまいました。

10/9/26 怒号の響く秋の空
またまた鬱陶しい運動会練習の季節がやってきました。しっかりラジオ体操してないだの、声を出して校歌を歌っていないだの、体操服をズボンに入れていなくてだらしないだの、我が6年生は悪い見本としていろんな場面で叱られています。マイクを通してわめき散らすその声は、校区に響き、どこまでも透き通った秋空に吸い込まれていくようです。怒号の内容がワシからすれば運動会で大事なことのケツから数えるほうが早いような内容です。体操服が出ていることがそんなにも気になるのでしょうか?異常な運動会の練習です。ワシはいつも思います。「あんたはこんなつまらんことを言うために教師になったのですか?」と。こわいもので、これを容認しているのがほとんどの教師ですから。一種のファシズムでしょう。取り巻く教師の顔はこわい。「アホな指導して御免」と、クラスや学年の子どもには済まない思いで一杯です。

10/9/12 百均の水泳の本
こんなんをよくぞ考えられるなといつも百均の商品には感心させられ、必要以上に買ってしまう。以前にささもりさんから、百均にも水泳の本が売っていると聞いたが、今日初めてその本に出会うことができた。
「水泳が上手になる!」という子ども向けのその本は、1ページ目からいきなり、注意として「事故・ケガによる責任は一切負いかねます。」と書かれてあるのはおもしろい。続く「脳と運動能力の関係」を絵入りで詳しく解説された後から、水泳の内容になるのだが、上手な泳ぎのために、①息つぎをおぼえる ②体の力をぬく ③泳ぐリズムを身につける とされている。さらに、つかまりながらの息つぎは、「1,2の3」で顔を水から出して息をすいましょうと書かれ、絵には子どもが「パッ」と息を吐く様子が描かれている。続いて、「泳ぎの形を作ろう」では、これはドル平ではないのかとまちがえるほどである。他にも、「息つぎでつまづいたら」の所では、小平の正座位での息つぎや、斜め浮きから息つぎなども登場している。バタ足を基礎泳法としていない水泳指導も珍しく、同志会の本としてもいけるのではないか?(冗談ですが)と思うくらいだった。何せ105円なので、一度百均に行かれた折には是非見て頂きたい。

10/9/4 教員免許更新制
校長にこそ行ってもらいたいという思いは変わっていない。教師としての資質を備えていない人が免除されるのは甚だおかしいことであり、そういう人たちこそ行かされるべきであると考える。さて、夏休みに『「免許更新制」では教師は育たない』(岩波書店)を読んだ。書いてあることは全くその通りだが、教師不信の世論が醸成される背景について記されてあったことが心に残った。その原因として、1つ目が長引く不況、成果主義や格差拡大によって社会的な寛容さが失われたきたこと。2つ目が教師も親も自信を失い始めていて、教育界全体が自信喪失状態になっていること。3つ目が「居酒屋の教育談義」(佐藤学)化で、誰もが教育評論家になっていると三点を指摘している。教師も親も自信喪失になり批判に晒されているから、今こそ親と連帯することが求められるのではないかと思う。

10/6/5 世界史読書案内
人並みの教養を身につけてから死にたいと思い、岩波ジュニア新書を集めている。どうしてジュニア新書なのかというと、少しは中高生向けに平易な文章で書くという配慮がなされているので(中高生のことを考えていない筆者も多いが)、ワシにも読みやすいと思うからだ。今で650冊ほど発刊さえれたが、集めたのは400冊ほど。最近の書籍は手に入るが、過去のものはなかなか見つけられない。
最近発刊された中でおもしろかったのが「世界史読書案内」である。筆者は都立高校の世界史の教師。世界史に限らず様々な書籍を紹介されている。こういう視点で世界を捉え、授業を作っているのかと参考になる。興味がそそられた書籍を早速ネットで注文したら、すぐに届いた。以下の本、「戦争中毒-アメリカが軍国主義を脱け出せない本当の理由-」「社会科学の方法 ヴェーバーとマルクス」「ジャガイモのきた道 文明・飢饉・戦争」「ジャガイモの世界史-歴史を動かした「貧者のパン」-」「鉄砲を捨てた日本人-日本史に学ぶ軍縮-」「肉食の思想-ヨーロッパ精神の再発見-」「23分間の奇跡」当分楽しめそうである。

10/4/18 京都支部推進講座
京都支部の推進講座によばれて、ドル平の実技をしてきました。網野町の温泉プールで久しぶりに泳ぎました。京都支部の若者が数名来ていて、ドル平を学ぼうとする一所懸命な姿がとても新鮮に映りました。
その後、宿泊所に移って実行委員会がありました。宿泊と聞いていたので、どんな所に泊まるのか不安だったのですが、中島詰所ではない、それこそ豪華な旅館でした。実行委員会では、京都大会に向けての熱い話が交わされました。大会要項もほぼ完成して、大会成功への意気込みが伝わってきました。話を聞いていて、奈良大会のことを思い出しました。どんな大会にしようか、常任をはじめとするいろんなメンバーが集まり、何回も話し合いました。大会も入れて一週間泊まり込んで、大会前は「始まんねや~」とおろおろしたりした5年前のあの熱い、暑い夏が思い出されました。

10/4/15 掲示黒板
職員室を出たところの壁に、コルク黒板が取り付けられた。うちの学校は子どもの作品が展示されるスペースが余りにも少ないので、これは良いことだと思って、どこの学年の作品が展示されるのかを楽しみにしていた。ところが、展示されたものは、学校の電気の消費量を示す棒グラフだった。電気の無駄遣いをするなという戒めの掲示だろうが、このために黒板を作る方がよほど無駄遣いだと思う。来週は、不運にも抽出された学力テストをせなあかん。4月当初から、ブルーな気持ちは続く。

10/1/6 青汁
明日から学校が始まるので散髪をしに行った。散髪屋にはいつもテレビがついているが、眼鏡を外しているので音声だけが聞こえて来る。それを聞いていたら、心を打つ何とも良い話をしていた。難病にかかり医師からも余命を宣告されたという妻とそれを支える夫の話だった。入退院をくり返しやっとのことで退院後はうどん店を始める。四国までうどんを仕入れに行ったり、うどんに入れる天ぷらには旬の山菜を夫婦で取りに行ったり、二人三脚で病気に打ち勝つ姿に、映像がない分余計に想像が広がるのだった。そう聞いてたら、「○○さん夫婦が毎日欠かさず飲んでいるのがこの青汁」という言葉。青汁の宣伝を真剣に聞いていた自分が何とも情けなく思えたのだった。それまで感動しながら聞いていたワシの純真な気持ちはどうなるねん!と思った。もちろん青汁で病気を克服したのではなく、夫婦の話は感動できるが、長々といい話を聞かせておきながら、最後は青汁かと思うのだった。
そういえば、この前テレビを見ていたら、同じような夢のくじかれることがあった。ワシは体育で縄跳びをしたら、必ず「なわとび人生60年」という道徳教材のビデオを見せている。二重跳びが1万回以上、ノンストップなわとび9時間46分など数々の記録を出された鈴木さんの話だが、この番組を見た子どもは「すげー」といつも圧倒されている。その人が健康食品の宣伝に出て、「これを毎日飲んでいるから」などと言っていた。何とも残念だった。毎日欠かさず10キロ走って、ダンベル持ってダッシュしているからだろうと言いたくなった。何とも夢のくじかれる事が最近は多い。

09/12/29 電子黒板
いつのことだったか、事業仕分けの時かそれ以前のことか定かではないが、新聞に電子黒板の記事が載っていた。何かしらんけど結局、各校に1台だけ配備されるようになったようだ。その時、大変おかしいと思ったのがマスコミの報道である。電子黒板の受注を期待していた企業の悲鳴を取り上げた報道が目立った。使うとされる教師や学校の声そっちのけというのには参ってしまった。
先日、学校に一台だけ設置される電子黒板の企業によるプレゼンを見てきた。3社による自社の電子黒板の宣伝だが、自社製品を買ってもらおうと他社にはない点をアピールしていた。
・電子黒板に書いた文書を保存できる。消したものを後で見られる。・手書きの文字・図形を認識できる。
・インターネットに繋いていればすぐに検索できる。・デジカメで写した子どもの感想を画面で比べられる。
・教科書をそのまま映していて、必要部分を押すと音読される。
など。電子黒板の一番良い所はプロジェクターが不要だということだ。今教室で使おうと思えば、線をつないでセットするのに大変。これがないのは電子黒板の良い所だと思う。しかし、電子黒板は52型だが、黒板よりはサイズは小さい。ある会社は、同時に2人書ける電子黒板をアピールしていたが黒板と比べるとやはり小さい。各社とも、オプションでブルーレイが付いてくるだとか、パソコンをつけるとかで、お得感を誇示している。「今ならさらに4枚付けてお買い得」といった通販の宣伝を思い出してしまった。
同じ階での移動は可能だが、階段での移動はダメなようで、インターネットをつなぐことを考えればパソコン教室に設置するしかない。1台だけがどう授業に生かせるのか、甚だ疑問だった。電子黒板の予算があるなら、それを劣悪な教育環境の改善に使ってほしいと思うのだった。

09/12/16 潜水泳法
10年前の学級便りを見ていたら、おもしろい日記を見つけたので紹介します。5年生の男の子の日記から。(笑えます。)
「潜水泳法」 Y君
3時間目、外はくもっていたが、水泳があるので着がえてプールに行った。ぼくの得意な泳ぎは潜水泳法だ。ぼくの体はふつうの人より重くて、うかないからちょうどいい。けど、おぼれているとかみんなや先生にかんちがいされているようだ。
今日は、久しぶりのプールで、ペアのMさんがドル平のリズムを言ってくれていた。でも、ぼくは、プールの底でドル平をやっているので、聞こえなかった。
みんなはぼくの泳ぎを見て、おぼれていると思っているようだが、ぼくは、自分では潜水泳法だと思っている。人一倍低い所で泳ぐドル平のなので、おぼれているとか、かってにかんちがいしないでほしい。
この年「3つの平泳ぎ」という実践をやって、競泳の平泳ぎ、日本泳法の平泳ぎ、潜水泳法の三者を速さや、疲れ具合など比較実験を行いました。日本泳法は3つの中で一番遅くて疲れるということから、だから今では泳がれないようになったという理解をさせてしまった失敗実践です。しかし、競泳を抜け出し、日本泳法を試みた初の実践という点では、意味ある実践だったとは思うのです。当時のこと、Y君の泳ぎを思い出して笑ってしまいました。

09/11/3 東海近畿サ連協集会
土日とサ連協に参加してきました。大阪からはkomaedaさんとhinaさんの3名でした。まあぼうさんにも会いました。浜松は久しぶりで、前は、南中ソーランの「学び座」という映画を観たのを覚えています。あれから10年経ったことになります。
ワシは、体育の分科会に出ましたが、何と参加者が2桁でした。それに、報告者が2名とも若い先生で、大変新鮮に実践報告をきくことができました。愛知のバスケの実践は、2:0からの系統を踏んだ丁寧な実践でした。また、和歌山のマットの実践は、話がとても上手で、3年生の子どもに真正面から向き合おうとする先生の意気込みが伝わりました。若い人の実践があるという愛知も和歌山もうらやましい限りでした。
若い人に刺激をもらうことで、少しはやる気になってきています。

09/8/25 全国教研
21日~23日と全国教研に参加。3日とも出たのは初めてでした。初日は、日比谷公会堂で全体会があって、あさのあつこさんのトークがありました。ワシのレポート報告「からだ気づきのプログラム」(3年前の実践)は2日目でした。分科会全体会だったので、健康教育・食教育の方も参加されていて、50人ぐらいだったか?での報告でした。体つくり運動が入ってくるから、からだ気づきのワークショップを実技で使えるモノにしたいと思いました。
2日目の夜は、東京支部の方が同志会の夕べを開いて下さって、楽しいひとときでした。(東京支部大会と日程が重なっていたようです。)体育分散会でのレポートの中で、リズム構成「ひばりの矢」(群馬)という運動会の報告が興味深かったです。群馬には「リズム構成をつくる会」というのがあって、物語から脚本を作り、音楽にのせ、運動会の表現として発表します。子どもの身体表現が素晴らしく、やらされる踊りではなく、自ら演じている動きでした。同志会にはない運動会の取り組みでした。

09/8/15 素人による「体力低下」考 その8  85年の子どもたち
組合の教研が21日から始まるので、その資料を奈良の事務所に取りに行ったついでに、国会図書館に寄った。子どもの体力低下の論拠を示すために、文科省は85年のデータと今回の結果を比べている。それでは、子どもの鏡とされる85年の子どもは当時はどう評されていたのかをとても知りたかったためである。それで、85年と86年(結果は一年後なので84年と85年の考察となる)の体育の日の新聞を読んでみたら興味深いことがわかる。
-85/10/10
毎日新聞<見出し>ヤング体力さらに低下 16歳男子、39年以来の最低 オジサン、オバサン頑張る
朝日新聞<見出し>子供の運動能力大幅にダウン 学齢期、受験が響く 親たちは体力上昇
・学齢期の子供たちの運動能力が、10~18歳までの学齢期で、男女ともしかもかなり著しく落ちている。16歳男子では過去21年間の最低。体力の落ち込みは13歳男子を除き、全年齢で男女のいずれかもダウン。
・文部省コメント「あと、1、2年の様子を見ないと子供の体力・運動能力が低下期に入ったかどうかは判断できない。成長は高原状態。下降期に入ったことがうかがえる」(以上の記述は85年朝日新聞から)
-86/10/10
毎日新聞<見出し>現代っ子すばしこく 中高年頭打ち
朝日新聞<見出し>張り切る子供 パパは足踏み  素早いが弱い筋力(子ども)
見出しからわかるように、この時代も体力低下が指摘され、84年が大変下がったようで、39年以来(体力テストが始まった年)のとんでもない事態という見方だったようだ。しかし、次の年の85年の記録は回復して、データには乱高下があったようである。84年がとんでもないと言っておきながら、85年の記録が良かったらそれを今の子どもの鏡とするのだろうか?
一番気になったのが、記録の向上した項目があるにも関わらず、当時から体力低下が叫ばれ、体力低下はマスコミによって作られるものだと言うこと。86年を除いて、ほとんどが否定的な見出しで、その前後の時代の見出しを見ても「~だが○○」となっている。体力低下を煽るのは当時からそうだったということだ。体育の日の紙面の一面に必ず載っているので、体力低下というインパクトは大きい。

09/8/15 素人による「体力低下」考 その7  体力を巡る齟齬(そご)
ずいぶん前の続き。たのスポ8月号の教育情報「子どもの”体力低下”の真の解決を目指して」/野井真吾(埼玉大)は、大変興味深く読ませてもらった。この人は教科研の方らしいが、大まかに氏は次の点を指摘している。
①一般に体力低下と指摘されているが、1988年から始まる新体力テストの合計点の推移を見ると、小学生では緩やかな上昇傾向、中、高校生は明らかな上昇傾向を示している。
②「体力」には、行動体力(筋力、持久力、敏捷性など外界に向けて働きかけていくときに活躍する体力)と、防衛体力(自律神経系、免疫系、ホルモン系など外界からの刺激に対してからだの内部を一定に保って体調を整えようとする体力)と分類されるが、体力低下とされる実体は、防衛体力にあること。
特に②に関しては、子どもの低体温や、疲れやすさ、姿勢を保持できないことなどが以前から指摘されているが、これらは防衛体力の問題であるということだ。氏は、「真に必要なアクションは防衛体力の向上を目指した実践の創造であったと言えそうなのです。少なくとも行動体力に主眼を置いた全国体力テストではないように思うのです。」と主張している。体力向上を目指して、なわとび・マラソンがより重視されることが予想されるし、今度の改訂での「体つくり運動」で1年生からの体力づくりが始まることだろう。防衛体力の課題を行動体力で改善しようとしているおかしさに現場の教師は気づくべきである。総体的な体力の捉え方とその改善を目指さなければならないという氏の指摘になるほどと思えるのだった。

08/6/14 主体の欠如
この前、校内研修で学校に来た指導主事が、「指導主事であるために個人的な考えを述べるのは差し控えさせて頂きます」と言って、新指導要領の内容を延々と述べていた。「分かりやすく説明して頂き・・・」と誰かが発言していたが、「そんなん文科省のHPや解説書見たらわかるっちゅーねん」といつものように学ぶ姿勢のないワシがおった。自分の意見を言わなくてどうするのか?指導要領などはコロコロ変わっていくのに。変わる度にそれなりの弁を述べてるのだろうか。文科省スポークスマンが指導主事の役割だとその人は思うておるのだろう。何という主体の無さ。
「新指導要領準拠」とか、「新指導要領に対応した」とかいう書籍が官民問わず出版されている。この時期を待っていましたかのように、いろんな人が指導要領を拡大解釈して、自分なりの授業を展開している。そして、流行に乗り遅れまいとその類の本を買う人が少なくないので、出版業界もこの時期には売れるのだろう。
振り子が元に戻ってしまうことはよくある話で、10年20年前に語られていたことが今の主張だと言うこともある。だから尚更新なんちゃらに振り回されない自分なりの思想を固める必要があると思う。

08/5/25 50m走の授業
学校は日々に頭に来ることが多いのですが、子どもや保護者には温かく受け入れられていて1年ぶりにやれる授業の楽しさを毎日満喫しております。
スポーツテストがあるので50m走をいやいややっておるのですが、今はちょっとはまっています。
Q「50m走の前半と後半とではどちらが速く走れると思いますか?」と問うた所、
前半―27人(後半はつかれてしまうから)
後半―5人 (後半は最初から勢いがある。)
同じー1人 (同じ距離を走るから)
という答えが返ってきました。
「ちょっとまたんかい!!5年にもなって。君らはこんなんもわからんのか?」と言いたくなりますが、子ども達の走りをみているとこの予想も頷けることがあります。後半がしんどくてアゴは上がるしおなかを突き出して中年のおじさんの走りになっています。後半に相当スピードが落ちるというのが子どもの実感なのでしょう。そして、実際にタイムを計ったら1人をのぞいて、後半の方が速く走れるということがわかりました。「何でや?」という子どももまだおるのですが。次は10mごとのラップタイムを計ってどこでスピードが落ち込むのかを見つけます。

08/3/14 久しぶりにほえました
2週間ほど前のこと。こんなくだらないことで熱く語らなければならない情けなさ。しかし、熱く語らないことには自由に実践ができなくて困るので、久しぶりにほえました。それは、「学級だよりを自由に出させよ」というワシの訴えでした。
これには前史があって、昨年のこと。ワシは初任者指導をしておりました。その研修の中に「学級通信の作成」という項目があったので、「これならワシにも話ができるか」と、これまでの学級だよりを元に、初任者に話したのでした。初任者はそれに触発されたのか、自分も学級だよりを出そうとした所、学年主任や教務に「うちの学校ではそんなこと誰もしていないのでダメだ」と言われたそうです。それを聞いて頭に来たけど、自分の事ではないというのと、学校におっておらんような存在だったのであまり会議でも発言しませんでした。ところが、今年度担任を持つことになったら、学級だよりが出せないのにはとても困りました。陰でコソコソ出すのも嫌だと思い、初任者の件もあって、会議でちょっと時間をとって訴えたのでした。
①本校には学級だよりを出してはいけないという闇の掟みたいなようなものがあるようだ。昨年度も初任者が出そうとした所、ダメだと言われたようで、これはひどい話だと思った。
②きっと保護者が「ここのクラスだけ・・・」と言ってきたら自分も出さないといけなくなると困る。これがダメだという大きな理由だと思うが、そんな事があるのかどうか?ワシはそんなこと聞いたことがない。また、そう言われたとしても、「私はこういうことに力を入れているので、学級だよりは出さない」と返したらいいのではないか。また、返すものを持ち合わせていなければならないと思う。
③教師はそれぞれいろんなやり方で教えているが、力を入れる部分は違っており、それが学級だよりに限ってはどうしてダメなのか?
④学級だよりや文集を作るのは、日本の教師が大切にしてきた教師の文化と言えるものであり、それを継承されていないことこそ問題ではないか。綴らせることによって生活を見つめさせ、それを読み合わせることによって生活を共有していく。そんな取り組みを誰一人としてやっていない学校こそ問題視されるべきだ。子どもの表現の力を奪ってはいないか?
⑤「何もみんなでやりましょう!」と訴えているのではない。やってもらおうなんて全く思わない。ただ、自分がやろうとしていることを認めてほしいだけ。実践の自由と教えることの多様性を保障してほしいだけだ。
ということを訴えました。こんなくだらないことを訴えなければならない馬鹿馬鹿しさに呆れながら熱く語ったのです。しかし、「学級だよりは大事なことだ。」とか、ダメ出しをした張本人がそんなことを言っておって、呆れかえるばかり。最後には、みんなやったら紙代がどうなるとか言い出したので、「学校の紙を使おうなんて全く思わない」と言ったら、「そう言う問題でもないだろう」とか逆ギレされました。結局、学年で合意できたらOKとなったのですが、まあ、なんたる学校なのか?情けないと思いました。
「保護者が出してくれたら困る・・・」と言うけど、保護者がそれを望んでいるのなら、それに応えようとはせず、低レベルに線を合わせて何もしないことで一致する。そんな教師が多くなってきたと感じます。他人のやっていることに対して、「私はそれをやっていないから、あなたもやめなさい」と言っているようなもので、こんなんが教師の資質として許されてもよいものなのか?教員免許を返上せい!と言いたくもなります。こういう人には教員免許更新制で性根をたたきこんでもらってほしいです。(教員免許更新制には反対ですが。)
そして、今、学年の合意を得て(これもすったもんだあったのですが)快調におたよりを出しています。けったくそわるいので一切学校の紙を使わずに。

08/3/14 教師の「のむ・うつ・かう」
これは組合の定期大会に出たときに聞いた話。教師の「のむ」というのは、睡眠薬を飲む、精神安定剤を飲むこと。「うつ」というのは鬱病。「かう」と言うのは、宝くじ(当ててすぐにやめるという)。話を聞いていて、共感する自分も情けない話だが、本当に教師が病んでいるなと思う。精神的に参ってしまうことが多い。
ついこの間のこと、やっと初任者指導が終わってほっとしていたら、ワシの担当する初任者がインフルエンザにかかって学校に来られなくなった。それが授業参観の日だったので、急遽ワシが代わりに授業参観をすることになった。なんとまあその日の朝にしてくれと言われてほとほと困ってしまった。(担任は出るつもりでいたが、インフルエンザなので管理職に登校を止められたようだ。)最後の参観では、これまでに習った理科の学習のまとめをクイズ風に発表するとは聞いていたが、大まかなことはわかっても内容が全くわからない。それで、その日の午前中にどんなことをやってきたのかを子どもから聞いて、大まかな授業の流れを作って参観に臨んだのだった。
授業参観は何とか予定していた発表は全てできて、ほっとしていたが、とんでもないことはその後に起きたのだった。
下校時になり、帰りのあいさつをした直後、参観していた男性保護者がある男の子をつかまえて、険しい顔で何かを言っていた。なんのことかと近寄ってみると「教師は見てみんふりをするのかよ」と怒鳴られたのだった。なんのこっちゃわからずに、尋常の顔ではない保護者に近寄って話を聞くと、終わりの挨拶の時にその男の子が、自分の娘にちょっかいを出したという。それをワシが見て見ぬふりをしたと言うので怒っているようである。
気の付かないことがいけないことかもしれないが、その娘は平気な顔をしているし、「気がつきませんでしたわ」としか言いようがない。怒り狂う保護者の感情をなだめながら(子どもに接するのと同じ)聞いていると、初任者の学級経営に不満があり、それをぶちまけようと最後の参観に意を決して来られたようだった。周りにも数人の子どもはいるし、他の保護者もいる中で、恥ずかしくないのかと思いつつも、怒りをおさめるのに大変。
こういうわめき散らす保護者にどんな対応をしたら良いのか迷ってしまう。聞いたら聞いたで際限なく初任者の担任に対する不満、学校に対するいろんな不満をぶちまける。「その言葉遣いどうにかならんのか?」と思いつつも、そのおやじの気の収まるのをまっておった。
エネルギーを使うし、無駄な時間を使うし、学校は本当に迷惑だ。たまたま入ったクラスで、その日は事故としか言いようなく、全くついていない日になってしまった。こういうことが続く限り、宝くじを当ててやめようと本当に思ってしまう。

08/3/11 初任者より学校を指導したいと思うことが多かったこの一年
初任者指導といううれしくない仕事がようやく終わった。他の学校に30回×2校もよく行ったものである(よくぞこんな仕事をやったものだと、自分で自分を褒めてあげたい心境)。居場所がないというのもつらいが、初任者よりも学校を指導したいと思う場面によく出くわし、その都度嫌な思いをしたものである。
学校には幾つもの行事があるが、それらが本当に子どものためになっているかどうかを見直していくことが必要だと思った。今の時間のない学校で、行事削減はもちろん大事なことであるが、その行事に付随する諸々の時間が授業時数を確実に減らしており、それが少なくない時間であることをもっと広く知ってもらいたいと思うのだ。
例えば、前にも書いたが、教育委員会が来るために行われる清掃の時間、学習発表会があって地域の人が来るからと言うことでなされる清掃の時間が設定される。それも、普段の掃除場所ではなく、新たに清掃分担が各学級に割り当てられる。新任君は子どもの希望を聞こうとするので、誰がどこに行くのか決めるのに余計な時間が費やされる。運動会の練習時間然り、学習発表会の練習然り、これだけでも膨大な授業時数がそれに使われるが、それに付随するプラスαの時間が少なくない。勉強しなくて良いので子どもには喜ばれることだろうが、これは無駄とも言える時間であり、新出漢字の一字でも覚える時間に充てよと言いたい。そこまでして本当に学習発表会をする必要はあるのだろうか?ひょっとしてこれが学力低下の一因になっているのだとすれば、保護者もこんな学習発表会をやってほしいとは言わないだろう。税金の無駄遣いは表面化するが、時間の無駄遣いは分からない。見せ物のために多くの時間が割かれ、まともに授業を行うことを困難にしていることに目を向けてもらいたいのである。子どもがそれに向けて楽しんでやっているならそれでいい。しかし、教師の自己満足になってはいないか?いや、自己満足できるならよい。ただ目の前の行事を消化して、何も考えられない教師になっていないかどうか、無能にさせられてはいないかということだ。問題を問題と感じない無感覚こそが問題なのだと思う。「けったいなヤツ」というような教師もおらんようになった。皆が同じ顔をして均質化された教師が多くなってきたということだ。教師の個性が埋没せざるを得ない今の学校は(ワシの学校というのではなく、一般的な学校のこと)本当に面白くない。

08/3/10 素人による「体力低下」考 その6 都道県別ランキングの無意味さ
今回の体力調査で一番わけのわからないのが、都道府県別に結果が公表されたことである。どこかの知事は「学力だけでなく体力までも」と嘆いておったが、都道府県別に平均値を比べることに何の意味があるのだろう。新聞にはよく都道府県別ランキングが出ているが、例えば、「図書館の数」とか「自殺者の数」なら、数字を比べて社会教育が充実しているとか、自殺者が多いことと他の因子との関連があるのかを考察するためのランキングであり、それなりの意味があるだろう。しかし、今回の平均点を用いたランキングで何を知りたいのか、そして、何がわかるのだろうか。
①体力低下という言葉の使用の間違い
平均値を比べて「体力低下」という答えを導き出すことがイマイチわからない。「低下」とは、元ある水準から下がった状態のことを指すのであって、元ある水準が今回はないのだから(各県のこれまでのデータはあっても、それを考察の対象としていないのだから)、低下という言葉を使うのは相応しくない。よってランキングが下位の県=体力低下の県とは言わないのである。言葉の使用の根本的な過ちを犯している。
②平均点で比べて何の意味があるのか?
総合得点が最上位の県があるし反対に最下位の県がある。最下位の県の中にも、当然高い記録の子どももいるし、反対に最上位の県にも記録の低い子どももいる。しかし、記録が良くても最下位の県であれば、体力低下の県の子どもと一括りにされてしまう。こんなヒドイ話はないと思うのだ。県別という集団の切り取りではなく、全体の中で体力低下傾向の子どもをどうすべきか、そこから課題を考えた方が生産的だと思える。
一歩譲って、県別という集団の切り取りを有効に活用するならば、例えば、公園、体育館、学校などの施設数と体力テストの結果がどのような関連があるのか。或いは、各県の体育関連の予算配分と体力テストの結果がどう関連するのかという考察もできることである。こういう考察こそすべきである。
しかし、今回のランキングはそうではないことは明らかである。学力テストと同じように、単純に県別に競争させ、それぞれの県が他県に負けない方法を独自に考えよという国から地方への丸投げである。トップダウンのこのような方法に何の疑問も持てない各県は、財政の乏しい中での改善策を考えなければならない。結局、体力向上のための安上がりの方策=精神主義の体育の復活となるのだろうか。ワシは、子どもをつらい目にあわせた70年代の体育が繰り返されはしないか心配している。
③最下位の県は悲観するほどひどい記録なのか?
低下というが、そんなに心配するほど開きがあるのだろうか?最上位の県と最下位の県でどれくらいの差があるのかを調べると以下のようになる。
<5年男子>
握力     16.36(兵庫) 17.98(北海道)→その差 1.62㎏
上体起こし 17.24(高知) 20.59(福井) →その差 3.35㎝
長座体前屈  31.12(兵庫) 34.46(新潟) →その差 3.34㎝
反復横跳び  37.97(大阪) 44.44(福井) →その差 6.47回
シャトルラン 42.28(北海道)61.87(福井) →その差 19.59回
50m走    9.71(北海道)9.22(福井)  →その差  0.49秒
立幅跳    149.3(宮城) 159.4(福井) →その差 10.1㎝
ソフト投げ  23.82(埼玉) 27.82(秋田) →その差  4m
体力合計点  51.61(高知) 57.76(福井) →その差 6.15点
こうして県名を比べたら、素人目には北海道と福井がとても気になってくる。興味が体力向上の上位の県と体力低下とされる最下の県に向けられて、比較しているのがその県の平均値であることを忘れてしまう。実はこれが一番のカラクリであると思うのだ。
しかし、この数字を見る限り、シャトルランの開きが気になる所だが、他の種目では大きな差はない。どこまで許容範囲なのかはわからないが、たかが数㎝の体の固さ、数メートルの差、数回の差はほとんど気にならないと言っても良いのではないだろうか。
何度も言うが、あくまでもこれは平均値である。平均値を比べることの無意味さ、競争で踊らされているおかしさに、各県は是非気づいてもらいたいと思う。学力テストも同じことが言えるのではないだろうか。

08/3/1 素人による「体力低下」考 その5 昭和60年度(1985年)の子どもはどのような評価をされていたのか?
優等生とされる1985年の子どもは体力的にはそれほど素晴らしい子どもだったのだろうかという疑問がある。今では人も羨むような?素晴らしい体力を有しているとされる子どもは果たして鏡だったのだろうか?そのことが気になっていた。というのも、ワシは1985年に教師になったが、その当時から子どもの体力低下を指摘する声があったと記憶している。今も昔も体力低下だけが叫ばれ続けていたのではないかと思うのだ。
昭和60年(1985年)当時の子どもの体力・運動能力はどのように評価されていたのかを知りたいと思ってた。ところが、これを文科省のHPで探しても、新体力テストになってからの平成10年度以降のデータしか公表されていないのだ。それ以前のデータを見られると体力低下とすることにまずいことでもあるのだろうか?何か恣意的なものを感じる。
それで、昨日は国会図書館(関西館)に行って、この年の結果はどのように考察されたのかを調べた。図書館で資料を閲覧するなんて学生の時以来である。国会図書館だけあって、使い方がそこらの図書館と違ってややこしい。係の人にパソコン上での検索の仕方から、コピーのやり方(手続きが複雑)まで、丁寧に教えてもらった。
さて、書庫から出してもらった「体力・運動能力調査報告書(1985年)」を読んでみると、これが全くの期待はずれ。小学校高学年に対しての考察は、わずか11行。そこには、例えば「小学校期における体力・運動能力は他の時期に比べて著しい向上傾向が見られ、特に女子にその傾向が強いことが伺える」と書かれているが、こんなことは当たり前である。ここ数年の体力・運動能力がどの様な傾向があるのかということにも触れていない。金をかけてスポーツテストを行っているのだから、それぞれの項目ごとに詳細な考察が必要だと思うのだ。それもなく、小学生でも(と言ったら小学生に失礼だが?)書ける程度の分析でしかない。ワシの知りたい1985年の子ども評についてはわからなかった。
時間もなかったので4時間ほどで帰ったが、国会図書館にはこども白書や当時の新聞も閲覧できるので、またの機会にすっきりさせたいと思う。

09/2/18 素人による「体力低下」考 その4  体力低下ではなく運動能力低下
今の体力テストは8種目(握力、上体おこし、長座体前屈、反復横跳び、50m走、ソフトボール投げ、立ち幅跳び、シャトルラン)で実施されているが、かつての体力テストは厳密には体力診断テストと運動能力テストに分けられている。体力診断テスト(握力、背筋力、伏臥上体そらし、反復横跳び、垂直跳び、立位体前屈、踏み台昇降)と運動能力テスト(50m走、走り幅跳び、ソフトボール投げ、ジグザグドリブル、斜め懸垂、連続逆上がり)である。今の8種目も前半の4種目が体力診断テスト、後の4種目が運動能力テストと考えられる。
前回の記録を推移を見てほしいが、体力に相当するのが握力と反復横跳びなので、この2つの記録を見る限りは体力低下とは言えないだろう。運動能力に関しては低下であると言える。要するに、体力の低下というよりも運動能力の低下だと言うべきであり、その辺りを一色単にして体力低下とすることは適切ではないと思うのだ。専門家の間でよく言われることは、今の子どもはある程度の体力を持ちながら、それを発現できていないということである。子どものからだや体力についての研究されている正木健雄氏は、「体力は東京オリンピックのころと比べると高い水準を維持しており、心配されるほど落ちていないのだ」と述べている。「体力低下」とよく言われるが、「今の子どもは体力はあるが、運動能力が低下している」というのが正しいだろう。
では、どうして運動能力が低下するのだろうか。やはりワシは「楽しい体育」に原因があると思う。確かに「体力づくり体育」はもっといけないが、教師の指導が後退した「楽しい体育」は罪深い。子どもの楽しさという感性を教科内容としたがために、教師が運動技術を身につけさせようとする指導性がぐっと後退した。どのようにすれば記録が伸びるのか、技能が向上するのかその学習を中心とせず、楽しんでさえすればそれで良しとする授業が増えたことが運動能力低下の一因になったのではないだろうか。
例えば、年度当初はスポーツテストがあるということもあり、50m走が体育の授業で行われる場合が多いが、技術を教えている様な授業はほとんど見られない。大抵は、スポーツテストのデータ取りのために50m走を数時間行い、子どもは誰が速かったのかを知ったり、クラスの中で自分の相対的な順位を知るだけである。ひどい場合は、スポーツテストの50m走の記録をそのまま一学期の評価にスライドさせている教師もいる。今持っている力をテストしているに過ぎないのだ。そのため足の遅い子どもは高い評価を与えられることはない。学年が上がるとその格差が広がり、遅い子どもは遅いままなのである。これは、今の学力テストにも言える。遅い子どもを学力テストの結果が下位の県に置き換えればよい。今の学力からどれだけ達成できたのか?伸び率で評価せず、平均点の比べ合いをする限り最下位の県はそのままの位置であると思う。50m走は、走の技術がわかると記録は伸びるものである。がんばれなどの精神主義ではなく、授業を通して過去の自分より速くなったことが分かり、その結果として楽しいことわかる。そんな喜びを教師は保障しなければならないと思う。これこそ本当の「楽しい体育」ではないだろうか。
今回の素人考をまとめると次のようになる。体力ではなく運動能力が特に低下→それは教師が子どもの技能を保障していない→教師が運動技術を教えていない→体育の授業が貧困→「楽しい体育」の誤りということになるのだろうか。しかし、指導要領路線の「楽しい体育」を忠実に行うならまだまし。やることがなくなれば子どもの喜ぶドッジボールで茶を濁すような体育の授業が続く限り、子どもの運動能力は保障できないだろう。

09/2/4 素人による「体力低下」考 その3  数字を見ると
体力低下とされる今回のデータは、ピーク時にあたる昭和60年(1985年)と比べていることは前にも記したが、そのデータを少し詳しく見ていくと以下の様になる。
男 握力    17.01(18.35)↓  女 16.45(16.93)↓
上体おこし 19.12         17.63
長座体前屈 32.68         36.64
反復横跳び 40.99(39.46)↑    38.77(37.94)↑
シャトルラン49.39         38.72
50m走   9.39(9.05) ↓     9.64(9.34)
立幅跳び  153.96        145.77
ソフト投げ 25.39(29.94)↓   14.85(17.6)↓
体力テスト合計 54.19         54.85
これらの種目の中で昭和60年(1985年)と比べられるのは、( )のついた4種目だけであり、他の種目は過去のデータと比べられない。なぜなら新体力テストが平成10年から始まり、実施種目の変更があったからだ。旧体力テストの中でそのまま新体力テストに引き継がれたのは、握力、反復横跳び、50m走、ソフトボール投げの4種目である。それらについて、体力テストが始まったデータを入れると次のようになる。
昭和39年(1964)→昭和60年(1985)→平成19年(2008)の順に表記すると、
男 握力    16.7→18.35→17.01    女   15.00→16.93→16.45
反復横跳び 33.6 →39.46→40.99        33.5 →37.94→38.77
50m走   9.3→9.05→9.39          9.6→9.2→9.64
ソフト投げ 30.4→29.94→25.39        15.1→17.6→14.85
文科省の考察は「男女ともに反復横とび以外の種目では、50%以上の児童が昭和60年度の平均値を下回っている」とある。「反復跳び以外の種目」と言っても3種目しかないのだ。いかにも低下を強調したいのだということがわかる。しかし、これを昭和39年(1964)も含めて考えるとどうだろう?ソフトボール投げの低下は明らかに低下と言えるが、握力、50m走については別の見方ができるのではないか?続きは次回に。

09/1/31 素人による「体力低下」考 その2 データをどう読み取るか?
データの全体を見て判断することが必要だと思うのだが、その前にまずスポーツテストがなぜ始まったのかということについて考えねばならない。スポーツテストの始まるのが昭和39年(1964年)であるが、これは東京五輪の惨敗を受けて始まったものであり、学校では「体力づくり体育」が強調される。これを受けた年の68年指導要領はその性格が色濃く反映しており、体力を筋力、持久力、調整力などに分け、その力をつけるために教材が決められた。体育の授業は種々の運動を通して体力をつけるための時間になったのだった。体育の時間だけに留まらず、業前、業間体育など休み時間までもが体育を行うようになった。現在でも、この時代の体育を継承している学校があったり(管理教育が浸透している県に多いが)、研究指定校などになると決まって子どもの休み時間が体育のために犠牲になることが多い。この時、強調されたのが、耐寒マラソン、駆け足会、なわとび大会、はだか・はだし教育だった。また、行進の練習など集団規律が重んじられ、精神鍛錬的、生活指導的体育の時代でもあったと言える。ワシの受けた体育はちょうどこの時代のものであり、列を揃えて運動場を行進したことぐらいしか当時の体育の記憶としては残っていない。当然子どもには不人気であり、「運動は好きだけど体育の授業は嫌い」という子どもを量産し、体育は方向転換を余儀なくされるのであった。そして、手のひらを返したように、続く77年に指導要領では「運動の楽しさ」が強調されることになる。ここから約30年ぐらい「楽しい体育」の時代が続くのである。
さて、データの全体を見渡したとき、訓練的体育によって、運動嫌いの子ども生み出すことを犠牲に体力は向上することがわかる。指導要領の内容が全国的に浸透していくのには時間がかかるので、体力のピーク時が昭和60年(1985年)になったと考えられるだろう。(ここは素人的考察なのでピークになった理由は他にもあるだろう。)体力のピーク以降の低下の原因の一つとして、「楽しい体育」によってもたされたものであると言えるだろうし、また逆に、訓練的につけた体力は「楽しい体育」によってまともな姿に是正され、子ども本来の状態に戻したという見方もできるだろう。注目したいのは、ピークと比べれば低下であるが、東京五輪当時の体力よりも変わらないかそれ以上の水準にある項目もあると言うことである。握力は低下しているのに、なぜ反復横跳びの記録は上がってるのか?体格に比して体力は上がるものなのか?素人の素朴な疑問が幾つも湧いてくるのである。

09/1/26 素人による「体力低下」考 その1 どうして昭和60年度(1985年)と比べるのか?
まず思ったことが、「学力低下」と同じく、「体力低下」という答えが先にあって、それを示すための全国体力テストだったんだと言う事だ。「体力低下」を強調する文科省とそれをさらに強めるマスコミ。確かに近年のスポーツテストの結果が思わしくなく低下傾向にあるだろう。しかし、これが余計に人々の不安を煽り、「学力低下」が叫ばれたときと同じような道をたどるのだろうか。
「学力低下」がもたらしたものは何だったのかを考えると良い。学力アップのために機械的訓練的な習熟が増え、わかる授業が後退したこと。どこの学校でも百ます計算を採用している異常な姿。日本の教育に馴染まない習熟度別指導が持ちこまれたこと。管理・統制の厳しさと評価に追われ、余計な仕事が増えたこと。常に評価に晒されるために起こるギスギスした職場の人間関係。唯一平等な教師の世界が序列の世界へと様変わりしたこと。
外部評価、外部人材の登用による教師の信用の失墜。自己責任ばかりが強調され、教師にとって有り難かったことは何一つない。同じことを、今度は体育で行われようとするのだろうか?一番恐れるのが、子どもを運動嫌いにさせた「体力づくり体育」の復活にならないかということである。
そこで、今回の「体力低下」とされることをもう少し冷静にデータを読み解き、何がどういけないのか素人的な立場で考えてみたいと思うのだ。
「体力低下」という今回の結果について次のような考察がある。「男女ともに反復横とび以外の種目では、50%以上の児童が昭和60年度の平均値を下回っている。」と。ワシがまず疑問に思ったことは、どうして昭和60年度と比べるのかということである。ワシは親の世代との比較なのかと思っていたら、ピーク時の昭和60年度の体力との比較と各誌は報じている(文科省HPではその根拠を見出せなかったが)。ここで思う素朴な疑問。「ピーク時と比べる限り、体力低下という答えしかない」ということである。スポーツテストは平成10年に多くの種目が変更になり、今の新体力テストというものに変わったが、昭和39年から実施している種目もある。握力、反復横跳び、50m走、ソフトボール投げである。普通、データを比べるというのは、全てのデータを出した上で考察すべきものである。それを出さずに、ピークから落ち込みの部分だけを取り出して考察するというのはいかがなものだろうか?理解に苦しむところである。

09/1/19 ハウツーやめた88年
養護学校を3年で離れ小学校に転勤した88年。ハウツーが新鮮に映った当時のワシは、当然体育でもハウツーを実践していた。例えばリレーでは次のような授業があった。「グループ対抗でリレーを行い順位をつける。続いてまたリレーをするが、6チームあるとすると、6位のチームはバトン1本、5位のチームはバトン2本・・・1位のチームはバトン6本を持って走る。速いチームには複数のバトンを両手で持たないといけないのである。こうして数回のリレーを行う」というものだった。確かに子どもには大ウケで、リレーが大変盛り上がった。しかし、子どもが楽しいと感じるのはリレーの持つ楽しみではなく、数本のバトンを両腕に抱えて走る友達の滑稽な姿でしかない。これで何を教えるというのだろうか。腕を振らなくては走られないことを教えるというのかどうか?はわからないが、こうした授業に嘘くささを感じるようになった。教師4年目でハウツーをやめ、うさん臭い同志会に顔を出すようになる。
しかし、今でもハウツーはやはり人気があってワシの近くの人もそのセミナーに参加しているようだ。某体育雑誌にも執筆しているぐらいだから、体育教育の一角を担っているのだろう。彼らの手法は、人が実践したことを驚くぐらい丁寧に文書化し、誰もが追試しやすいようにまとめている。そして、あまり批判しないのも特徴である。今月号も何人かが書いておられるが、内容がなく、他人がやったことをうまくまとめるのと、終始会の宣伝に使われている。こういう原稿が体育の雑誌としての体をなすのだろうか。ついでに、中には、体育教師こそ管理職になれなどというひどい連載もあって不愉快な思いでこの雑誌を読んでいる。

08/10/1 笑ってしまう学校訪問
学校訪問というのが毎年あって、県や市の教育委員会のお偉いさんが学校にやって来る。十数人の人がやって来て、書類の監査と数分の授業参観をする。学校に来るのは仕方ないにしても、受け入れる学校の過剰な対応は呆れかえるばかりである。奈良県の某市では。朝から管理職はピリピリしておって、職員も不機嫌な顔をしている。
・教師は皆スーツ姿(普段はジャージやのに)
・その日の朝に全校で掃除をする。(校時を変更して朝の20分間全校で掃除)
・教室に生け花(コスモスを花瓶に生けている。参観日でさえしてないのに!)
・廊下にも掲示物。(普段はゴミが散乱しているのに)
・職員室の机の上がきれい。(普段からきれいにせい!)
一体誰に観てもらおうとするのだろう。
監査や授業参観の後で、管理職に対して学校の講評がある。それを後日職員に伝えるのだが、これがまたしょーむない。あいさつができていただとか、視聴覚教材を使って効果的だとか、発表ができていただとか、反対に、掲示物の子どもの文字が違っていただとか。確かに数分の参観ではこれくらいのことしか言えないだろうが。
たまたまワシの行く学校がちょうどその日にあたっていた。ワシはそれを知らずに普段通りのみずぼらしい格好で授業参観(と言っても新任君がするのだが)を受けたのだった。おかしいと思うのがこの後の事、昼休みに職員室の机にいると、学校訪問で何を言っていたのかをわざわざ管理職に尋ねに来るヤツがいる。30半ばの若い教師だ。自分に対する評価はどうだったのかを管理職に聞いているのだ。やらしいなー。そんなヒラメ(ヒラメ教師のこと)たちが数人おった。若いヤツはいつも評価に晒されておるのだということを痛感した次第である。そんなに評価が気になるのだろうか?
こんなことを組合の集まりで話していたら、中には学校訪問で張り切るけったいなヤツもおるようだ。管理職を目指すその人は、クラスに教委の人たちが入ってくると、急に子どもに声をかけ、後ろを向いて学級の歌を歌わせるという。何をアピールしたいのだろう。子どもが可哀想だと思う。
大阪の先生たちに話していると呆れていた。ワシもこの市にやって来るまでは、こんなことはなかった。教育委員会の人たちに媚びへつらうというか崇め奉るというか、接待に等しいこんな体質が21世紀の学校に存在するのだ。某市が特異なのかもしれないが、全く変な学校訪問である。

09/1/12 向山と結託した明治図書の教育新書
読書最近時間があるからだと思うが、読書をするようになった。若い頃に読んだ教育新書を読み返している。ワシが教師になった85年、この年に同志会大阪大会が開かれたが、法則化運動が流行っておった時代だった(今もトスという名前で若い教師には人気があるのだろうか?)。向山と明治図書が手を組んだ教育新書が相次いで出版され、当時の若い教師がそうであったようにワシも買いあさっていた。法則化が新鮮に思えた教師だったのだ。このシリーズは130冊位出版されているのだろうが、100冊以降は揃っていない。それらを今読み返しているが、ただし、向山とその息のかかった書籍以外の本を読んでいる。と言うのも、これらは当時読めなくて(分からず興味が持てなく)積ん読になった本である。それを今新鮮に読めている。第一線の研究者の著書は面白くて、中でも、戦後の教育史などは興味深い。若い頃読めなかった本を今読むことによって、明治図書の教育新書が初めて完結されるということになる。それが、いつになるのかは分からないが、少しでも賢くなれたらと思う。

08/10/16 老けた教育実習生!?
今日も子どもに間違われた。名札を首からぶら下げていると、どうも教育実習生に見えるらしい。さすが入り込んでいる学年の子どもは間違うことはないが、掃除に来る他学年の子どもはよく間違える。「先生になるための勉強をしてるんや」とわざわざ友達に説明する子どももいる。確かに一人前になるためにもっと修行を積めと言われているのかもしれないが、顔を見てわからないのだろうか?どこにこんな老けた教育実習生がいるというのだろう?教師を24年も続けておるのに。若いとかそうでないとか余り関係ないようで、大人を一括りにして見てしまう所など、子どもってつくづく面白いものだと思う。
今学校には様々な立場の人が入れ替わり入ってくる。スクールサポーターの大学生、特別支援の元教員、クラブに来る地域の人たちなど。ワシの担当するクラスにも大学生のサポーターが来ているが、ただでさえ騒がしいクラスが、サポーターにまとわりついてしまうために余計にうるさくなって収拾がつかなくなっている。少なくともそのクラスをサポートするのが仕事なんだから、教師を目指す立場であるのならどうすべきかわかるだろうと思うのだが。すまんがありがた迷惑である。スクールサポーターに来る大学生は、学校によっては大学の単位ともなるようだ。人手のほしい学校と教えなくても単位として認めることのできる大学側、双方の思惑が一致した制度だとも言えるのではないだろうか。学生にとっても大学に行かなくても単位が取れるのだから好都合である。これぞ金をかけない安上がりの教育ではないだろうか。
先に示した大学生のケースはほんの一部であり、子どもに一所懸命関わってくれる大学生が大方である。中には子どもに個別に関わって担任を助けてくれるサポーターもいる。情熱のあるサポーターがほとんどである。だからこそ教育現場に人手が足りないのなら、まずは採用枠を増やし、やる気のある大学生をどんどん採用して、教育現場の窮状を救うことが先決だろう。何をするにもまずは金が要ると言うことである。

08/9/23 運動会全校練習を変える
2週間ほど前のこと。校門でお母さんにしがみつき泣いて登校を渋る1年の女の子がいた。運動会の入退場の練習をしたくないからだそうだ。わからないでもない。行進の練習ほどつまらないものはないからだ。それも10回以上も全体練習があるのだから。暑いし練習もつまらない上に、教師の怒鳴り声が飛び交う。その声で子どももへこんでしまうのだ。運動場という空間がそうさせるのかもしれないが、どの教師も笑顔が消え鬼瓦のような顔に変貌する(怒鳴り声を発するのは若い教師ではなく大抵は古いタイプの教師である)。何度も行進を繰り返させるが、行く行くは北朝鮮の軍事パレードを目指すのだろうか。(雨の日に、廊下で全校児童を並ばせ足踏みをさせる学校もあった。)家の人は運動会で一回限りの完成された子どもの姿を見るので、それなりの感動を覚えるのかもしれない。しかし、完璧な行進を完成させるために、余りにも行き過ぎた指導が、行進の裏にはあるということを是非知ってもらいたいと思うのだ。
かつて勤めた学校でもこんな状況だったので、開閉開式の練習を変えたいと思った。まずは、児童会を握り、子どもの意見を職員に反映させようとした。それまでに数年かかったが。子どもに運動会の何がつまらないかを問うと、口を揃えて「開閉開式」という。そこで、「運動会のおもろなさ」をたくさん出させて、少しずつ改善していった。
①運動場の一周の行進をやめる
→児童席からの入場に。日の丸の4隅を持って行進し、本部席前で直上に挙げさせる練習もなくなった。
①来賓の挨拶を短く
→できる限り短縮してもらうように管理職からのお願い。もちろん校長の話もできる限り短く。
③運動会なのにどうして歌を歌うのか?
→やめる提案をしたが、音楽の先生の抵抗にあい却下。但し1番だけに。
④ラジオ体操をしない→簡単な独自の踊りに
⑤開閉開式の全体練習→極力少なくし(4回)子どもが楽しめる全校競技の練習(大玉送り)を中心に据える。
これがベストだとは思わないが、北京オリンピックのように自由な入場にするなど、改善する点はいくらでもあるだろう。怒鳴り声だけでもやめたら、少しはましな練習になるかもしれない。

08.9.23 応援練習
3つの学校の応援練習の様子を見ているが、共通して高学年の声が出ていない。声が出ない→教師が声を出せと怒鳴る→余計にふてくされて声を出さない→その態度を更に叱る。という悪循環の繰り返しである。教師の怒鳴り声が響く練習は面白くなく不愉快極まりない。応援歌の練習に至っては更にひどい。学年ごとに歌わせるのだが、低学年はほめられ、6年は見せしめのように悪い見本とされる。こんなやり方をしていたら、子どもの反感を買うだけである。子どものせいにせず、楽しめない応援合戦を変えるなり、やめようという発想にどうして立てないものだろうか。見せ物のためだけの応援合戦であれば、即刻やめるべきだ。
応援とは、応援合戦のためにだけあるものではない。競技する同じ色の仲間に対して児童席から励ましのエールを送ることも応援の一つである。声を出そうとする動機付けがなかったら応援しようとは思えないだろう。応援は何のためにするものか一度考えさせて、応援合戦をするしないの選択を与えたらどうだろう。楽しんでやっている応援か、やらされている応援かは当日の高学年の姿をじっくり見るとよくわかる。

08/9/28  同僚性の喪失3
ワシが思うに、教師の力量は年齢に関係なくセンスで決まるものだと思う。経験を積んで一人前になっていくとよく言われるが、ワシはそうは言い切れないのではないかと思う。若いけど授業が上手だったり、子どもの心をうまくつかむ教師もいる。反対に、下手な人は年を重ねていても下手で怒鳴る事しかできない。授業が誰が上手であるとか、そうでないかは参観させてもらったら一発でわかるものであり、管理職が評価する以前にわかっているものである。ただ、授業が上手くてもそんなに評価はされず、それ以外の部分で評価されることが多いというのも、教師の世界のおかしな所である。
このセンスというのは、悲しい事に初めから備わっている人と、そうでない人に二分される。若いとか経験を積んでいるとか年齢に関係ないので、その点では教師の世界は平等な世界なのだ。要はそれに気がついているのかどうか自覚の問題である。ワシなどは全くダメで教師には不向きである。だから、何とかよその人の教える術を学ばなくては太刀打ちできないのでサークルにも足を運ぶ。問題なのはそれに気づかない人である。プライドが高く批判される事にとても敏感で、「研究授業は力になるよ」とか言って若い人に振って、自分は引き受けようとはしない。そんな人に限って学校を仕切っており、主やお局みたいな人は目新しい提案には強い抵抗を示す。「去年はこうしていたから」「今まではこうだった」と今あるやり方を変えようとはしない。こういう人たちは管理職と近い位置におるので、一部評価をする側に荷担している。厳しい評価によって序列が一層強まり、対等平等の世界が崩壊していくのである。心の許せる同僚がなかなか見つけられないのも職場の悲しい実態である。

08/9/20 同僚性の喪失2
若い教師を荒々しい声で叱りつける校長の声が職員室に響く。何で怒っているのか分からないが、何人かの職員がいるのにとても不愉快な気分になる。聞いていたら文書の間違いに突っ込んでいるようだ。管理職にもよるものなのかは分からないが、こんな光景は10年前はなかった。落とし穴に落ちるのを横で見ているかのようないやらしさで、教師としての(人間としてのと言う方が妥当かもしれない)資質を疑いたくなる。
更に、これはもっと深刻な問題だと思うのが、同じ学年で若い教師を叱責する教師の姿がある。ワシより数年年下の人が声を荒げている。「人を叱るほどあんたは立派な人間なのかよ」と言いたくなるが、同じ学年でないし、その中身もわからないので口を挟めない。自由・平等の世界が、序列の世界に様変わりした。初任者は力のない者、分かっていない者としてその一番下に位置づけられてしまう。ワシの担当する初任者が、嫌がらせとも言える嫌な質問をされている。同じヒラの立場の者がどうして偉そうに言えるのだろう。
失敗しても当たり前という雰囲気がなくなった。かつての職員室は不満を吐露できる場所であったのに今は違う。ギズギスしているため皆職員室には居たがらない。
評価する者-される者、される者がするものになって更に下の者に評価を下すという序列の世界になっている。同僚性が確実に失われている。

08/9/18 同僚性の喪失1
銀行に勤めるよめさんの職場の話を聞かされる度にこんなえげつない事が許されるのかと腹立たしさを覚える。ひどい労働条件、ノルマ、パワハラ(かつてはセクハラ)。それに対して、教師の世界だけは自由や平等が保障されている世界だとずーっと思っていた。給与にも男女差がないのはもちろん、上下の関係なく自由にモノ申せる世界だと思っていた。しかし、そう言った教師の世界がこの10年ぐらいの間に一変してきた。
一番変わったと思うのが管理職である。かつては、職員会議が最高の議決機関だったものが、校長が自分の思うように学校を動かすようになった。長い時間かけて論議してきたことが、いとも簡単に崩されてしまう。たかが数年で替わっていくたった一人のために。かつては校長はと言うと、学校という同じチームのリーダとして、学校に降りかかる難題を先頭に立って乗り越えてきた同僚だ。しかし、今ではまさしく管理職-職員という上下関係となった。同じチームの一員ではなく、チームの外部に立つ監視役というのがふさわしいだろう。常に評価に晒されるために、何も言わない会議は連絡会になってしまった。

08/7/13 息つぎでつまづくわけ
一気に鼻から息を吐くことを教えることが、初心者のつまずきになっていることを前回取り上げたが、この原因はやはり学習指導要領の曖昧な記述にある。今回出された新指導要領(1、2年の水遊びに関する内容)には次のように書かれている。
○ バブリングやボビング
・水に顔をつけ口や鼻から息を吐いたり、息を止めてもぐり、跳び上がって空中で息を吸ったりすること。
○ 連続したボビング
・水中で息を吐き、顔を上げたときに一気に息を吸うことを連続して行うこと。
一つめの文章は何とも不可解である。「~たり、~たり」なので、前半がバブリング、後半がボビングのことだと思うが、前半については呼気は書いているが、吸気については書かれていない。口や鼻と書かれているがそれはどちらなのか。後半は、口→口の呼吸法で、ドル平指導での呼吸法に近い。(何も跳び上がらんでもええのにと思うが)、しかし、一般に言うボビングというのは「ウ-ン・・・パッ」と鼻から吐く方法なので、厳密には口→口ではない。息を出すのか、止めるのか、明確ではなく、2つの方法が併記されているのは理解しずらい。
ただ、今回は2つめの連続したボビングが新たに加わっていることを考えると、水中で鼻から吐き、顔を上げたときに一気に息を吸う(ドル平の呼気)をねらっている。とすると、何のために息を止めてもぐるのか?ますますわからなくなってしまう。
ついでに、前の指導要領(平成11年)を見ると、(1,2年の水遊び)では、
イ 水に顔をつけたり、水中で目を開けたり、口や鼻から息を吐いたり、水に浮いたりする。その例示として、
・水に顔をつけ口や鼻から息を吐く(バブリング)
・息を止めてもぐり、飛び上がって空中で息を吸ったりする(ボビング)
となっている。(※飛ぶという字が前回は「飛」、今回は「跳」、何で跳び上がらないといけないのか?)
今回の改訂では、一つの文章にしたのだろうが、一番の要である呼吸法について曖昧な文章には大きな問題が含まれていると思う。(もっとも、現場の教師が指導要領をしっかり見ていたらの話しであるが。)
子ども達がどんな所でつまずいているのかを知らない官僚達が文科省の一室で書いているのだから、こんなわけのわからない文章になってしまうのだ。プールに赴き、もっと子どものつまずきをつぶさに観察せよと言いたくなる。一方、学習指導要領の中身を吟味することなく、バイブルのように崇め、忠実に実践する現場の一部の教師達が指導するのだから、泳げない子どもが出てくるというのも無理はない。保護者は学校の水泳に期待していないし、スポーツ産業の力で学校の水泳が支えられてというのは何とも嘆かわしく恥ずかしいことである。

08/7/12 つらいバタ足指導
多いときで週に4回プールに入っている。指導教員というのもつらい仕事だ。ワシはプールに入るのは大好きなので、プールに入る事自体全く苦にはならないが、つらいというのはバタ足指導を受けなければならないということだ。プールは学年で入るので、初任者以外の学年の教師が指導するが、これがひどいなと思う。どうしてなのかが分からないが、どこでも共通してバタ足+自由水泳という流れで授業を進めている。
一斉指導ではバタ足でプールの横を泳がせるが、必ず歩いて進んでいる数人の子どもがいる。皆に遅れまいと顔をつけて必死になって歩いているが、やはり息つぎができていない。様子を見ていると、風呂のジャグジーのような勢いで鼻から水を出している。教師が「鼻から息をしっかり出しなさい」と教えているためだ。続いて「パッと息を吐きなさい」という。一気に吐くというのはわかるが、「パッ」と息を一気に吐くためには、体に空気が残っていなければ吐けないものである。鼻から吐ききった後でパッと吐くというようなことをさせるから、息つぎでつまずく子どもがでるのは当然のことだと言えよう。
確かに競泳選手は水中で鼻や口から息を吐いているが、それをそのまま初心者に当てはめるのは間違いだ。口から吸って鼻から吐くというのは非日常の呼吸法であり、初心者には酷である。「息こらえをして顔が出たらパッと一気に吐いてハッと一気に吸う」口から口の指導がどうして教師の常識にならないのだろう。
それで、ワシは泳げない子どもの側に寄って、小さい声で「無理にはかんでもええよ。顔が出たらパッと一気に吐いてみい」というと、続けて呼吸が出来るようになった。「水中で一気に鼻から吐きなさい」という指導をしなかったら、もっと子どもは泳げるようになると思うのだが。初任者ではなくこの人達こそ指導したくなるのだが、そんなことは出来ないので、バタ足指導をやっております。かなりつらい水泳指導だ。

08/6/1 ここまできたか!?財政難
この前、学校のコピー機でコピーしたら、なんと更紙にコピーされた紙が出てきた。白でなく茶色の紙にコピーされていた。「間違ってだれか入れたのだろう」と思って、コピーの紙が入ってある引き出しを引いたら、なんと!全てが更紙だった。これには驚いた。ここまできたんかと思った。そう言えば、学年更紙4しめとか印刷した部数をノートに書くとか会議で言っていた。会議の文書は裏表使う事になっていて、どちらが本当なのかわからない。
この裏表印刷というのが、子どもの宿題もそうなっている。今まで片面だけで済んでいたのが両面するようになって、子どもには不評だと思うが。新任君はそんなことも考えずどんどん出している。それでプリントがたまってヒーヒー言ってる。「そんなん当たり前!自分で丸つけできないのに出す方がおかしいやろ!」って言ったのだった。学級だよりなんか今の学校ではとんでもない話だと思った。
本当にこんなんで良いのだろうか?他に節約するところはないのか?例えば、水泳や陸上記録会に出す交通費とか、人権の研修会とか、そんなんやめたらいいんちゃうん?と思う所から(人によっては優先順位がちがうだろう)削っていくべきだと思う。コピー機から茶色の紙が出てくる状態をなんとかしたい。コピー機が悪くならないのかな?

08/5/1 まるむし商店を思い出す
運動場から笛の音と教師の大声が聞こえてくる。ワシは運動場側の教室の一番後ろの机に座って授業を参観しているので、体育の様子がよく見える。それに教師の声がよくひびいて聞こえてくる。担任は笛を次々に吹いて子ども達は並べられたコーンに向かって一斉に走っていく。時々命令調の短い言葉を発しながら。昔、まるむし商店という漫才師がおって体育教師のネタをやっていた。その漫才に出てくるような体育の授業風景にあまりにも似ていたので心の中で笑ってしまった。そうしているうちにある子どもが登り棒に登り始めた。それを見つけた担任は駆け寄って大声を出して叱りつける。子どもが逃げ出す原因を、子どものせいではなく教材に問題があるとは思えないのだろうか?副読本にあるような体育をやっていたら逃げ出したくなる気持ちがわかる。1学期始まりの体育がこれではおもしろくないだろう。これは決して担任を批判しているのではない。なぜこんな授業をさせるような副読本なのか?ということ。そして体育の副読本を使って授業をすることが常となってしまっていることを問題視すべきだと思うのだ。体育には教科書がないのだから、もっと自由な発想で子どもに喜ばれる教材をしなければ・・・。と思っていたら、次の時間はドッジボールをしていた。子どもには喜ばれるかもしれないがこれは尚ひどい。たのしい体育に転がろうが、体力づくり体育に転がろうが、まるむし商店型体育はずっとこれからも引き継がれていくのだろう。(まるむし商店のネタを知らん人には理解できない内容です。)

08/4/26 授業参観
一昨日は教室の後ろに立って、保護者の立場で5年生社会の授業を参観した。教師になって初めての授業参観で、わしの学校の2人は緊張して授業に臨んでいた。前日も一緒に発問や板書を点検しその一所懸命さに心をうたれた。遅くまで残って教室の飾りを点検していたようだ。当日は、準備しただけあってプラン通り授業は進められていた。気になったことは、保護者の私語だ。廊下ならまだしも教室の後ろで話をしている。何の話をしておるのか興味が注がれたのできいていると、妹の習い事だとか、ペットの話だとか、家に帰って電話ですませよというぐらい他愛もない話をしている。しかし、授業をしている教師の話をきいていないのかと思ったらそうでもなく、担任が言葉を滑らせたらきっちり反応している。あまりにもひどいので、その保護者達の方に近寄って立ってやると、怪訝な顔をして見てきた。声を潜めてではあるが携帯をするし、失礼この上ない保護者の態度である。これが、訪問した学校でもそうだったので、保護者の私語はどこの学校でも共通した悩みだと言える。「静かにしてじっと話をききなさい」こんなことを親にも言わなければならない時代になったのだろうか?汗をかきながら全力投球している若い彼、彼女の姿、それだけで感動できるのに。そんな機会は保護者にとってもほとんど巡って来ないことなのに、しっかり見ないとは、ああー、もったいない。
さて、火曜日に訪問した学校でもその日が授業参観→PTA総会だった。何とわしは2回もPTA総会に出た(自慢できることではないが)。話を聴いているのがほんまにつらかった。おまけに、その学校の職員ではないのに記念撮影までされて、ほんまにけったいな自分の存在だ。

08/4/16 指導教員
4月から4名の新任先生の指導教員という余りうれしくない仕事をしている。自分の学校を含め市内3校をまわらなければならない。そもそもわしは、若い教師を鋳型にはめ込むような制度自体疑問に思う。若い教師こそクラスにはりついて子どもと向き合い、そこから学ぶ事の方がたくさんあると考えるからだ。研修のために学校を開けることも、もっと考えてあげてほしい。(しかし、これも改善されたということらしい。そのため夏期休業中に集中するようになったらしい。)かつての自分を振り返ると、自分を育ててくれたのは同じ学年の教師だった。そこで、多くの事を学び授業の術を身につけてきた。空き時間に授業を観に行かせてもらい、同じ事を真似して失敗を繰り返した。反面、学ぶ所のない教師もたくさん見てきた。教師像を取捨選択する中で自分のスタイルが出来上がってくるものだと思う。そのモデルがすぐ近くにあったのだ。それが、週に一度来る指導が果たして初任者のためになるのだろうか。それよりも、同じ学校に指導員を設置する方が良いと思うのだが。
新任教師は大変だ。6時間教室の後ろで授業を参観されて、その後の7時間目に授業についての話をきかなければならない。素直でやる気に満ちあふれた若い先生ばかりなので、できるだけ負担のないようなサポートができたらいいと思っている。

08/3/23 パンダ合唱団最後のコンサート
今日はパンダ合唱団の最後のコンサートを観に行きました。パンダ合唱団とは奈良医療センター、パンダ病棟(筋ジストロフィーの人たちが生活する病棟)のメンバーや教師などで結成された合唱団です。年に一回この時期にコンサートを開いています。今回で25回目となりますが、最後のコンサートとなりました。多いときで30人、40人以上いたのですが、年々メンバーが減って活動も厳しくなり今回で終わりになったようです。最後とあって会場は満員でした。20年ほど前、ワシが養護学校に勤めておったころ中学生だった生徒が団長を務め、一所懸命歌っている姿に感動しました。2年前に息子さんを亡くされたお父さんのメッセージも心を打つものでした。家に帰って当時のアルバムを見ていたら、とても懐かしくて何か励まされた気がしました。

08/3/3 懐かしのLuiLuiダンス
つい最近のこと。TVをつけたら、太川陽介がルイルイダンスをおどっていた。「ああ懐かしいー。高2のときに踊った、というか踊らされたよなー。」と若き日を思い出した。文化祭でクラスで踊ったのだが、ワシはこの踊りがとても嫌いだった。それは、最後の「ルイルイ」という部分では、片手を挙げておかしなポーズをとらないといけなかったからだ。これが当時は硬派なワシにとっては屈辱的であり、高校生にもなってこんなことがよくできるものだと、楽しそうに踊っておるヤツを冷めた目で見ていた。それで、端っこの方で目立たないように細々踊っていたが、やる気のないのが目立ったのだろう、踊りを仕切っておるヤツが「真剣に踊っていない」と注文をつけてきたのだった。ほっとけと思ったが、怒るのも大人げないと思って、仕切るヤツの注文に従って踊っていた。今の高校ってどうなっているのだろう?文化祭などがあって、踊りを踊ったりしてるのだろうか?教育現場におりながら校種が違えば全く知らなさすぎ。すぐ隣は高校なのに。(こういうタッチで書くのはこのブログには相応しくない内容かもしれません。)

07/6/14 ゴーグルのお話
こんなことはとるに足りない話だけど、どんなふうに話をしていけばよいのかわからんし、きっとどこでもある話でありアドバイスが欲しいので書くことにする。「学習指導要領に水の中で目を開けると言うことが書かれているので、ゴーグルは禁止します」と言った保護者向けの文書をこの間配った。今年転勤になって、いろんな違いで戸惑っているが、ゴーグルに関してもそうだった。前任校では、「ゴーグルをしたら水泳が絶対上手くなるから、ゴーグルをした方がいい」と言ってきたので、苦々しい顔をしながらそのプリントを配布した。全国のニュースではプール開きの映像流れ、ほとんどの子どもはゴーグルをしている。目を保護することとか、衛生面とか考えてもゴーグルの果たす役割は大きい。以前に「ゴーグルしたら」→「目が開けられない」というのは確かかどうか試したこともある。前任校では1年の時からゴーグル着用を認めていた。こんな批判もあったので、6年時に目が開けれないのかどうかを試したところ目の開けられない子どもはいなかった。もっと、ゴーグルの積極的な評価はできないものだろうか?特に低学年の子どもは水の恐怖心が取り除かれる。低学年の子どもにとってゴーグルのサイズは大きく、ゴーグルをしていてもその隙間からゴーグル内に水が入って来る子どもが多い。それでも、つけているだけで安心できるのである。水泳をやってたらこんな当たり前なことはわかるはずなのにと思うのだが。
指導要領を盾にした書き方も呆れるけど、あまりこんなことで対立をしたくないしエネルギーも使いたくない。どのように批判していったらよいのだろう?職場で浮かずに聞いてもらえる方法を是非知りたいものだ。

07/4/30  掟破り
アエラKids、プレジデントFamily、日経Kids、本屋で平積みにされているこれらの親向け教育雑誌をワシは読むようにしている。先生とのつきあい方、授業参観の見方から、通知表の見方、いい先生といい授業をどこで見分けるか、子どもの授業のノートの取り方まで、いわば教師が共有すべき財産を親にどんどん放出しているのだ。決して隠すべきものではないが、教師が自分を磨くための知的財産が親に流れている。これらの雑誌を下支えしているのがなんと現場の教師である。執筆者のほとんどが現場の教師であり、ちょっと名の知れた実践家たち。各サークルや団体の財産も自分の研究成果として堂々と親に売っているのである。これらの実践家の執筆の仕方が気に入らない。たいてい「一般には○○、しかしこうすれば」という書き方で自分の教育技術を述べている。確かにひどい一般もあるが、その批判は教師の枠の中に立って教師に向けられるべきものであって、決して親の側に立ってすべきことではないと思う。自分の実践をもって、そうでない多くの教師達を批判していることに彼らは気づいてはいないのだろうか?
これらの雑誌は、学校にもっと関心を持って荒廃している(とされる)学校を親と教師が一体となってたてなおそうという好意的な発想に立つものではない。一般のひどさをを煽り、自分の子どもだけはそうではないやり方を身につけさせようとする親のエゴによって雑誌が支えられているのだ。そんな雑誌に手を貸すような執筆者は、このからくりに気づくべきである。今に、「その教え方は、なんちゃらKidsのどこそこに載ってましたわよ」なんて言う声が聞かれるかもしれない。

07/2/25 さらば対面式
7年間続けてきた対面式の卒業式・入学式が、今年かわった校長のために、この卒業式からできないことになってしまった。全く論議もなく、校長は教育委員会からの批判の手紙を延々と読み続け、「こういうことですから」と話を打ち切った。誰の発言もなく連絡として伝えられただけだった。ワシの学校は元々古い学校だった。運動会では日の丸の4隅を子どもが持ち、運動場を一周して入場するという珍しい学校だった。それが、8年前に新任の先生が来られ、対面式の卒業式を是非したいということで職員で話を重ねてきた。そこには長い長い時間を費やし、多くの怒りや悲しみがあった。皆が疲れ果てたが、やはり実現したいので論議を重ねた。そんな思いを真摯に受け止めた当時の校長は、何度も地教委に足を運んだ。そして、やっと勝ち得た対面式の卒業式だった。そんな学校の歴史を今の校長は一蹴した。それに何も言わない職場の雰囲気も呆れ果てた。校長は町の教育委員会から来ており、教頭の経験なしで校長になった人だ。対面式を潰すために来たのかとも思える。どうしてこんなことが許されるのか?全く希望が持てないで居る。(またワシの愚痴になってしまいました。御免。)

07/2/12 続・希望の持てない教師達
こういうワシも二度と教師をしたくない半数のうちの一人だ。こうしてHPに書けること自体希望がまだあるのかも知れないが・・・。しかし、こんなワシでも一時期は希望に満ち溢れた時期があった。青クサイ話だが「金を払ってでも教師をしたい」と採用後数年間は真剣に思っておった。どうしてこんな自分になったのだろう?自分の今までを振り返ると、ワシは学校のシステムの問題が一番大きいと思う。学校は教授する場であるのにも関わらず、あまり授業が重視されていない。教え方の上手な教師が評価されず、授業に魅力を失った教師や学級経営に疲れた教師が管理職になり、学校を運営することになる。そういう人が今度は個々の教師の授業評価をするのだが、どうしてまともな評価ができるだろうか。「いきいき」とか「目が輝く」とかしか言えないのだ。「どの辺りを指して生き生きとおっしゃるのですか?」とつい意地悪く問うしまいたくなるときが多い。学力低下が叫ばれる今、明日の授業を真剣に考え、五百万個の○を打つことに意味を見出す教師がもっと評価されていいものだと思うのだ。同志会に集まる人たちなどがもっと学校運営を任されるべきだ。要は授業の下手な者は管理職から外れろということだろうか。

07/2/4 希望の持てない教師達
「プレジデントFamily」という雑誌が書店には平積みで置かれている。親の学校に対する敵意を煽る雑誌であり、教師にとっては全くムカつく内容で書かれているが、この雑誌がよく売れていることを考えれば、それだけ学校に対する不安の表れであり関心があると言うことだろう。昨年の11月号は「担任教師の能力判定」という特集が組まれていた。教師の本音に迫るために、アンケートをとっていて、その設問の中に「生まれ変わっても先生になりたいですか?」という項目があった。「はい」と答えたのが全体では53%だった。50代が一番多く65%、一番少ない40代は44%。この数値をどう解釈すればよいのだろう。多いと見るのか少ないと見るのか?こんなものだと見るのか?したくないと思いながら仕事を続けているということを問題視すべきなのか?きっといろんな解釈の仕方があると思うが、約半数が生まれ変わったら教師はしたくないと思っていることは事実だ。そのしたくない理由を問う価値はあると思うのだが。

07/1/28  石川源三郎
石川源三郎は、奈良ブロックのたのスポ学習会(特集「12月号バスケットボールと子どもたち」)で話題になった人物である。1891年12月21日、ネイスミスが行った史上初のバスケットボールをプレイした18人のうちの一人に日本人がいた。それが石川源三郎だった。同号で滋賀の漆山さんが紹介していた『バスケットボール・ザ・ワールドニュース(水谷豊著/叢文社)』にはさらに詳細に述べられている。1870年(明治3年)軍の隊長の息子として生まれた石川はやがてキリスト教信者となり渡米を決意する。サンフランシスコの神学校からスプリングフィールドのYMCAトレーニングスクールに入学し、ここでネイスミスの授業を受け、史上初のゲームを行うことになる。驚かされるのがこの後の半生である。同校を卒業した石川は、YMCAの主事としてサンフランシスコへ、そして、ウイスコンシン大学の修士、博士課程へと進み学位を獲得する。この間に、地元の名士の娘メアリー・Cと出会い結婚。その後は、1903年帰国して三井物産に入社。1905年同社のハンブルク支店長としてドイツへ。1906年に長女メイベル(明美)が生まれ平穏な暮らしを送っていた。ところが、1914年に第一次世界大戦が起きる。1915年に家族でハンブルクを脱出しようと試みるが、同行を認められず石川だけがドイツに残り、抑留の身となる。メアリーとメイベルはカナダに移り住むが、石川はその後日本に送還。日本とカナダに別れ住んだまま二度と再会することはなかったらしい。メアリーは1952年80歳で、石川は1956年90歳で他界する。時代の悲劇というか、バスケットボールとは無縁の半生を送った石川の何とも数奇な後半の人生に興味が惹かれるのだった。

07/1/15 成人式
教え子の成人式によばれて出席してきた。TVで報道されているような若者のバカ騒ぎなんて見たくもないと思いつつ参加したが、全くそうではない成人式にいたく感動してしまった。全て実行委員が計画し、司会もわしの教え子が進めていた。パンフレットの表紙の書は、書道の先生になりたいと言っていた女の子の字だった。家族が成人に向けての手紙を読んでいると、急にその息子が舞台に上がってきて母親の言葉をかみしめながら聞いていた。そして、それが終わると母親を抱きしめた。そのシーンに会場全体が拍手。とても心温まるシーンだった。中でも成人代表のあいさつは感心。自分の決意と共に、「・・一部の政治家が戦争への道を歩もうとしている」と自分たちの未来を危惧し、平和を望む気持ちを訴えていた。壇上に座っていた保守政党議員は心して聞けと思った。「憲法改正に大賛成。でも戦争はイヤ」という軽い若者や、バカ騒ぎの成人式を特ダネとしてマスコミは取り上げすぎである。地方にはこんな成人式もあって、自分たちの将来を真剣に考えている若者がいる。そんな若者に希望を持てた成人式だった。

06/3/20 フツーの小学校を貫くこと
ワシのクラスに3学期に転入してきた子がいる。父親の転勤でこれまでに幾つかの学校を転々としてきた。学年最後の懇談会にはその保護者も参加されこれまでの学校のことを語っておられた。関東の前々校は、教育改革を進める大変教育熱心な学校であり、懇談会への参加が100%、PTA役員は立候補してなるという。算数では習熟度別指導を取り入れ、毎回のテストごとにクラスが変わっていく。子どもの戸惑いと能力格差の拡大に疑問を持ったという。そして、四国の前の学校は、対照的に学校への関心が極端に薄い学校だという。学校が学びの場とは見なされず、クラスの大半がお受験をするそうだ。学校が学校の機能を果たしていないと言われていた。そして、本校への転入。「やっとフツーの小学校に来た感じがしました。」と発言されていた。目先の目新しさや流行に惑わされず、上から下りてくることには疑いの眼を持ち、フツーの小学校を貫くことが今求められることではないだろうか。保護者の「フツー」という言葉を重く感じた懇談会だった。

06/3/5 モラルが問われている
奈良大会の特別講座の時も気になったし、冬大会の集まりでも、この間の関近集会の時もそうだった。何度不快な思いをしたことだろう。人が話をしているとき、お構いなしに携帯電話の着信音が流れることがすごく気になる。着信音だけに留まらず、慌てて外に出るその音で、せっかく聴いている思考が中断されてしまう。そんな失敗をはずかしいとは思わないのだろうか?特に、会外の人を招いて、講演してもらう場合は尚更だ。「おい、足を引っぱるなよ!!」と講師の方に要らぬ気を遣わなければならない。鳴るのはたまたましかしれないが、その鳴らす人は、マナーモードにする常がないための失敗だろう。ワシは今まで鳴らしたことがないが、着信音って本当に必要なのだろうか?そのため連絡が遅れることがあるが、以前のように家に電話しかないころを比べれば、何ら不自由だとは思わない。これから着信音を鳴らしたら、冷たい目で見るような雰囲気ができればいいのではないだろうか。若いヤツのモラルを問う前に、同志会のモラルを問わなければならない

05/11/19 続・出張雑記
教師の大会は多すぎるとは思いませんか?第40回大会だとかその歴史の重さはあるのかも知れないが、ワシなどはその道を極めたい者でもない。いつも開会の冒頭には、「たくさんの皆さんにお集まりいただきこの様に盛大に・・・」という挨拶があるが、「ワシなんか来たくて来てるのとちゃうよ」って言い返したくなる。同和関係の大会、各教科の大会、いろんな大会が年に1回行われ、それが郡市町村、府県レベルと階層化されている、そこに参加する人員を考えるとのべ何人だろう?ものすごい数だろう。授業時数の確保が叫ばれているのに、税金の無駄遣いが指摘されているのに、どうしてものものしい大会をなくしていく発想に立てないのだろう?本当に不思議。例えば、オリンピックの年に開催など、まずは考えればいいのにと思ってしまう。どうしても残したければ、サークル化して、やりたい人が学校とは関係のない場所で、その道を極めたらいい。動員で参加者を募るなどは以ての外だと思うのだが。
さて、私の両隣に座ったどこかの指導主事。連日この様な大会に引っ張り出されているらしく、そんな会話が聞こえてくる。随分お疲れのよう。講演が始まるとウトウトしているのがわかる。話を聞かんとほかの仕事をしているワシもいかんが、居眠りしてるあんたもいかんよ。自らこういう道を選んだんやから!

05/11/6 出張雑記
動員で行かされるとある大会に久しぶりに参加してきた。学校のくじびきで不幸にも当たってしまったのだ。この出張は各校1名以上参加という縛りをかけているために参加者も多く、午前中の講演会はそれこそ大きなホールで行われた。ワシはホールのいすがどうも気に入らない。人の前を頭を下げながら通らねばならない煩わしさや、足を伸ばせない窮屈さがあるので、いつも最前列の端の方に座るようにしている。この日も、ほとんどだれも座っていない最前列で開式を待っていた。すると、5分ぐらい前だっただろうか。ネクタイ姿の一団が入場してきて最前列に陣取った。ワシの両隣の空いた席にも座ってきたのだ。何が始まるのかと思ったら、来賓紹介が開演前にあった。ネクタイ姿の一団はいろんな肩書きを持った人のようだ。そして、端の方から一人一人来賓が紹介されていくと、来賓たちはその度に起立しホールの後ろの方を向いて挨拶をしていた。やがて、ワシの左側の人も紹介され、その人が立ち、ワシを飛ばして、右側の人が立った。聞いていると両隣はどこかの指導主事らしい。どうやらワシはものものしい肩書きの一団に埋もれていたようである。このシーンを後ろから見ていたらどんな風に映っていたのだろう?挨拶を飛ばされて座っている自分の後ろ姿を想像してしまい少し笑えてきたのだった。(話は続く)

05/4/1 続・目が点になる!? 卒業式・入学式
今、DVDカムのコマーシャルがTVで流れている。お母さんがビンのフタ(=DVDディスクなんだろう)を見て、そこから我が子の入学式の様子を思い描く。席から身を乗り出し我が息子を撮るのだが、息子の方も心得ていて、ビデオの前できっちりポーズをとるのだ。こんなシーンが当たり前となるようなCMを流さんといてほしいと思う。現場の教師たちはこんな様子にどれだけ迷惑していることか・・・。そう言えばこんなことがあった。前任校の入学式、教育委員会の人が式辞を述べている最中、舞台の袖から出くる男性がいた。最初は写真屋さんかと思っていたが、手に持っているのはビデオカメラだった。新入生の保護者らしい。舞台からわが子をさがしてビデオを撮っているのだ。また、今の学校であった話。卒業式で使い捨てカメラで写真を撮っておる。これが何と卒業生。友達を撮っているのだった。カメラを持たせる親も親だと思った。これらのことは学校の伝説として語り継がれていくことにすぎないが、理解しがたいことが起こって学校の常識というものがわからないようになってくるのだった。

05/3/13 目が点になる!?卒業式・入学式
おこってる保護者の顔がよく見える。ワシの学校は対面式の卒業式を行っているので、ステージを中央に、保護者と向き合う形で子どもと職員が座っている。子どもの撮影などは本当に間近で出来るはずなのに、それでもビデオやカメラ片手に前に出て撮る親。そのために視界を遮られ不機嫌な顔をしている親。そして、緊張もすることなくその様子を観察しておる卒業学年担任のワシ。良識というものがないのかと問いたくなるような場面に近年出くわすことが多い。先の不機嫌な顔をした親も、わが子となると他人の迷惑顧みず、前に出いていって多くの人の視界を遮っている。保護者席の横は来賓席。来賓に尻を向けることなどお構いなしである。
また、「携帯電話の電源をお切り下さい」と言っているのにもかかわらず、着信音が鳴って、シンとした会場に鳴り響く。すぐに切ったらいいのに、「モシモシ」と言って走って会場を出ようとする。その声と足音に、式の雰囲気がぶちこわされるのである。「モシモシは言うな!すぐに切れ!」と説教したくなる。(ワシは携帯電話に着信音など不必要な機能だと思う。「着信音を周りの人に聞いてほしいの?」と問いたくなる。)もすうぐ卒業式。まんぞうのメッセージのネタになるようなことだけはやめてほしい。

05/3/6 弁当を盗む
2月の中旬、子ども達が地域の方から戦時中の生活の様子について話を聞くという機会があった。ヒロシマでもなく大都会の大阪でもない。疎開先にあたる奈良の片田舎にも戦争の傷跡は生々しい。艦載機の銃撃があったり、空襲があったりと話からはたくさんの新しい発見があった。中でも、学校の事についての話は興味がそそられた。その方は、終戦当時小学校4年生。終戦間近の1945年はモノが極度に不足していたようだ。子どもたちは学校に着くと、はきかえた靴を盗まれぬよう自分の机の下に運んだようである。また、教室を開けるときは、日直二人を教室に張り付かせて、弁当が盗まれないように見張りを立てさせたという。貧しさ故に弁当を盗むという何ともつらい時代だったことか。弁当がなくなることが頻繁に起こり、どうすることも出来ない貧しさという壁に担任も悩んだことだろう。「犯人をつくらせない」ために日直に見張りをさせる教師の苦悩やある面での優しさが推し量れるのであった。

05/2/16 中高年のハイキング
体に良いことをせなあかんとワシもハイキングをするようになった。中高年のハイキングの仲間入りである。この間は、上ノ太子という駅から、自分の家まで約12キロを歩いた。二上山を越すコースである。二上山の頂上から下っているとき、後ろから足音が聞こえてくる。ワシがいかにもトロいかのようにせかすヤツがおる。「何やねんこいつは」と思いながら下っていたが、なかなか追い抜かそうとしない。下る足を速めたが、それでも、ピタッと後ろから追うようについてくる。「いやなヤツ」と思いながら下っていた。すると、ワシを抜かして一瞬に通り過ぎたのは白髪の老人だった。どこにそんな力があんねん。その直後に「速いですね」など、登ってくる登山客に言われながら、ええ気になっておる。二上山をマイ山と思っているような人だった。「ワシにはワシのペースがあるんじゃ」と麓まで下っていった。
山麓には温泉があるので風呂につかって汗を流す。大きい湯船につかると本当に気持ちよい。日常の煩わしさも全て流してくれるようだ。体を洗っていると、ワシを抜かして行った老人が体を伸ばして湯船につかっていた。先ほどは、腹立つ老人だったが、ワシと同じようにささやかな楽しみを見出しているのだろうと思うと何か親しみを感じた。くだらんことで気分を害していた自分の心の狭さを恥じるのだった。

05/1/30 2回目の相撲大会
昨年に引き続き低学年の相撲大会をした。昼休みの時間を使って行うのだが全くの自由参加。今年は参加者が多くて48名でのトーナメントを行った。女の子も4名参加してくれた。3本勝負で先に2勝した方が勝ち。一年生と二年生の勝負では、一年生には既に一勝したこととしてハンディをつけている。
それでも、やはり2年生は強い。体が小さくても、大きい相手を投げ飛ばしたりして、一年の間の成長ということを感じさせられる。
一年生は可愛くおもしろい。相手が二年生というだけで恐れをなし、張りつめた顔をして土俵に立っている子。二年生に勝ったのに泣いて担任の元に駆け寄る子がいる。投げ飛ばした一年生の元に寄って優しく気遣う二年生の姿なども見られ、とても感動的。笑いと涙で土俵が包まれている。

05/1/5 2005年あけましておめでとうございます。
いよいよ奈良大会の年。ほんまにやってきたと言う感じです。これからが正念場。たくさんの人を集めて大会を成功させたいものです。
正月に東大寺に行きました。東大寺というと大仏なのですが、ワシは南大門の金剛力士像が何とも美しいと思うのです。南大門に向かって右に阿形、左に吽形が立っています。口をへの字にして力を体内にためているような吽形の方が力強く感じられます。力を込めた腕や、ふくらはぎの筋肉が今にもはち切れそうな気さえします。よく観察すると、腕に比べて足の筋肉(膝から下)がとても太い。下から見上げるからそう感じるのかもしれませんが、誇張されているような気がします。鎌倉時代に作られたと歴史で習ったけど、トレーニングもない時代。どんな職種の人がモデルになったのでしょうか?それとも、理想の肉体を求めたのでしょうか?知っている人は教えて下さい。
奈良大会の宿舎から歩いて十分ほど。金剛力士像を見上げるときは、同時に足元にも注意してください。シカのフンが転がっていますので。

04/11/14 みんなの代表
ワシは児童会を担当していて、ちょっと前の議題は「運動会の反省」だった。各クラスで話し合った内容を持ち寄って、変えてほしいことなど来年の運動会に向けた話し合いをするのだが、クラスの意見の中には競技の得点に関することが多かった。というのも、ワシの学校では、個人走、団体競技、全員リレー、団体演技と、各学年が4つの種目に出ることになっているが、この中で、団体演技を除いた個人走だけには得点がつかないのだ。子どもの意見の中には、「個人走にも得点をつけてほしい」と言う声が多く、これを巡る話し合いが中心的な議題となった。しかし、「得点係がじゃまくさいくなる」とかという理由で、一部の発言力のある子どもの意見で強引にやめようということになりかけた。(そういえば職員会議の中でも同じ事が話題になって、「仕事が大変だからやめよう!」と言っておった方もおった。)「おいおいちょっとまてよ。あんたらはクラスの代表としてきたんやないのか?もうちょっと話をしてから決めたらどうや?」とつい口を挟んでしまったのだった。その後は、その長所短所について話し合いが進み、子どもの意見としては、来年度の個人走は得点をつけようと言うことに決まったが。
この話し合いを聞いていて、「今の国会議員なんてどこがワシら市民の代表なんやろ」って思った。少なくとも児童会に来る約半数の子どもと違い、自ら立候補しているはず。ジャンケンで負けてイヤイヤ来てはいないだろう。そうであるならば、市民の代表の考えを持って動いて欲しいと思う。自分の意見を言うのもいいけど、みんなの代表だと言うことを忘れて欲しくはない。そして、そんな大人にならないことを願うばかりである。

04/11/3 車いすバスケットボール
車いすバスケットボールを2年ぶりに実践することになる。今年借りた車いすは車輪が斜めに競技用の車いすでコマも後ろについている。とある福祉センターで10台借りることができた。貸してもらえた施設では新しく購入したようだ。しかし、4対4の試合を2コートでしたいので最低16台は必要。あとの台数を揃えるのが大変だった。前の時もそうだったが、特に冠に福祉何たら~と名前の付く施設で借りるのはハードルが高くて快く貸してもらえる所は少ない。こちらの意図をしっかり話し込まなければなかなか理解されないのだ。すぐに壊されると思うのだろう。それに、2週間という長期に渡るので当然と言えば当然だが・・・。行政の理解のなさには疲れてしまう。「倉庫に眠る車いすの方が多いんとちゃいますか?」って言いたくなる。まあええ。とにかく確保できたのだから。うれしくてすぐに乗ってみた。とてもよく走って何しろ軽い。これから2週間毎日体育があるので子どもたちも喜んでいる。

04/10/26 へぼ将棋
急に将棋がブームになって、子どもたちは休み時間には頭をつき合わせて必死にやっている。クラスで将棋のトーナメントをすることになり、「先生も出ないか」と誘われ参加することになった。将棋などは本当に久しぶりで大学時代以来である。そのころは随分暇を持て余して居たのだろう。下宿の隣に住んでいた編集局長のハチさんと指したことがあった。どういういきさつだったのか思い出せないがお互い熱くなり、将棋でケンカしたという情けないことがあったのを思い出す。さて、将棋トーナメントの初戦はつい2週間前に父親に将棋を初めて教えてもらったクラスの女子との対戦だった。少しは手加減でもせなあかんと思って臨んだ対戦に、迂闊にも負けてしまったのだった。それも、休み時間の10分以内に終わってしまうと言う情けなさ。「先生、手加減したらあかんで」とか周りの男子からは言われたけど、そうでない。これが今のワシの実力。ワシの力ってこんなにもへぼいのかと思って、早速ネットで将棋ソフトをダウンロードしてやってみた。プロ級から上級、初級と階級があって、その一番下に初心者というクラスがある。何とも今の力は初心者レベルで、初級クラスではことごとく負けてしまう。力を蓄え初級になったらクラスのトーナメントに参加しようと思っている。当分将棋のトーレニングが続きそうである。

04/9/23 田舎の葬儀
地域の温かいつながりという見方もあるだろうが、ワシにはありがた迷惑としか思えない田舎の葬儀。今回も葬儀ネタを書かせて頂く。昨年よめさんの母親が亡くなったが、その時とても驚いたことがあった。土曜日に亡くなり、日曜日が通夜、月曜日に葬儀があった。葬儀は、水利組合が池を売って建てた大変立派な会館がありそこで行われた。土曜日から入れ替わり人が集まってくる。通夜の時は、それこそたくさんの人が集まるのだ。初めのうちはたくさんの葬儀屋の人かと思っていたが、そうではない、農業で繋がる地域の人らしい(よめさんの父親は専業農家)。それが、葬儀の日は月曜日なのになんでこんなに人が多いのか、膳の数が70ほど。親族が20ぐらいなので、50人が葬儀の手伝いに来たことになる。それで、この人たちが何をしたかというと、確かに朝ご飯の炊き出しには来てくれたと思うが、それ以外に何をしたのか定かでない。こんな見方はおかしいかも知れないが、「葬儀」というイベントにその辺の人が集まったという感じを受けたのだった。自営業の人が多いが、中には会社を休んでまで葬儀に来た人もいる。「こんなんで会社を休まんと仕事せい!!」と言いたくなるのだった。
もう一つ、これがまた不思議なこと。浄土真宗の葬儀だったが、お経のサビの部分「なーんまいだー」のくだりになると、みんな声を揃えてお経を唱えている。それが、みんなそうなので大合唱となるのだった。ワシ一人が何か取り残されたような思いになって、この馴染めない奇異な様子を、薄目を開けて見ているのだった。
田舎は地元の結びつきが強いとは言え、ワシには全く理解できないことが多かった。よめさんの父親もこうして他人の葬儀に行ってるのだろう。何とも不可解な田舎の葬儀。ワシの見方が変なのか、田舎が変なのか?みなさんの地域の葬儀ってどんなもんですか?

04/9/23 葬儀について
葬儀のネタは不謹慎かも知れないが、不可解に感じることが多いので、少しばかり書かせて頂く。先日祖母が亡くなった。93歳という大往生である。葬儀の度に思うことだが、長いお経を聞くことはとてもつらいことだ。当然通夜もあるし、今では、初七日を葬儀の日に行うことも多いので長いお経を三度も聞くことになる。周りを見ると目を閉じて下を向いている親戚が見られる。死去から通夜を経て、睡眠もとれないので仕方ないことだろう。また、お経のリズムが眠気を誘うとも言える。しかし、意味のわからないお経を聞かされるのはどうもつらいことだ。それが、この間のお経は様子が違った。曹洞宗の葬儀であり驚いたことがあった。いつものようにお経が30分ほど続くが、10分か15分経った頃だろうか、急に「喝(かつ)」だろう。坊さんが何か意味不明の言葉を大声で発した。マイクが繋いであるので、大きな声が辺りに響いて、睡魔に誘われていたワシも一気に目が覚めた。周りを見たら、親戚の者の多くが「何があったのか」という驚いた様子だった。全員目が覚めたという感じだった。これを坊さんが楽しんでいることもないだろうが、何で喝が入るのか、お経がわかればその理由もわかるだろう。一度で良い。お経の現代語訳を聞きたいものだ。お経はわからんから有り難いのかもしれないが、そんな坊さんがいてもいいと思う。

04/9/19 短縮授業
放課後という言葉と同時に死語になるのでは。始業式の次の日から通常授業が始まった。暑いし勉強にならんし、子どももワシもつかれてへとへとだった。数年前までは、短縮授業があった。給食の始まるのが一週間後でそれまでは午前中で終わっていた。午後の時間を利用して、運動会の演技の練習をしたり、秋の遠足の下見をしたり、時間的な余裕のある中で2学期がスタートした。頭にくるのが、これが教頭会なる数人の組織で勝手にきめよったらしい。短縮をさせないために、通常ならもっと後に始まる給食を、始業式の次の日から始めよった。なんの相談もなく一方的に。さらに、11月の土曜参観の後に今年は授業をするらしい。これも、同じ手を使ってわざわざ休日に給食をするようだ。「そんなん当たり前」と一蹴されるかことかもしれないが、みなさんの学校はどの様な状況か知りたいところである。

04/9/2 校歌について
2学期が始まった。いつものように始業式と終業式には校歌を歌う。クラスの子どもはワシの歌う校歌に期待をしておって、真剣に歌うワシの方をチラチラ見てくる。というのもこの学校に来て9年目になるが、まだ完全に校歌を覚えておらずよく間違える。なかなか声のでない6年の近くで大声で歌うので、間違いもかなり目立つようだ。また演歌調の声なのかどうかわからんが、ワシの声もかなり気になるらしい。それで、この2学期の始業式は、それこそ大声でこぶしをきかせながら最後まで歌い切った。他の先生の目も気になったが、「どうじゃこれで」という勝ち誇ったような感じで歌いきったので気持ちの良い2学期の始まりとなった。
さて、子ども達は校歌をいろんな機会を通して歌わされる。入学式、卒業式、なんでか運動会までも。それも6年間歌わされるので体にしみこんでいくのだろう。小学校の校歌は今でも歌えるのが自分でも感心してしまう。それが、中学になると随分あやしくなり、高校の校歌は全く記憶にない。それでいて、「あーあーPL」というPL学園の校歌のサビの部分は歌えるのはなんでやろと思う。これは、大阪人に共通することらしく不思議な事である。

04/8/12 ドル平教室
今年は会場校を変えたこともあって参加人数は25名。例年と比べて少ない。スタッフも今年は充実しており、余裕を持って教えることができた。3日間で子ども達は確実に泳げるようになっていった。「本当に泳げるようになるのだろうか?」と思っていた子どもが最終日には100m以上泳げるようになった。泳げないという事実に対して、いろんな方法を試みるのだが、なかなか泳げるようにならない子どももいる。しかし、何らかのきっかけで確実に技術を獲得して泳げるようになっていく。それがどういうきっかけなのか、これだけ多くの子どもを教えていても、その変わり目が未だ分からないのである。
出来高に走ることを戒めなければならないが、泳げることによって自信を持ってくれるようになることを考えると、「泳がせてなんぼ」の水泳も必要かと思うのだ。来年は奈良大会なのでドル平教室はあるのかどうかわからないが、子どもや親から続けてほしいという声がある限り続けていく意味はあると思う。

04/6/11 若いヤツは失礼
岩波ジュニア新書にこのタイトルのものがあるが、この本の内容と同じ事をワシも考えてしまうことがある。連休中大阪に買い物に行った帰りの車中でのことだった。阿倍野橋から乗った近鉄特急に20前後の若い男女が乗ってきた。片手に透明のプラスティックの容器に入ったオレンジジュースを飲みながらワシの前の席に座った。そして、次の尺土駅ではワシと同じように降りようとした。飲みさしのオレンジのジュースをなんとそのまま前のボックスに置いたままである。飲みさしなのでオレンジの液体は当然ゆれている。ワシは「おい自分でこれほかさんかい!!」と言った。とても不服そうな顔でワシをにらみ、渋々その容器を持って特急列車を降りたのだった。何というか、後の人の事を考えない失礼なヤツだと不愉快な気分になった。こんな若いヤツの予想すらできない行動が大変気になる。ファーストフードのゴミを平気で近くの植え込みに散らかす若者の姿、動き出した電車の窓から乗る学生。これは若者のごく一部であってほしいと思うのだが・・・。
目を覆いたくなる様なこの惨状を憂う大人達、特に保守系政党を支持する大人達は、これが日教組教育のなれの果てと断罪する。責任なき自由を広げた結果がこの有様だと。当然、彼らは学校での奉仕活動大賛成。愛国心教育大賛成。「勉強とは苦しいもので当然である」という。考え方としたら分かる気もする。
こう言った若者のモラルのなさが修身教育の復活に手を貸していることに若いヤツらは気づくはずもないだろうが・・・。「若いヤツよしっかりせんかい!!」とつい愚痴りたくなるのだ。

04/5/30 童謡について
ずっと前のこと。「教科書の歌/川崎洋(いそっぷ社)」本を衝動買いした。詩人の川崎洋さんが、戦前戦後の教科書に載せられていた童謡66曲を、エピソードとともに紹介している。ページをめくると「知ってる知ってる懐かしい」と頭の中で歌っている。次から次へと自分でも感心するくらいよく思い出せるのだった。なんと驚くことに66曲全部歌えた。当たり前のことかもしれないが、それだけ小さいときに覚えた歌は記憶に残っていて思い出せる。例えば、「丘をこえ行こうよ~」のピクニック。「ララララあひるさん(ガガガガー)とか言ってたし、ヤギさんの(メエー)はおかしな格好をして言った。しかし、2番にブタさんが(ブブブブー)というのは知らなかった。「桃太郎」には、6番まであり、6番は「万々歳万々歳お供の犬や猿雉は勇んで車をえんやらや」だそうだ。替え歌も紹介されていて、「靴がなる」の「お手テンプラ」とか、「お正月」の替え歌で「早く来い来い寝正月」、「月」の「でたでた月が」を「たでたでかきつ」とかも思い出せた。なんでこんなに覚えているのだろう。66もの歌が学校で教えられたとは到底考えられない。よくよく考えると童謡のほとんどは家族に教えてもらったものが多かった。安っぽい童話集を広げながら、知らない歌を親に教えてもらい家族で口ずさんだものだった。口ずさめてなんぼのものではないが今はどうなのだろう。そんな時間はゲームの時間に変わってしまっているのだろうか。童謡や唱歌などは完全に次の世代に伝わらなくなり過去の文化として葬られる危機に今あるのだと思う。

04/4/17 副業について
亡くなったよめさんの母親の満中陰なるものがあり、たいそうな田舎の風習に戸惑いながらも仏事を終えた。一時間半もお経を聞かされるのはとてもつらいことだが、休憩を入れながらも一時間半もお経を唱える住職には尊敬の眼差しを向けたくなる。この住職、聞く所によると中学校の社会の教師らしい。そう言えばぼうさんで教師という組み合わせは少なくなく、檀家の葬儀で年休をとる先生もおられた。突然にやってくる葬儀や、土日はお勤めでつぶれるこの副業もつらいものだろうと想像される。教師が学習塾を開くと新聞沙汰になるが、ぼうさんとの副業は認められるのだろうか。高校の時の地学の先生は、田植えで学校を休んでいたから農業との副業も良いのだろうか。さらには、民間の教育団体で講演し、がぽがぽ収入を得ている教師の場合は副業とは言わないのだろうか。はたまた、わしの小さいころの話だが、社会の教師でもあるおぼうさんが自分の寺の本堂で学習塾を開いていたのはどうなるのだろうか?だから重職という?(すみません)いろんなケースを考えてしまう。どの組み合わせが許されて、どれがいけないのか思いを巡らせながらお経を聞いていた。

04/4/4 春の珍事異動
毎年この時期、春の珍事異動には驚かされる。ヒラから管理職へと巣立って行かれるお方たち。中には、この人物の何処を見て採用したのだろうかと疑いたくなるようなケースもある(というかほとんど)。数々の失敗を繰り返し、伝説として学校で永遠に語り継がれていくだろうその人は、晴れ晴れした顔で学校を去って行った。教頭試験に通ったときも、聞いてもせんのに「お陰様で通りました。」と何でかワシに近寄ってわざわざ言いにきたけったいな人だ。「今度行く学校大丈夫なんかな。」と赴任先の学校の心配さえしてしまう。
一方、定年待たずにみんなから惜しまれて、学校を去っていく人もいる。「どう考えてもこれは反対やろ」と思うのだ。管理職採用の評価規準、評価基準を是非知らせてほしいなと思う。やっぱりコネの世界なのだろうか。管理職になれない(ならない)負け惜しみにとられたらイヤなので、これ以上は書かないが、どうも腑に落ちない変な教師の世界。

04/3/27 平和は何処に
わしは軍歌を歌えてしまうのだ。「麦と兵隊」「上海便り」「同期の桜」など。「海ゆかば」などはとても良い曲だなと子どもの頃は聞き入っていた。小学生の時、家には松方弘樹の歌う軍歌のレコードがあった。そのジャケットには軍服と日本刀を持った松方弘樹が立っていた。レコードを何度となく聞いているうちに軍歌がしみこんだのだと思う。「同期の桜」の「みごと散りましょ国のため」の所ではレコードの針が飛んでいて、「みごと散りましょ国・ため」までまねて歌っていた。わしが小学生だった70年8月15日、一心寺に参りに行ったわしの日記には、阿部野橋の陸橋の上に立っていた傷痍軍人のことが書かれている。戦後25年経った当時でも、戦争の跡がまだ残っていたのだった。ゴールデンタイムに「決断」という戦争を賛美するかの様なアニメが放映されていたし、軍記物のコミック、ちばてつやの「紫電改のタカ」などもわしは好んで読んでいた。(作者の意図は戦争の空しさを訴えるものであると思うが、当時のわしはそれを読み取れなかった)今では考えられないことが、あのころは許され平気だったのだ。そんな時代だった。
あれから30年以上が経つ。その間、平和運動・平和教育が進められ、学校では多くの教材が取り上げられ、積極的に教えられるようになった。戦争に反対し平和を求めることを疑う者はいないだろう。「昔はよかったよな」という人がいるけど、平和への意識に関しては、わしはいつも「昔がよかったはずがない」と思うのだ。
しかし、それだけ全ての人の意識も変化したはず(と思う)のに、イラク戦争反対の声が大きな運動とならずに、軍隊派兵に理解を示す声があがる。世論調査では半数近い人がそれに賛同しているのだ。このギャップをどう埋め合わせをすればよいのか、どう理解したらよいものか答えを見出せないままで困って居る。

04/1/21 大相撲大会
ささもりさんがつなひきの綱を使って土俵をつくったというのを聞いて、わしも運動場の隅に土俵をつくってみました。児童会主催のイベントで、昼休みの時間を使って大相撲大会をするためです。綱を埋めるための溝をほって砂を入れ、その周りをつなで囲ったらそれらしくなってきました。砂場の砂が足りないと言ったら、たくさんの砂を買ってくれました。子どもからも「本格的な土俵だ」と言う声が聞こえて好評です。低学年の参加26人でのトーナメントが今週から始まりました。
ささもりさんが言ってたように、土俵を囲む賑わいがとてもいい。いろんな学年の子どもが集まってきて、応援の声に包まれます。1年と2年の取り組みもあって、白熱した取り組みが見られます。わしはマイクを握って「にい~しぃ~」と、呼び出しの役をしています。予定では今週は低学年の部、来週は中学年ですが、決勝戦までかなり時間がかかりそうです。

03/12/20 たまり場のススメ
学級担任でない私にも学習室という部屋が充てられています。分割の少人数の授業を行うときは、クラスの半数の子どもがここに来て授業をするのです。少人数授業の対象の学年は、2年生なのでこの部屋のとなりは2年1組、その向こうが2組です。空き時間はここで丸付けをしていて、休み時間になると2年生の子どもがやってきます。しかし遊び道具もないので「とてもつまらん部屋やな」と言われたりします。確かに掲示物もない殺風景な教室だったので、子どもがそう言うのももっともだと思います。それで、算数の授業で使った木製のタングラムやパズル(木製の袋に入ったのが売ってありました)などを教室の後ろの壁につったら、いつのまにか子どもが集まるようになりました。それも、2年生だけでなくて、いろんな学年の子どもが集まって来るのです。中でも樽のせ(¥300)というおもちゃが人気があって、樽の形をした木片をただ積む単純な遊びですが、必死になってやっています。6年の子どもが、2年生に「へたくそやなあ!!6年にもなって」とか言われながらも、6年生の子どもは黙々と樽を積んでいるのです。その光景が何とも微笑ましい。いいなあと思います。学習室が一種のたまり場というかサロンというか、子ども達の集う場所となっています。休み時間はそんな姿が見られるので、ここで過ごすようにしています。

03/12/7 わが子の名生徒が浮かび決められず
『高校生川柳・狂歌集/高文研』というのに載っていた川柳。「ジュ・パンス」という高校生の雑誌に掲載された川柳・狂歌から収録したものだそうだ。これは教師の作品だが、教師になれば子どもが生まれて惑う事だろう。いろんな名前が候補から消されていって、みなさんはどのように名づけられたのだろうか?生徒の他の作品もおもしろい「先生のギャグで静かになる授業」「授業中誰かに似ているあの先生いっこく堂の右手の人形」「高校教師ドラマと違い皆おじん」など。なかなか笑える。

03/11/6 習熟度×(バツ)授業
先週「学力向上フロンティアスクール」の研究指定を受けている近隣の小学校の中間発表会に参加してきた。公開授業は3年生の算数の習熟度別授業である。3つの習熟度別のクラスに分けてあり、チャレンジは12×5、じっくりは12×3、のんびりは12×3の計算を既習のやり方で答えを出すというものだった。下のクラスだけには「ヒント」というコーナーが設けてある。答えがわからなかったら、そのコーナーに行って、牛乳キャップなどの具体物を使って答えを出す。考えたやり方を机よりも少し大きめのマグネットシートに書いて発表するという授業の流れだった。
初めに課題の説明があり十分ぐらいで式を立てると、その後はひたすらプリントに向かって自分の考え方を書く作業が続く。考えを書くという作業は、しんどい子どもにとって難しすぎる課題だと思って見ていたが、子どもは、すぐに用意されていた5つぐらいのヒントの所に行って考えていた。ヒントと教師のアドバイスだけが授業中の子どもの相手であり、子ども同士の会話はほとんどない。教室に子どもの元気な声も響くことも無く、黙々とプリントに向き合っている姿が異様に思えた。「トトロ」コースの最後のまとめは、「○さんはお金を使って出したね」「△君は×の段を使って出したね」と出した方法についてグループ分けをして授業が終わった。
公開授業後、大学の先生の講演があった。習熟度の利点を2つだけあげて(①数学的考え方が育つ②子どもが算数好きになる)、その後で、問題点を5点(①学力差の拡大につながる<この研究校が実施した保護者アンケートの中にも出ていた>②多様な考え方が生まれない③コース選択に子どもが迷う④論議が深まらない⑤人間関係が固定化する)も挙げた。「課題が多い。だから習熟度別は×(バツ)なんだ」と言うのかと思ったら、「学力差の拡大を恐れずにやってほしい」と言い切った。この学校は、講演した大学助教授の指導の下、研究を進めているらしいが、「よくぞこういうことを公言できるものだ」と呆れるばかりだった。

03/11/3 土曜の午後
わしの教師としてのふりだしは病弱の養護学校からでした。在籍する子どもは隣接する病院に入院していまして、毎朝そこから学校に登校してきます。わしは、喘息で入院している小学部の子どもを担当していました。養護学校の中学部には、軟式の野球部があり、その活動がいつも土曜日の午後にありました。野球部といっても、子どもは入院している中学生の子ども2、3名程度ですから、教師の数の方が多かったようです。教師の参加は自由なのですが、少なさもあってか、若い教師はたいていクラブに参加していたように思います。土曜日の午後になると、近くの大衆食堂で飯を食った後、クラブが始まります。ノックをしたり、簡単な試合をしたり、参加する教師は、日頃の運動不足解消のために、汗を流しているようなものでした。
クラブが4時ごろに終わって、職員室に戻ると、まだ数人の先生が残っておられて、一週間の残務をされていました。若い教師達は、そのまま飲みに行ったり、サークルに出かけたりと、その後の活動はまだまだ続くのです。
学校には、今では考えられないそんなゆとりがありました。養護学校だったからなのでしょうか。週五日制がのんびりした学校のゆとりまでも奪ってしまいました。土曜の午後を知らない今の若い教師たちは、可哀相にも思えます。学校のよかった所が、次々に失われていくように思うのは、わしの年のせいなのでしょうか。

03/10/25 目くそ鼻くそ
25日(土)、NHKスペシャルの「学校が変わる」という番組を見られた方も多いのではないでしょうか?「学力低下」を大前提として、構成されるNHKのこの番組では、その課題に取り組む福岡県の同じ町内の2校が紹介されていた。学力テストの結果が平均を下回ることから、教育長が町内の全小学校に「学力向上」の実現を指示した。ただし、その方法は各校に委ねられる。
紹介された一つ目の学校は、「習熟度別学習」で「がんがん」「がっちり」「じっくり」という習熟度別コースをつくる。子ども達に初めて「習熟度別に分割して授業をすすめることを」話すとき、教師は黒板に、「がんがん」「がっちり」「じっくり」と上下に書いた後で、横一線にこの3文字を書いた。そして、上下の関係ではなく、横並びの関係である事を説いていたが、どうも道徳っぽく、力説すればするほど嘘くさく思えた。授業後にアンケートをとって、「楽しかった」というその反応に満足しているようだが、こういう類のアンケートには、子どもは概ね好意的な反応を示すものである。やっぱりなあ。「学力低下」という命題の前には、「習熟度別しかないんやな。」とため息をつきながらTVを観ていた。
しかし、もう一校の取り組みは、習熟度別ではないという。「一斉授業で」というやり方に期待を持ったが、それはすぐに裏切られた。全く学習塾のような授業風景で、「文章題はクイズなんだ」と教室に響く教師の大きな声に、子ども達もつられて一斉に声を張り上げる。戦前の修身の授業、或いは、正月にはちまきを巻いて受験勉強に取り組む進学塾のように思えた。「百問割り算」をする子どもの間を、担任はストップウォッチを持ってうろうろする。やっぱりなあ。
「学力低下」克服という上からの命令には、こういう形の授業しか描かれないものなのか。心配されるのは、出来映えを追求がするために、「わかる」授業は隅に追いやられることである。それに、この両校ともCランクの子どもの学力が上がったようだが、その先に何があるのだろうか?
この2校は同じ町内で公開授業を頻繁にしているようで、授業後にそれぞれの学校の教師が立ち話をしているシーンがあった。一斉授業の学校の教師が、習熟度別のやり方に対して、「それは競争を助長して差別選別につながるんじゃないか」などと言っていた。(百マス計算は競争を助長しないのだろうか?差別選別に繋がらないのだろうか?)それに対して、「私の学校では、じっくりコースに行って、私はここがイヤという子はいないです。」ときっぱり言った。(なんでそんなことわかるねん?)この会話が、なんとも面白くて、目くそ鼻くその言い合いに思えた。

03/10/11 学力低下
「算数だより」を数号発行しています。その中で、今の「学力低下」と言われていることについておうちの人はどう思われているのか尋ねた所、次のような意見を頂きました。「・・・私は学力低下と言う声に耳を傾けてくれたり、その問題に対して一生懸命考えたりしてくれる先生達がいてくれるので、子ども達の学力低下は無いと思います。世の中には、向上心が段々無くなって来た先生や、自分の知識がもう一杯で、これ以上何も増やそうとしなくなってしまった先生に教わる子ども達に学力低下が有るのかな?と思います。」これに似た意見を幾つか頂いて、なかなか的を射ていると思いました。励まされると共に、今こそわしらが日々の授業に情熱を注ぐ時だと思いました。40歳を過ぎて、子どもとの距離を少なからず感じてきます。中には、授業にも魅力を感じなくなり、第二の道を目指す人も多い。授業から逃げることをせず、しっかりした学力をつけなあかん。今こそわしらヒラの教師の出番だと思う。

03/9/30 読者が選んだ私の好きな岩波文庫100
こういったフェアが今大きな書店でやっている。「死ぬまでにはこの100冊ぐらい読んで人並みの教養をつけんといかんよなあ」と思いながら本を手に取り見ていた。1位が漱石の「こころ」、2位が「坊っちゃん」でその人気がわかる気もするが、中には、「こういう本を一体誰が読むんや?」というような本もある。例えば、人気69番目のルソーの「エミール」。教育者なら必読の本と言われるが、ページを開いただけで頭が痛くなりそう。ワシの頭ではこれは到底読めそうもない。「サルでもわかる」解説がついてくれないと読む気もしないと思った。しかし、「読者が選んだ」と前置きがあるのだから、「エミール」に投じた人が少なくない人数なのだろう。「エミール」に一票を投じた人は、どんな日常を送っておられるのかその生活を垣間見たいものだとも思う。他にも、「徒然草」(14位)など、ワシには高校時代の古典の苦痛にしか思えないが、これを素晴らしいと思える感性とは何ぞやと思う。或いは、わけのわからん本を読むという難題を自分に課し、「これだけのものがワシの頭でよくぞ読めたものだ」と苦行を乗り越えた後の充足感。自分を褒めてやりたい気分。そんな禅の修行にも似た点で一票をこの本に投じている人もおるのではないか?全く凡人のひがみ以外何ものでもないが、一体どんな人が岩波文庫の一票に投じているのだろう?「読者」というのがキワモノのように思えてならなかったのだった。

03/9/18 鈴木大地の課外授業
少し前のこと。各界の著名人が母校で授業をするNHKの番組に鈴木大地が出ていた。以前のまんぞうのメッセージに「達人は達人らしくあれ」という表題で酷評したことがあるが、ひどいのはスポーツ選手の授業である。それは、授業の落とし所が「がんばったらできる」で共通しているからだ。中には、大学の先生にもなっている人がいるのだから、教えるという術をもっと学べとも言いたくなる。どうしてがんばってできたその原因を示せないのだろう。鈴木大地の授業も全く同じ。子どもに提示した「潜水25m」と言う課題も理解できないが、授業の最後に「がんばればできる」という言葉を発したのがとても残念に思えた。
だだ一点だけ評価したいことがあった。それは、「25m潜水」と言う(無茶な)課題をグループで解決させようとした点だ。能力別のグループではなく、くじ引きでグループをつくった所にある。あるグループには顔もつけられない女の子がいた。(番組では普段は初級グループだと報じられていたので、この学校では能力別の水泳の授業をしているのだろう。)25m潜水どころではないのである。グループの子ども達は何とかしようといろいろ知恵を出し合う。「こうするんや」と示範する子ども。手をつないで顔をつけようという声に「イヤだ」という女の子もやがてはやっていた。そして、友達の励ましを受けながら、頭までつけられるようになったのである。それを遠巻きに見ている鈴木大地の位置もよかった。できない子を取り出すのではなく、グループで解決させようと努めたところだ。最後の日には、その女の子はバタ足で数メートル進めるようになる。いろんな子ども達が一緒に学ぶと、多くの可能性が引き出せるということを番組が示していたのではないだろうか。しかし、異質集団で水泳を学ぶ素晴らしさを習志野市立大久保小学校の職員は見出せただろうか。問われているのはこの小学校の水泳指導の在り方である。

03/9/11 ちょんまげの本
今日も算数の宿題の丸うちを図書室でした。クーラーがきいているのと、丸うちがイヤになったら気分転換にそのへんの本を読めるので、最近はよく利用している。もちろん少ない空き時間にであるが。数日前に本棚を見ていたら、ちょんまげの本が目にとまった。「おもしろスポーツ史/ポプラ社」と言う児童向けに書かれた本である。1984年体育の日に書かれたようだ。ちょんまげとはもちろん国会議員のあの有名な人である。いろんなスポーツの起こりを児童向けにわかりやすく書かれている。この人は、大学と大学院で「スポーツ史」を先攻されていたようで、書籍からは、プレイすることだけでないスポーツの面白さを伝えようとする熱意が感じられる。「・・・『スポーツ馬鹿』という言葉が、日常会話の中でよく使われます。これは、スポーツをプレイすることだけに熱中したあまり、スポーツしか知らない人たちを比喩する言葉です。が、スポーツ好きな読者のみなさんにはそうなっていただきたくないと考えるのです。」(あとがきから抜粋)スポーツを「文化」として捉える視点とか、なかなかいいことを書いていると思いながら、夢中になって一気になって読んでしまった。この本に書いたように、プレイするだけでないスポーツのもう一つの楽しさを今でも多くの人に伝えていたならば、ちょんまげを切らんでもよかったかもしれない。実に惜しまれる。

03/9/4 教育残酷物語
夏休みの終わりにローカルな組合の集会があった。参加者の中には60年代に香川県の小学校で学力テストを受けたという先生がおられ、当時の様子を語っていた。香川県は学力テスト6年間連続全国1位だったという。その実態はひどいものだった。テストの日には成績の低い子どもを休ませたり、テスト中も担任が誤答に対して答えを書き直すようにコツコツ机をたたいて促したようだ。その先生は書き直した(書き直させられた)国語の漢字を今でも覚えておられる。どの学校も成績を上げようと必死で、隣の愛媛県は「香川に追いつけ、追い越せ」がスローガンになっていたようだ。当時の様子を「愛媛教育残酷物語」として書籍にも著されているらしい。勤評学テの嵐が吹くこの時代、校長が組合と教委の板挟みになって自殺している。この状況が今と何とも似てはいないだろうか?学校に競争を持ち込んで、目に見える形で外部評価させる今の状況と。「そうじゃない」とはっきり言わなければ、いろんな不当な教育改革の波に呑み込まれてしまいそうである。組合も分断され、わしらは全く不幸な時代を生きる教師だと思えるが、悲観せず、「おかしいことはおかしいという」声をあげなくてはいけないと思った。同じ過ちを繰り返させないためにも。

03/8/27 緑のプール
「ああここも」電車の窓から見える小学校のプールが夏休みもまだ終わっていないのに緑色に染まっている。1学期で水泳指導が終わって2学期はもうないのだろう。2学期の水泳指導は、夏休みに泳いだ成果を確かめる時間だった。1学期に学習した内容を元に子どもたちは休み中に自分で泳ぐので、2学期の時点ではかなり泳げるようになってきている。そして、夏休みに泳いだ成果を確かめ、「よく泳げるようになったな」とほめてあげる。2学期の水泳はそんな貴重な時間だった。今年度になってから2学期の水泳指導を打ち切った学校が多いのではないだろうか。授業時数の確保と言うことでわしの学校でも2学期の水泳指導はなくなった。2学期にしないんだからプールだけを浄化させておくのはもったいない。だから、休みに入ると機械も止めてしまおうとなる。水泳指導の授業時数も少なくなった上に、夏休みの指導もなくなってきている。「1学期の授業で泳がせることができなかった分、休みを使って泳げない子どもをどうにか泳がせよう」そんな教師の済まない思い、熱い思いも失せた。これらの状況が、スイミングに通わせる原因となっているのではないだろうか。力を十分発揮できずに終えてしまう緑のプールが何とも哀れ。

03/8/20 少人数指導
少人数指導ということでこの1年は算数ばかり教えている。2年と4年の算数を教えるのだが、2年では試行的に分割授業を、4年はTTで教えている。わしの学校では習熟度別授業はやめて、単純に1クラスを2つに分割して16人ずつで授業を進めている。子どもたちの反応はとてもいい。2年生だからというのもあるかもしれないが、その一番の理由として、「先生がたくさん当ててくれるから」と、アンケートにも何とも嬉しいことを書いてくれる。しかし、中には「うるさい人がいなくて静かに授業ができるから」など、「低学年のうちからそんな友だちの見方をするなよな」と言いたくなるような記述もある。教師側の問題としては、同時進行なので担任と進路を合わせなければいけないので、子どもの理解に合わせて授業を進めるということが困難になってくるということが挙げられる。また、教科書どおりにしか進めないということもだ。わからなかったら立ち止まったり、はやく進めるなどの授業の強弱がつけられず、改めて当たり前の普通の授業の良さがわかるのである。

03/7/31 実践に刺激を受けて
一気に実践する勢いは大事だと思います。いい実践を聞いたらすぐにやってみたくなる。子どもが変わってくれるのなら、これだと自分でもできそうだ思ってやってしまう。すぐに二学期から実践に移したのが支部大会高学年分科会で報告のあったSさんのフラッグフットボール実践でした。フラフトの実践は、これまでにも何人もの人がやっていますが、Sさんにしかない切り口がありました。目の前の子どもに合わせた内容を丁寧に提示しています。実践をとても新鮮に聞くことができました。同じく実践を聞いた奈良の先生から、次のようなメールを頂きました。「・・・S先生の熱意いっぱい、自信いっぱいの実践発表ぶりに感心してしまいました。彼が報告の冒頭で言った「子どもが同じ所から出発できる。そこからの授業の始まりが大切。」は私も社会科の授業作りの基本にしていることです。教材選択の重要なことは教科を越えていえることです。しっぽとり、インベーダーゲーム、王様ゲーム、2対1、2対2、3対2と進む報告と一人の男の子の成長は何よりでした。・・・」これだと思ったら一気にやってしまう勢い。わしに欠けているものを教えてもらえたような気がしました。

03/7/23 平泳ぎ
23日の朝日新聞天声人語には世界水泳に因んで平泳ぎのことが書かれている。日本のお家芸だった平泳ぎ。「まだ浮かんでこない。まだ浮かんでこない」とアナウンサーが実況したのはメルボルン大会(56年)。潜水泳法で優勝した古川勝は40m以上も潜水したそうだ。その後、潜水泳法は危険と言うことで禁止される。「足の短い日本人向きに考案したキック」でメキシコ五輪(68年)に臨んだ田口信教は、それがバタフライのキックだとして失格。その後田口はミュンヘンで優勝するが。そして、今回注目の北島康介はコンピューター解析など最新の研究成果から田口以来の世界新記録で優勝する。天声人語では、平泳ぎに果敢に挑戦する日本人として三者を讃えているようだが、わしは、身体的なハンディをルール内での泳法改良によって臨んだ古川や田口に人間味を感じてしまう。もちろん北島の偉業はすごいものであり、科学的なトレーニングの賜物だと思うのだが、何処かかかつての東欧諸国のやり方に似た冷たいものものを感じてしまうのだ。しかし、これは歪んだ見方かもしれない。

03/7/20『奈良の寺/岩波新書』
教師になりたてのころ、近鉄奈良線西大寺駅から少し北の秋篠と言う所で2年間ほど一人暮らしをしていた。近くには競輪場があって休みの日などはその歓声や鐘の音で起こされたものだった。最寄りの駅である西大寺駅はいつも使っていた駅であるのに、その西大寺には行ったこともない。この本を読んでちょっとした発見があった・・・そうか、東の大寺(東大寺)に対して、西の大寺(西大寺)なのか。こんな見方をしたこともないので、「なるほど」と、レベルが低いかもしれないが、当たり前の納得をしてしまった。東大寺が聖武天皇が建てた(建てさせた)のに対して、西大寺はその子どもの称徳天皇が建てたそうだ。わしは奈良県民なのに奈良の寺について知らないことが多すぎる。「なるほど」の連続で、この本を興味深く読むことができた。他にも、かつて大安寺に9mの大仏があって、これをまねて東大寺の大仏ができたということ。ただしこの大仏は画像だったそうだ。奈良大会もあることだし、お寺を巡りもおもしろいかもしれない。西大寺にもそのうち行ってみようと思う。

03/7/12 1962年初版の百科事典
今年は少人数担当なので算数を教え、プールにも入ることもなく職員室にいることが多い。授業中にはコピーをたのみにくる子どももいて、コピーをしてあげることもある。この間のこと、3年生の子どもが分厚い百科事典を持って職員室にやってきた。一目で古い百科事典だとわかるのだが、ページの色は褪せているものの破れている箇所も見つからない。どれだけ活用されずに図書室で時を経たのかがよくわかる。社会の授業で調べ学習をしているというので、そのページを開いてみると、とてもなつかしい田園風景が広がっていた。稲刈りの時の様子だと思うのだが、家族が田んぼのあぜ道で輪になって昼食をとっていた。撮影場所が大阪市近郊と書いてあった。いつの時代のことなのかとその百科事典の初版を見ると、何と1962年と書いてあった。21世紀の子どもが、40年も前の百科事典を使っているのである。こんな事典ばっかりなのかと後で図書室に行くと、60年、70年のものが多かった。「調べ学習」で一体何を調べるというのだろう。「40年前の人々の生活の様子」というのならわかるが。「調べ学習」のためにもうちょっと図書室の本を充実させよといいたくなる。これはわしの学校だけなのだろうか。学校の図書室の本を調べてみるとおもしろいかもしれない。

03/6/25 岩石標本
先週の水泳実技例会。会場となった小学校のプールの横には岩石標本があり、様々な石が立派に並べてあった。「今でもあるんやな」ととてもなつかしく思えた。わしは今の平野区の団地に囲まれた小学校出身。給食室の前の小さなスペースに岩石標本が並べてあった。そのすぐ横には、石炭室があって、はみ出た石炭が転がっていた。わしは石炭係だったので、毎朝バケツを持って石炭をもらいに行った。中には、岩石標本の欠けた石なのか、石炭なのかわからないものがあったのを思い出す。今は奈良の学校に勤めているが、今まで岩石標本の置いてある学校を見たことがない。こんな話をしたいたら、実技例会に参加したある人は、岩石標本を岩石をもらい、サヌカイトの包丁を持っているそうだ。家には岩石標本が転がっているらしい。今も岩石標本はあるのだろうか。それともどこの学校でも壊されたり、なくなったりしているのだろうか。是非知りたいものである。

03/4/20 子どもをつかうな
統一地方選挙が真っ最中。市長や市議会議員やらいろんな選挙カーがやってきて一体何の選挙なのかわからない。気持ちよくねているのに黄色い声に起こされる。いつも腹立つのが「未来の子どものために」とかいいことばかり言う。聞いていて本当にうそくさい。「30人学級実現のために」とか言うけど、「ほんまにするのんかい!!」と聞きたくなる。腹立ったことはまだある。4月初めの県会議員選挙期間のときのこと、卒業させた子ども達の中学校の入学式に出ていた。静かな体育館に急に大きなマイクの声。選挙カーが学校の近くまで来て、新入生のあいさつがかき消されたのだった。町の入学式ぐらいわからんか?と言いたくなる。こういう声も、結局響いているのは選挙期間だけで、再出馬せん限り、その後は聞くこともない。当選してもアジ演説で議会の様子を伝えている議員がたまにいるけど、ほとんどが傲慢であり、不正に走る者さえいる。「そんなヤツらになんで多くの人は投票する!?」と言いたくなるけど、やっぱり通る人は通る。悲しいかな、わしが投票した人たちが通ったためしがない。世間とはかけ離れた自分のものさしに気づかされるのである。

03/4/9 とださんの話
アラカルト例会では東京のとださんに球技の実技を教えてもらいました。シュートボール、ラグハンド、フラフトいずれも参考になりました。わしが一番興味深かったのは、東京の習熟度別学習のことです。とださんの学校でもある学年だけは、習熟度別を採り入れているそうです。たまたま、習熟度別の授業に入ったの教頭は、「習熟度別はダメだ」と会議で発言されたそうです。その理由として、「習熟度別は授業にならない。子どもが発言しない。反応が返ってこない。横のつながりがない。やっていて授業が全くおもしろくない」とのこと。そりゃそうやろなと思いました。わしは今年度は担任を離れて少人数指導の担当となりました。習熟度にならない少人数授業の在り方を追求することかな。同志会グループ学習の出番でしょうか。

03/3/30 どんな最後の一年を迎えるのか
職場には、終業式をもって教職を終えられた女性の先生がおられます。最後の年は障担をされていました。昨年の運動会予行練習のときのこと。2年生の「かけっこ」だったでしょうか。ずっと泣いていて、なかなか退場しようとしない女の子の手を引っ張って走るその姿が目にとまりました。先生はとてもつらそうで、最後の方は女の子に引っ張られて走っていたようにも見えたけど、一所懸命な先生の姿に心打たれたものでした。私は運動会の進行係なので本部席の近くでその姿を見ていました。本部席のある私の前を通り過ぎようとしたとき、その女の子の走る様子にテントのパイプイスに座って拍手を送る校長の姿がありました。「がんばってー。」と声援を送っているのです。女の子の手を引いて走る老教師と座って声援を送る校長の姿。その姿が大変対照的でした。そんな光景を目の当たりにして、「わしもやっぱり最後まで子どもの手を引いて先生を終えたいよなあ」と思えたのでした。もちろん、人にはそれぞれ適・不適がありますが、わしは教職最後の一年をその先生のように、子どもの側で迎えたいと思いました。その先生の後ろ姿から多くのことを学ばせて頂きました。本当に有り難うございましたという感謝の思いでいっぱいです。

02/12/13 奇妙なる同時進行
総合的な学習推進派と低学力克服派のせめぎ合いをどう見たらいいのだろう?総合的な学習推進派は、一つのテーマに向かってとことんやるスタイルをとる。例えば、米作りの課題を追究する学習であれば、学校の土地を開墾して水田にしたり、農家への取材やゲストティーチャーを招く。大人も知らない農薬の名前を子どもが口にするのに驚かされる。こんなんやってる時間どこにあるのか?普通の授業どうなってるの?とか大きなお世話の疑問が生じる。しかし、彼らは「生きる力」こそが学力だと信じているのでとことん追究してしまうのだ。方や、低学力克服派は、徹底した習熟で問題解決の効率を求める。そんなやり方に喜びを感じる子どもがこわいとも思えてくるが、学習塾のやり方にすっかり慣らされた子どもには快感と感じるのだろうか。
多かれ少なかれ、日本の学校は両極端のこの間に置かれるのであって、それでは、自分の学校がどこに位置するのか考えてみることは必要だろう。一番失敗しやすいのが、両方を取り入れた学校だ。日本のほとんどの学校はこれにあたると思う。なぜなら、どちらの考えにも同調できるので、無批判に何でも受け入れ、時間数の上でも苦しむし、地域に応えるがためのイベントの計画で一番苦しむ立場にあるのではないだろうか。
それでは、どちらの派にも与しないという我々の位置はどうだろう?これまで学習指導要領が画一的だと批判視してきたが、今回のような現状をどのように捉えたら良いのだろうか。様々な学校があっていいんだ、個性的だと評価すべきなのだろうか。どうもこの同時進行がわしには奇妙に思えて仕方ないのだ。

02/11/10 跳び箱が習熟度別学習のモデルに
ブロック例会が行われていた9日、部屋にこもってHPの更新をしていた。その日は4時から「どうする日本の”学力低下”」という番組がNHK教育でやっており、また、NHKスペシャルで「分かるって面白い」という習熟度別学習の実践校が紹介されていたので、ずーっとTVをつけていた。学力低下批判に対しては、習熟度別で解決されるのだと文部科学大臣が語られ、参加者からもそれに対する批判はなかった。違和感を感じたのだが、それが一般的に捉えられているのだろうと思った。9時からの番組では、「落ちこぼれと格闘する女教師」と題し、荒れの問題を習熟度別学習で克服する山形県の中学校の様子が伝えられていた。「かつて授業を抜け出す生徒が後を絶たなかった。「授業が分からない」という生徒の訴えから、学校側はクラスを4つに分け(春夏秋冬)、習熟度に合わせて教えた。生徒一人に先生一人というマンツーマンの補習も行った。その結果、授業離脱者や校内暴力は激減した」そうだ。ここの学校が、習熟度別学習を採り入れた契機は、体育の跳び箱の授業らしい。自分の課題に応じた段数で、目標に向かって挑戦する姿、そこに荒れを解決する活路を見出したらしい。古典的な体育の授業が時代を先取りするという皮肉な結果になるのだろうか?番組は、習熟度の一番下のクラス(春)の子どものがんばりに、それを支える教師の苦悩ぶりを加えドラマに仕立てる。習熟度別を素晴らしく描く番組の構成の仕方に憤りを感じたが、この番組は困難校であれば受け入れやすいだろう。習熟度別に批判を加えるならば、確かな論拠が必要で、浪花節的正義感、道徳観だけでは駄目だということが番組を見ていてわかった。問われているのは、むしろ我々の側だと感じた。

02/10/27 心のノート
7億3千万円程の予算を使って作った心のノートが、「教科書でもなく、副読本でもなく、『心のノート』のみを持って道徳教育を行うものでもない」という但し書きで配られた。こんなわけのわからん但し書きがあったようだ。わしなどはこんなこともよく知らず、毎年配られる交通安全の本と同類だと思っていた。そうしてるうちに実施状況が芳しくないと言うことで、文部科学省は更に保護者向けのパンフレットを配って活用を徹底させている。「修身教科書の復活か」という声もあるようだが、わしはここに書かれてある内容や解決へのプログラムが何となくそれ以前から流行ってる参加型学習と似ている感想を持った。参加型学習でよく取り上げられている自尊感情(セルフエスティーム)という横文字。自分を肯定的に捉える気持ちが大事だと言えば、それは尤もであり間違っていなくて、そういう子どもの方が望ましいだろう。しかし、一番アブナイのは、そのプログラムを行ったら、何となくそのプログラムで解決したように、或いは実践者が望む良い結果を安易に導いてしまうことだと思う。先日開かれた教研集会でも、それに類するレポートの報告があった。参加者から、心の問題を管理的な心のプログラムで解決しようとすること自体がナンセンスといった内容の指摘があり私も同感だった。子どもがよくなっていくというのは、もっと他にも理由があるはずで、それを追求しない安易な安心の方が問題だろう。ところで、『心のノート』をみなさんはどの様に活用されているのだろう。知りたい。

02/10/21 今年も車いすバスケ
車いすバスケが、障害者のためのだけスポーツではなく、「ユニバーサルスポーツ(淡口造語)」であることを理解させるためには、健常者と障害者が共にスポーツをする場面を是非見せたい。そんなことから、今年も根木さんにお願いして、健常者の選手を招こうと計画しています。今のところ、8名ほどの選手が来校してくださる予定です。(その中には、健常者も障害者もおられます。)
難題が、今年も車いすの確保です。わが町だけでは足りないから、近隣の町の福祉センターへの貸し出しを頼もうとすると、わが町の紹介状が必要なのです。ところが、またもやいやがらせが。「他町の車いすがこわれたらどうするんだ。責任は持てない。」ということで、紹介状すら書いてもらえないのです。今のところ、ゲームの行える最低台数16台は確保できているのですが24台はほしい。「どれだけ車いすが有効に使われてるんや」「たいてい倉庫に眠ってるんとちゃうの?」と言いたくなります。
実践開始が修学旅行あけの21日からの2週間。毎日体育をやります。その様子を紹介しますので、また、ご覧ください。

02/9/30 達人は達人らしくあれ
『課外授業、ようこそ先輩』をどう見ますか?教材研究にはもってこいのヒントを与えてくれる番組だと思うと同時に、おもしろくない授業をしている現場教師への痛烈な批判として受け止めながらわしは見ています。何で出てくる子が高学年ばかりなのでしょう。テレビに映るんだから失敗させたくないというその小学校の体裁もあるのでしょうか?変な詮索をしてしまいます。おりこうさんの子どもしか出てこないのは少し残念です。
さて、気になることがあります。出てくる先生たちはその道を極めた達人です。文化や科学のエキスパートのはずです。なのに、どうして子どもの薄っぺらい発想に迎合するのでしょう。何でも認めて、つまらない(言い過ぎか?)思いつきに「ふんふん」と頷く達人達の姿に、「ちょい待てよ」と言いたくなります。最上の文化や科学の成果を子ども達にぶつけてほしいと思いました。『ようこそ課外授業へ』に出てくる達人の授業こそ、今の新自由主義的なの教育の表れだとは言えないでしょうか。発想を否定せず、やらせっぱなし(中には、そうではない人もいますが)。やはり、当然でしょうが、課外授業の先輩は達人であっても、教育者ではないと思います。特に、スポーツ選手の場合は極めて異質。どのスポーツ選手も、子どもにタイム短縮させるという発想しか浮かばないのでしょうか。決まったように、最後のまとめの言葉は、「がんばったらできる」です。
何やかんや言っても、毎週わしは見ています。教材研究の源として。

02/9/14 卓袱台
日曜の深夜にNHKでアーカイブスという番組があります。これは昔放映された番組を再放送して、当時の世相を現代的な視点から見直そうという番組です。主に昭和30~40年代の番組なので、懐かしさと共に、当時の生活の様子がよくわかります。夏休みの終わりだったか、この日はゲストに立松和平さんと木の実ナナさんが出演されていました。昭和40年ごろの住宅難がテーマで、木の実ナナさんが「卓袱台」について自分の思い出を語っておられました。家が狭いので、赤ちゃんが踏まれないように直径50㎝ほどの卓袱台を父親が作ってくれたそうです。赤ちゃんの時はその上で育てられ、やがて成長すると、本来の卓袱台として食事の時に使い、そして今でも、お酒を飲むときなどに使われているという話でした。とてもいい話だなと思い聞き入っていました。
卓袱台と言えば星一徹がひっくり返す場面をすぐに連想しますが、卓袱台を囲み、家族が頭を寄せあって食べる姿は日常よくある姿でした。住宅難で「狭いから」という理由で自殺者まで出た昭和40年代。深刻な社会問題となり、一人当たり最低3.5畳が必要という調査結果を行政は導き出したそうです。そう言えば、わしの家も頭の上がすぐタンスであり、タンスに囲まれた部屋で家族が体を寄せ合って寝ていました。朝刊に入っている住宅分譲のチラシを見ては、マイホームを夢見ていた少年時代を思い出しました。狭さ故に、家族の顔を見ずには生活できなかったあのころ。息づかいがすぐそばで聞こえていました。そんな時代にはもどりたくはないけど、貧しさの中だからこそ味わえる幸せも有り難いものだと思えたのでした。

02/9/9 かみ合わない対談
『体育科教育』10月号には、中村敏雄氏と川淵三郎氏(今はキャプテン?)の対談が掲載されている。「学校体育と地域スポーツクラブの連携を考える」という内容の対談だけど、全くと言って良いほど、話がかみ合っていない。川淵氏の分相応主義、エリート主義に対して中村氏は疑問を投げかけているけど、ことごとく川淵氏は否定している。そもそも、川淵氏が学校体育のことなど考えているのだろうか、こういう人に何を聞き出そうとしたのか?編集者の意図がわからなかった。最後の2人が握手をしている写真。川淵氏は笑っているけど、中村先生の表情が大変かたく、ちょっと怒ってそうなのが印象的だった。

02/9/3 少人数指導
この特集が『現代教育科学9月号』で組まれていて、これがとても面白い。おもしろいというのも呆れかえるくらいの面白さである。「少人数指導は学びの共同体の否定か」という命題に対して、横浜の小学校の先生が「否定とはならない」という論考を寄せている。その中では、少人数指導は既に体育では「めあて学習」として行われているというのだ。器械運動を例に挙げ、「習熟度別」と「選択」に対応するのが体育の「めあて学習」という。(なるほど~)そして、個に応じた指導の結果として、「めあて学習」は活動の面で子ども達を「分断」しているとその先生は言い切っている。(そりゃそうやろ)ここからの論の展開が神業で、「子ども達は「できる」という視点よりも、「がんばっている」という視点で友達を見ている。それは、自分ががんばっているから、友達のがんばりも認められる。だから、学びの共同体の否定とはならない」と言うのだ。(ほんまかい?)「ぼくもいいぞ、君もいいぞ」という文言には、つい笑ってしまった。
ウルトラE級の論の飛躍やこじつけが随所に見られるので、一読の価値があります。

02/8/30 まんぞうのページ
新しくなります。残念ながら、9月からまんぞうは事務局をおりることになります。このHPにはたくさんの人のアクセスがありカウンターも16000をこえるまでになりました。これまでのご来場どうもありがとうございました。立ち上げてから約1年、少しは情報の交流・発信に役立てたかなと思っております。まんぞうのページの管理は、来年度の事務局さわぐっちょにお任せします。「名前もさわぐっちょのページの方がええで」と言ったのですが、「いや、まんぞうのページで行く」と固辞されたので、当分の間は、まんぞうのページを継続することにします。まんぞうができなかった実践のページの充実と発信をさわぐっちょさんにお任せしたいと思います。まんぞうは研究の方に行きますが、引き続き、情報源としての役割を陰ながら応援しようと思います。今後とも、まんぞうのページならびに学校体育研究同志会大阪支部をよろしくお願いします。

02/8/21 車いすバスケットボールの実技
講師は昨年と同じシドニーパラリンピックの日本チームのキャプテンをされていた根木慎志さんです。10月後半に車いすバスケの実践を予定をしていて、その実践の中盤に来てくださることになっています。今日は学校から9人の先生が参加しました。1時から5時まで、途中に根木さんの話も聞きながら、いっぱい汗を流しました。しんどさばかりが語られる障害児教育実践をつくりかえたい。そんな想いで始めた実践ですが、車いすバスケはおもしろくて奥深い。車いすを使うことでバスケにはない面白さが備わっていること。バリアフリーからユニバーサルという視点を含んでいること。健常者の参加も想定されているルールであることなどが挙げられます。それに、20数台の車いすは2週間しか借りられないので、集中して実践できます。体験で終わらせないためにも、とにかくたくさんの車いすを集めることです。一度やってみませんか?

02/8/15 熱海の思い出
水辺分科会は二小で実技を行いました。ここの小学校のプールは室内プールだと聞いて、「夏やのに何で室内プールやねん?」と思っていました。ところがこれがすごくいいのです。体育館の一階にある25mの温水プールの横には小さなプールがあって、温泉がわいているのです。体がさむくなったら、いつでも温かい湯につかれるのが、とても有り難かったです。さすが温泉町だと思いました。プールは一般の人にも開放しているようです。
学校の設備で一番いいと思ったのが、とにかくろう下が広いと言うことです。教室の幅よりも少しだけ小さい広さのろう下なので、廊下に卓球台やマット(体育館のマット運動のマットです)がおいてありました。うちの学校でろう下に卓球台を出したら、通れないけど、十分その横を通れる広さがあります。ここで、きっと休み時間に卓球などをするんだろうと思いました。ろう下にマットがしいてあると言うのもおもしろい!!また、ろう下のはしにはじゅうたんがしいてあって、パソコンがならべてありました。掲示物も教室ではなくてろう下にはってあるので、ろう下というよりは、もう一つの教室と言った感じでした。そして、さらにいいことが、食堂があるということ。とても広い教室に、机といすがならべてあります。とにかく清潔です。チョークの粉が舞う教室で食べなくていいなんてうらやましい限りでした。
熱海の小学校が特別恵まれているのか、それとも、わしら関西地域の小学校がずいぶん遅れているのかどうかしらんけど、同じ日本の公立小学校なのに、この差は何だろうと思いました。市町村が教育にどれだけ力を入れいているのか、小学校を見ればよーくわかりますね。

02/8/10 熱海大会
2泊3日という短い期間でしたが、熱海大会はいかかだったでしょうか?大阪支部からは子どもさんもふくめて45名の参加がありました。大阪の目標が一応は50ということでしたが、遠い熱海であるし、よく集まって30名だろうと5役などでは言ってました。ところが、最後の方では、急に参加者が増え、45名で参加することができました。初参加の方、支部例会ではあまりお目にかかれない方、本当に久しぶりにお会いできる方など様々ですが、年に一度、全国大会に結集できたことはうれしいものでした。支部大会成功の勢いをそのまま全国につなげられたのではないかと思っております。
今回は出張、研修、年休など様々な立場で全国の先生達が参加されていました。病んでいるとしか言い様のない教育現場の混乱、様々な厳しい情勢がよくわかった今大会でした。それでも、圧力に屈せず、管理職と交渉をして何とか参加された全国の方々の様子を見ると勇気づけられるものがありました。また、会員数が十数名の中で全国大会を終えられた静岡支部実行委員会の方にもお礼を申し上げたいです。実行委員の活躍ぶりを見ると、2005年がもうすぐだと思いました。夏はまだ終わっていませんが、たくさんの励みをもらえた大会になったと私は思いました。

02/8/2 親子ドル平教室
3日間のドル平教室が終わりました。40名の参加があり、この間にたくさんの子どもたちが泳げるようになりました。私は4年生以上のグループを担当していました。「けってー、けってー、のびてー、パッ」子どもの手は何とか目の前の水をつかもうと必死です。何回かの苦しい時を乗り切って、やっと25mの壁にたどり着いたとき、「やったね。」って声をかけます。ペアの子どもや周りにいた子どもたちも拍手。泳ぎ切った子はとても満足の笑みをたたえています。こんなときはうれしいもので、幸せをわけてもらった気がします。

02/7/31 皆さんお体を大事に
夏休みに入って、視点論点のページをアップさせようと、支部ニュースを読み返していた。丁度、教師のバーンアウト・カローシの稿だった。大阪では毎年、50人から60人の教師が死んでいる。(約10年前)勤務の多忙からの過労死である。学校週5日制になって、この数字が増えてはいなか今とても心配される。1学期はどうだっただろう。毎日忙しくて、年休はほとんど取れない状態だったではないか。子どもに済まないから、同僚に迷惑をかけたくないから、そんな善意がより教師の身体を蝕んでいる。わしも人間ドッグを夏休みに入って行った次第だった。学校の仕事を家に持って帰って、遅くまで仕事している。大多数の教師の善意によって、日本の教育が維持されているのだ。その分を休業中に取ることがどうして憚れるのだろう。「世間の目のために報告書を書け?」」こんなことをよくぞ言えたものだ。同じ教師という立場であるはずなのに...。自分の体を守らないと潰されてしまう。そんなアブナイ時代を生きている。

02/7/28 大阪支部大会
中河内大会が終わりました。参加された皆様方ご苦労様でした。心からお礼を申し上げたいと思います。147名もの参加者で盛り上がった大会になりました。熱い論議、暑い教室の2日間でした。これだけ盛大な大会になったのも、中河内の実行委員会の皆さんのお陰です。宣伝から、大会運営に至るまで、ブロック長を中心とした中河内の結束力が感じられました。本当にご苦労さまでした。さて、この勢いで今度は全国大会です。みなさんとは熱海でお会いしましょう。たのしみにしております。

02/7/23 夏休めん
「先生は完全週5日制に伴って、今年から夏の研修が始まった」とかいうような報道がテレビではたくさんあった。とある東京の研修センターで研修を受けていた教師がインタビューを受けていた。「今年は去年と比べたら(研修があるので)大変です」などと言ってる。「おいおいあんたは今までそんな楽な夏休み送ってたのか?そんな不用意な発言をメディアを通してするから、教師が楽だとか暇だという誤解を受けるんや。言葉を慎め!言葉を!」と思わず言いたくなった。多くの教師は夏休みなんてないだろう。仕事を休みに持ち越し一学期の残務をする。そして、2学期のやりたい授業の準備にかかる。行きたくもない出張にも行く。民間教育団体の大会に参加する。夏休みなどはない。夏は休めんのや。

02/7/20 屈辱の報告書
結局、休みの間の自宅研修(個人研修)については、何をしたか文書で報告することになりました。奈良の場合は特に、新聞沙汰になる教師の不祥事→だから夏休みに研修しろ、と本来何の関係もないことが当然のように語られ、地教委から降りてくる文書にも、あからさまに書かれていたのです。「この報告書を認めることは、我々への管理が一層強められるその第一歩なんだ」と言って食い下がったのですが、「報告を書くことぐらい」とか、「ほかの町と比べたら、まだましやで」という周囲の雰囲気があって、まんぞう一人がうだうだ言ってたと言う感じでした。個人研修については、これを余儀なくされてきたという経緯があります。民間教育団体の出張については認めて来なかったから、出張ではなく、個人研修として書いてきたのです。そこで、個人研修という権利の確認と研修を押しつけるのなら、出張として認めることを力説してその会議は終わりました。
報告書と言っても、A42/3程度にまとめて書くのですが、書くと書かないでは大きな差があります。しかし、「これぐらいやったらええやろ」と思わせるような提案の仕方は、何ともうまいもので、してやられたと言う感じでした。

02/7/15 一年が経ちました
昨年の今日開設したまんぞうのページ。この一年間にたくさんの方々の訪問があり、なんともうすぐで15000人に届きそうです。いつもまんぞうのページを見て頂き、誠にありがとうございます。ホームページなんて作ったこともない私が今こうして皆様方に情報を発信していることが信じられません。この間多くの方にアドバイスを頂きました。端々の技術に誠実に応えてくださった方々に心からお礼を申し上げたいと思います。この一年をふり返ると、ホームページで学んだことがたくさんあります。中でも、健康教育の掲示板での授業作り、新たな集団研究の方法ができたのではないでしょうか。また、頻繁に他支部の方からの情報も入るようになりました。そして、時間をおかずにすぐに連絡できるようにもなりました。これはITの素晴らしい面だと思っています。また、時には、全く知らない学生さんから「とどのつまり」の注文や、他府県の方からの民舞教室の問い合わせがあったりと、いろんな方々に見られているのだと嬉しくもなったりしたものでした。しかしその反面、私が一番力を入れたかった実践の発信はほとんどと言っていいほどできていません。大阪支部の売り物である視点論点も全て載せることはできませんでした。これらは、これからの事務局の課題だと言えます。夏休みの間に少しでもアップしたいと思っていますので今後ともまんぞうのページをよろしくお願いします。

02/7/13 世間の目
世間の目があるから、夏期休業中は4回の研修をするようにということを管理職が言い出した。おまけに何をしたのかまとめて報告するようにとのこと。夏休みはいつも忙しい。土日に関係なくいろんな研究会にも参加して、言われなくても研修をしてるではないか。お金を払ってでも行く大会、嫌々でも行かされる人権の研修、家におる方が少ないではないか。まとめて休暇を取れる一般人の方がうらやましいぐらいだ。世間の目など、よくぞ言えたものだと思う。こういう言葉を口にする管理職こそ、自分の学校の職員に向かって「おまえら仕事していない。」と言ってるようなものだ。管理職の我々への見方がよーくわかったこの間の会議であった。

02/6/30 通夜
通夜があった。幹事をしてるので受付をしなければならない。通夜の始まる1時間ほど前に会場に行った。今日の葬儀は葬儀屋が建てた会館で行われた。大変きれいな立派な建物で、教会のように左右に椅子がずらっと並べられていた。受付も会場内にあり、暑さも寒さもしのげる場所で行われることが一番よいと思われた。(但し値段はわからんけど・・・。)
受付と言っても香典の辞退があり、学校関係の記帳の前に立っているだけだった。とにかく暇だったので、教師ウォッチングをしていた。これから書くことは全くとるに足らないことなので軽く聞き流してほしい。まず、気になったのが、記帳する人のペンの持ち方である。3本の指でペンを持つのではなく、薬指にペンを置いて4本の指で書くのだ。クラスの子どもにそういうのを見かけたら、「それは筆の持ち方やろ」と言うのだが、そんな持ち方なんてどうでもいいのだろうか。鉛筆の持ち方の指導なんて今はしないのだろうか。これが、少なくはない人がそうだったので多少驚いた。
記帳が終わり、会場内に入って椅子に着席し、通夜の開始を待つことになる。葬儀屋の人が、「奥に詰めて座ってください」と言ってるにもかかわらず、後ろの席から座るのが教師である。それも奥に詰めずに端に座る。「ドーナツ化現象」とでも言うか、真ん中がぽっかり空いた座り方になってしまう。後から入って来る人が、端に座る教師を乗り越えて(映画館の座席のように「すんません」と言いながら)、座ることになってしまう。迷惑とは思わないのだろうか?しかし、焼香の順番は、前列からだったので(一列ずつ葬儀屋が焼香の合図を出してくれるのはいい。それまで座っていたらいいのだから)、一番後に教師集団がぞろぞろ続いていた。
悲しいかな。そんな姿を見ている私も同業者である。そのうちの一人であるのだ。

02/6/23『クジラと日本人』(青春出版社)
この本を先週読んだ。著者は水産庁の小松正之という方で、IWC(国際捕鯨委員会)総会ではいつも環境保護団体から罵声を浴びせられている方だ。捕鯨再開を訴える根拠として、「クジラは絶滅寸前というのは誤解だ。クジラは海産物を捕りすぎているのだ。」「クジラが銛を打ち込まれる所をTVで放映してそれを残酷というのなら、どうして牛や豚がそうなるのは残酷でないのか。」「アメリカとかは鯨油のみの目的で、これまでさんざん捕鯨をしてきたが、日本人は全てを食べてきた。」などを挙げ、反捕鯨国に対して真っ向から対立している。先月の下関でのIWC総会では、捕鯨派と反捕鯨派が提案をそれぞれ出したが、賛成には4分の3が必要なので、互いの提案が悉く否決されたようだ。IWCは全く機能していない機関だと言えよう。クジラと言えば、子どもの頃、商店街で売っていたコロを思い出すし、給食の竜田揚げがなつかしい。しかし、クジラの食文化がない現在、それを敢えて復活することに意義があるのだろうか。著者はこのような考えに対しては、「世界が抱える飢えの問題を無視したおごり」としているが、捕鯨が再開されても、果たしてどれぐらいの人が食べるのだろうかと思う。反捕鯨国の身勝手さや、環境保護団体の主張にも賛同できないが、捕鯨再開を強く望む立場にも立てない。この問題どう思われますか?

02/6/20 ワールドカップと給食
ワールドカップの賑わいも一段落。この間のおもしろかったことについて少しばかり触れたい。南河内ブロック例会の交流会のときにも話題になったが、奈良ではワールドカップ給食というものが献立にあった。ベルギーということでワッフルが出て、ロシアはピロシキと名前が出ないがトマトの赤いスープ。チュニジアのメニューはスープの中に黄色い粉のようなものを入れて飲んだのだった。「トマトはきらいだけど、スープを飲んだらロシアの気分になりました。」ほんまかい?というような日記を子どもは書いてきていた。大阪では給食献立にはなかったらしく、奈良だけだったのだろうか?子どもには案外好評だったようだ。また、以前にも書いたけど、決勝戦に鶴が飛ばされることになっている。「なんで鶴やねん」と思いながら折った鶴なので、どのように飛ばされるのか楽しみにしておこう。チュニジア戦のときも、トルコ戦のときもそうだった。試合開始が3時半だっただろうか。職員室のテレビをつけて大きな音を鳴らし、画面に釘付けの人たちがいた。応援している人たちには悪いが、「お前ら仕事せんかい」と違和感を感じた。そんな私はやっぱり変わってる?(Yes/No)

02/6/16 ツバメの巣
ツバメが今巣を作っている。運動場に面した窓を開けると、手の届かない窓から2mぐらいの所に先週から巣作りをして、今では立派な巣が完成した。うちの教室は、学校の時計台の下にあって、丁度その裏側に巣を作っているのだ。「さあツバメが一所懸命巣を作る所をみましょう。ツバメを応援して上げましょう」などと先生が言って、子ども達が窓から顔を出す。「先生ツバメが来ました。」どこかの詩に出てくるようなほほえましい教師と子どもの関係。よくある美しい教育実践ではそうなるのだろう。しかし、私の場合はちがう。「物を投げて巣をこわさないやろうな。」「なんでまたツバメもそんな所に巣を作るんや」と、実際の所毎日ヒヤヒヤしている。
教育実践は美しく語られすぎだと思う。理想は掲げていても、日常はそうではないことが多いだろう。日常の「もうしゃあないなあ。」ということを集めた実践報告などを一度聞いてみたい。

02/6/11 理科室の人体模型
「今年の教科書から骨格は消えてしまったのか。」と思いながら、理科準備室にある人体模型を眺めていた。うちの人体模型は口が半ば開いた状態になっていて締まりが悪い。下顎を引っ張っている両顎についているバネがゆるんで、どうもだらしない顔になってしまっている。こうなったのも理由がある。2年前も6年を持ったとき、教室に人体模型を置いておいた。ある朝、教室に入ると、下顎を前に引っ張って、顎がしゃくれた頭蓋骨の顔になっていた。私は「だれがこんなことしたんじゃー。」と怒ったけど、不本意にも、「じゃー」の部分では既に私が笑ってしまっていたのだった。それほどおもしろい頭蓋骨の顔だったのだ。私の笑ったのがいけなかった。次の朝も、その次の朝も、子どもたちは「イノキの口」と言って下顎を前に出したのだった。誰がやったのかはわからないし、言うはずがない。誰かが面白がって下顎を出すようになって、しまいには、私が理科室に引き上げた次第だった。そんなことで、口をつむれない頭蓋骨になってしまっている。2年前を思い出し、昨日は引っ張ってしまったけど、やっぱり笑える。

02/6/8 教師のしゃべりすぎ
公開授業があったら、後にはたいてい研究協議があり、その授業についての話し合いが持たれます。多くの場合は、自ら進んで話し出そうとする人はいなくて、その場はシーンとなります。それで、司会者が並んでいる順番に当てて、発言を求めます。すると、どうでしょう?堰を切ったように延々と話し出す人がいます。それが、一人や二人ではありません。後の人のことを考えず、同じようなことをダラダラしゃべり出すのです。「言いたいことがあるんやったら進んで言わんかい」と言いたくなります。司会者も、一人だけ当てただけでは悪いと思ってか、最後まで当て続けるのです。だらだら時間が経っていって、もう4時を過ぎてしまいます。頭の来ることに、延々としゃべった人は言いたいことだけ言って、早々に協議から抜けてしまうのです。その後、講師の先生のまとめがあるけど、その場に居合わせるのは数人だけとなります。呼ばれた講師の先生には申し訳ないし、「なんでワシが済まん気持ちにならなあかんねん。」と運営者でも何でもないのに、済まない思いをしている自分に気づくのです。運営の仕方が悪いのか、先に抜ける教師のモラルに問題があるのかよく分からないけど、奈良ではこんな協議会が多いと思います。意見が出なかったら、講師の人に話してもらって、そこから話の糸口を見出すというやり方をどうしてできないのでしょう?それにしても、よくしゃべるよなあ~。後のことを考えない教師のしゃべりすぎには要注意!!

02/5/26 ユニフォームの交換
ユニフォームの交換をサッカーの試合終了後にします。その姿は大変すがすがしくて、勝敗抜きに両チームを讃えたくなります。その様子を取り入れたCMが今テレビで流されていたりします。しかし、どうしてユニフォームを交換するのでしょう?他のスポーツではこんな場面を見たことがないし、サッカー特有のことなのでしょうか?いつから始まったことで、それにどの様な意味が隠されているのか、知っておられる人がいたら知らせてほしいです。サッカーをしてこられた人からしたら、失礼な話かもしれませんが、それにしてもユニフォームの交換は私には理解できない。他人の汗のついたユニフォームをもらって、それを一流選手はどうしているのでしょう?そのままおいておくわけはなく、洗濯するのでしょうか?交換するぐらいだから、多くのユニフォームが必要になるでしょう。この習慣は、どれぐらいのレベルのゲームで行われているのでしょうか?ユニフォームの交換に関する疑問はつきません。

02/5/21 鶴のつづき
ローカルな組合の総会があり、そこでも鶴のことが話題にのぼりました。ある学校でのおもしろい話。「ワールドカップなんてどうでもいいこと。よっぽど阪神-巨人戦の方がおもしろい」と言っていた管理職が、鶴の折り紙が来ると態度を一変。「これは国民的行事ですから・・・。」と言って折らせているそうです。私も、「なんで鶴やねん」と言いつつも折らせてしまいましたが、「これに反対していたら・・・」とか、「Noと言えたのかどうか・・・」とか、今になって初めて考えるといった次第です。奈良県の多くの学校が無批判に折らせてしまっている。そのこと自体大変恐ろしいことでしょう。反対に生徒会が受け入れなかった学校では、空き時間の先生が職員室で鶴を折ってるとのこと。ものすごい数の鶴が飛ばされるのは、決勝戦だそうです。

02/5/18 鶴折ってませんか?
ワールドカップの閉会式では、子どもの折ったたくさんの鶴が飛ばされるそうだ。そのための鶴折りを各校に依頼しているようで、うちにも200羽の依頼が来ました。その依頼の仕方が腹立つ。「決まった数しか配られないので失敗しないように」とのこと。どんな色紙で折るのだろうと見たところ、FIFA WORLD CUPとロゴが入っているが、鼻かみを(今の子どもは鼻かみとは言わないらしい)厚くしたような紙で、とてもおりにくそうだ。50羽ずつ4つの封筒に入れてくれという依頼が地教委からありました。「折りたい人は折ってこの封筒にいれといてください」そう言って、50枚のオレンジの紙を教室の机の上においておいた。それにしても、なんで鶴やねんと言いたくなる。
入院したら鶴折って、平和学習で鶴折って、連敗球団に鶴折って、一体鶴は何なのだろう。閉会式をしっかり見ようと思っている。

02/5/12 研究テーマ
研究テーマが多くの学校でこの時期に、それに基づいた実践や授業研究が計画されることになります。「うちの子どもは覇気がない」とか「集会でもいつになってもざわざわしてる」とか、「うまく発表できない」とか、子どもからの出発の多くは、表面的な課題を挙げる。そこから、「人の話をしっかり聞けるためには落ちついた心が必要だ。だから朝の読書をしよう」とか、考えを伝えることが下手だから、今流行のコミュニケーション能力の育成が持ち出される。教師のニーズや教科の側から研究テーマを決定せずに、子どもの課題から研究を進める場合は、たいてい躾や道徳が持ち出される危うさがある。
この例と、子どもの荒れを解決するための実践だとか「荒れ」に立ち向かうグループ学習実践には共通性がないだろうか。「荒れ」は今の子どもの課題だと思うが、実践者がそれに傾斜しすぎると、体育の実践ではなくなってしまわないだろうか?「荒れをグループ学習で克服できた」とは言わず、何がそうさせたのか、教科内容の側にその原因を求めたい。そんな話合いができる今年度最後の研究部例会であってほしい。

02/5/7  原稿は体に悪い
なんとまあ暗いゴールデンウィークだったことか!!きっと私と同じ立場の人が、おられたと思うのですが、原稿で苦しむことほど体に悪いことはない。水泳分科会の方から急に降って湧いた有り難くもない原稿。支部大会の原稿。そして軽い気持ちでは書けないニュース「とど」。支部大会の実践のまとめ。原稿が続いた。憲法記念日は「あと3日あるからまだいける」と思った。4日は、半分経ったけど、後半分あると思い5日になった。そして、6日になってできたのが「とど」だけ。なんと文章の浮いてこないことか!!英訳をしたての日本語のような文章に情けなさを感じてしまうのだった。それにしても、ここ数年、こんなゴールデンウィークを過ごしている。そして、他の人も原稿に苦しんでいたと聞いてホッとする自分がなんとも情けない。好きだからサークル活動をしているけど、やっぱり原稿は体に悪い。今日は情けないまんぞうからの愚痴になってしまって申し訳ありません。

02/5/3 「総合的な学習の時間」
「総合的な学習の時間」が始まりましたが、時間割にあるからとりあえずやろうとする「総合的な学習の時間」ほどアブナイものはないと思います。私事ですが、連休中に6年生になる弟の子どもが遊びにきています。それで、「総合的な学習の時間」に何をしているのかと言えば、ワールドカップが近いことから、日本に来る参加する国を世界地図で調べたり、日本でどの国がどこでキャンプするのか日本地図に書く作業をしていると言うのです。「それで、あんたはおもしろいんか?」と尋ねると、「全然おもしろくない。」と言います。なんでワールドカップに決まったのか聞くと、どうやら、担任の先生がクラスのみんなに何を調べたいのか聞いて、多数決でワールドカップに決まったらしいのです。「それで、あんたは何したかったん?」と聞くと、「ハムスターについて調べるに手を挙げた。」と言います。「ハムスターやったら楽しかったん?」と聞くと、「きっとおもしろくないと思う。」と言う答えが返ってきました。
とりあえずやるんやったら、教科学習をしましょう。「明日の総合は算数します。国語します。社会します。理科します。」とりあえずやるのは危険きわまりない。そんなの支持されるどころか、学校不信につながります。「これぞ総合や」という中身をはっきり打ち出せるまでは、薄っぺらくされた教科学習を充実させましょう。

02/4/29 消えた放課後
かつての放課後と言えば、子どもたちを集めてドッジボールをしたり、ソフトボールをしたりする時間帯で、運動場にランドセルを放り出して遊ぶ子どもと教師の姿があった。または、勉強のしんどい子どもを集めて教えたりする時間だった。授業後のゆっくりした時間の流れがあり、やがて下校の音楽がかかると子どもたちは学校は出て行くのだった。子どもたちの賑わいが冷めて、運動場や教室がシーンとなるとき、初めて一日の終わりを知らされた。放課後を含めた時間が学校だったのだ。ところが今はどうだろう。時間割も5日間の中にびっしりつまって、私の学校では、6時間目の空いているのは週に2度。そのうちの一回は、今まで土曜日にやっていた下校会(登校班ごとに一斉に下校する)が6校時の終わりにある。ゆっくりした時間の流れは、もう今の学校にはない。学校週5日制とともに放課後と言う言葉はやがて死語になっていくのではないだろうか。

02/4/21  実践報告会
実践報告会(4/20)には28名もの参加があり、2本の実践報告をみんなで検討しました。午前中のバスケットボール渡瀬実践では、「下手な子どもをどうするのか」ということが氏の問題意識にあり、4:1→4:2や時間制を設けるなどの方法が目新しかったです。
氏の話術も冴え、参加者全員聞き入ってしまいました。午後からの大原実践は、大変力のこもった実践で、子どもの関係をどう繋いでいくのかという課題に多くの手だてが講じられていました。研究討議の問題提起もよくて、久々の実りある例会になったと思いました。

02/4/14 「総合的な学習の時間」
「総合的な学習の時間」の報じられ方にはうんざりしている。4月に入り、新しい指導要領の目玉商品と言うべき「総合的な学習の時間」が各番組で取り上げられている。ある小学校では、川をテーマに取り組んだ授業が報じられ、川に投網をする子どもが映し出されていた。川で釣った魚が幾つもの水槽で飼われ、並べられた水槽の前で大人も知らない魚の名前をたくさん言う子どもの姿があった。その物知りぶりには大人も驚かされるのである。(私は子どもの頃にテレビでやっていた、歴代の天皇の名前を言う子どもや駅名を言う子どもを思い出した。)この学校がどのような内容で授業を仕組んでいるのかわからないし、教科の基盤が在る上で取り組まれているのかどうかもわからない。しかし、こういう投網などの体験の場面ばかりにスポットを当てて報じるものだから、これが学習と言えるのか?投網で何を教えているのか?という素朴な疑問が起こるのは当然だと言えよう。こんな授業はやはり、保護者や一般の視聴者には理解され難いと言えるだろう。体験場面だけの報じられ方が、ますます学力低下論に拍車をかけ、良心的な総合学習まで批判の対象とされるのである。マスコミの責任も大きいと言える。

02/4/6  実技アラカルト例会
実技アラカルト例会は、45名もの参加があり大盛況でした。会員の方が職場の方を誘って参加して頂き、ここ数年にない多くの参加者で体育館は熱気に溢れていました。煤夢さんによる体育館での小ネタ集、ABUさんのマット、そして、まんぞうの跳び箱と盛りだくさんの内容でしたが、すべて予定していた内容は時間内に終わらせることができました。「同志会の体育はちょっとちゃうで!!」という部分を強調させたいために、話が長くなったり、内容が難しくなってしまったことは、反省点として残りますが、参加者の方の感想を見せてもらう限り、少しでも体育に興味を持って頂けたと感じました。4月のこれからの土曜日は、毎週各種の例会があります。これにも職場の方をお誘いの上ご参加ください。

02/4/2 10000人の訪問者
のべ10000人の訪問者を迎えることができました。昨日は9900人ぐらいだったので、「10000ヒットは3日になるだろうな。」と思い布団に入りました。南に面した窓のカーテンのすき間から明かりが入ってきます。何かと思ってカーテンを開けると月明かりでした。それが何とも気持ちよくて、カーテンを全て開け、月の動きを見ながら眠りにつきました。起きたのが昼前で、HPを開けると10000人を超えていました。その間に、かなり多くの人(100人ぐらい)が来られたようで、激しい戦いがあったようです。
ヤマユリさんが10000人目のお客様だったようです。
前半はあまり訪問者もなかったのですが、昨年の10月ごろからたくさんの人がこのホームページに、来て下さるようになりました。それは、中河内ブロックの健康教育の実践に支えられている部分が大きいと言えます。掲示板でみんなで実践を作っていく。これまでの支部研究にはなかった全く新しい発想ですし、まさに、サークル活動の原点だと言えるでしょう。今後の支部研究も健康教育実践に見習うべき点は大きいと思います。
さて、まんぞうとしましては、「実践のページ」の充実と、「視点論点ところてん」の過去の論考を全て載せたいと思っています。これには、事務局、編集局の助けが必要です。ひいてばかりではなく少しは協力して下さい。今後ともよろしくお願いします。

02/4/1 健康教育学習会
第3回健康教育学習会に参加しました。内容は「3年性教育」「5年環境ホルモン」「6年薬害エイズ」の3本の実践報告でした。まず、いずれの実践もやってみたいと思うような新しい視点があります。そこには、深い教材研究と実践にかける実践者の想いがすごく感じられます。学期末の忙しいときであれ、やり切ることの大切さも教えられたような気がしました。特徴的なのが、子どもの課題に寄り添って実践が展開されていることです。実践は教える側の思いが熱ければ熱いほど、教え込みになりがちですが、その辺りを抑えて、あくまでも子どもの問題意識をもとに次の授業を発展されています。その点はすごく勉強になりました。健康教育に一歩踏み出したのだから、その財産をみんなで共有しなければなりません。今後は追試をすることでしょう。名物実践で終わらせないためにも・・・。

02/3/26 低学力
低学力ということについて考えされられます。指導要領が変わるから→低学力になる。こんな捉え方が今は一般的で、それに危機感を抱けば抱くほど、習熟に力が入れられて、百マス計算などの機械的な訓練が強調されます。学校の授業だけでは物足りないと言うことで土曜日に補習をする自治体も出てきています。「できることだけでそれでいいのか?」とか「わかる・できる」を強調している我々は、習熟だけが学力ではないと捉えるので、明らかに今どきの批判とはちがう立場に立つことは明らかです。総合的な学習に見られるわけのわからない学力ともちがうと思うし、つまるところ、学力をどう捉えるのか、どこに位置するのかということを問わなくてはいけないでしょう。
しかし、低学力ということについては、一方では考えなければならない問題だと言えます。これは指導要領が変わるからでもなく、以前から感じていることではないでしょうか。海野さん(山口大)はサ連教集会で、「子どもたちは確かにしんどい状況にあるでしょう。現場の先生の声を聞いていたらそういうことが聞かれる。」と発言されました。全くその通りで、我々は低学力の傾向を日々肌で感じています。低学力キャンペーンに与することなく、明るい見通しを持ちながらこの問題について考えていかなければならない。と思うのですがいかかでしょうか。

02/3/23  低学力懸念報道
相変わらずの低学力懸念報道にはうんざりしています。学校完全週5日制→教育内容の激減→低学力の不安。だから、教科の学習をしっかりやりましょう。それぞれの民間教育研究団体が培ってきた力を今こそ試すときですよ。さあ我々の出番です。・・・とはならない。本来なら、文部科学省の教育改革を説明する立場にいるはずの教育委員会が、低学力キャンペーンに同調し、「土曜教室」を開いたり(古河市)、算数「支援隊」(太田市)なども組織して、不安視される低学力を克服しようとしています。寝返りを打つ地方の反乱とも言えるでしょう。これは、5日制になったら、確実に低学力が起きると認めたようなものではないでしょうか。そして、アナウンサーが「これでは地域によって学力に格差が生じることが更に心配されます」などど言っている。いい加減にしなさいと言いたくなります。

01/10/23  500万個の○をつける 
休み時間、教室の机で漢字の丸つけをしていると、何人かの子どもがやってきて、「むっちゃ速いなあ。」と感心してくれる。調子に乗って、「まあ先生はこれでメシ食うてるからなあ。」と返すのです。自分でもほれぼれとするペン裁き。限られた時間に、迅速かつ正確に丸をうつ。少し赤く染まった中指と人さし指は教師の証。丸つけこそわしらの職人芸だと思います。
そう言えば、これまでも限りなく丸つけをしてきたし、これからも定年でやめるまで、こうしてうち続けるのだろうと思いました。(生涯にいくつの丸をつけるのだろう?)とこんなしょうむない計算をしようと思いました。
私の場合、丸つけで一番多いのが漢字。次いでテスト、後は算数のドリルかな?
①漢字
一字につき約15個の丸をうつ。小学生が6年間に習う漢字は千字程度で、一学年あたり約170ほどになる。私が一学年にあたり教える子どもの人数は年平均約30人。私は24歳から教師を先生を始たので、60歳まで働くとすると、36年間働くことになります。もちろん、校長や教頭になるつもりなんて全くない(いや、なれないか?)。その間に学級担任を外れることもあるだろうし、初めに勤めた養護学校の3年を入れて、6年間を担任以外とすると、担任として丸を打つのは30年となります。
これらを掛け合わせると、
・15(丸)×170字×30人×30年で2295000(丸)
②テスト
1つのテストにつき大体30の丸をつけます。これが、毎年3教科で、年間約20枚のテストがある。
・30(丸)×20枚×3教科×30人×30年で1620000(丸)
③算数ドリル(なぜかこれだけは毎年やってる。)
・15(丸)×30頁×3学期×30人×30年で1215000(丸)
合計5130000(丸)となり、約五百万個の丸を打つことになります。これは私の場合なので、他の先生方はどれくらいの数の丸をつけておられるのか知りたいところです。
ちょっとたいへんと思うときもたまにあるけど、子どものやってくれる宿題なんだから、がんばってうち続けたいと思います。丸つけにくじけそうになったときは、500万個に向かって教師の歴史を刻んでいることを思い出し自分を励ますのであります。(因みに今まで打った丸は220万個でまだ半分も行っていません。)

01/9/6 不祥事のツケは末端に回ってくる
毎月の支部ニュースは第二木曜日の4局会議で封筒に入れて、次の日の午前中に発送します。いつもは私の父親に頼んで郵便局まで持っていってもらいます。封筒の数はいつも90~120通ぐらいあり、大きな郵便局では自分で郵便別納の印を押さなくてはなりません。しかし、中には、郵便局でその作業をしてもらえる所があるらしく、父親はいつもは地元のある郵便局で支部ニュースを発送しているようです。発送する際、何通あるのか所定の用紙に書き込み、郵便局員がその中の一通を抜いて、重さを量ります。そして、一通当たりの重さ×総数と総重量がだいたい合えばいいわけです。
夏休み。総会案内を発送しようと思い、父親がいつも行っている郵便局に140ほどの封筒を持っていきました。父親がいつもするように、総数を所定の用紙に記入し、持ってきた封筒を差し出しました。郵便局員はその中の一通をいつものように引き抜き、重量を量りました。普段なら、それで終わりなのですが、次の封筒も重量を量り、一つ一つ同じ重さで間違いないか量っていったのです。私はつい、「中身はおんなじですよ。」と言うと、「すみませんね。疑ってる訳じゃないのですが、何しろ監査が厳しくなってね・・・。」と、済まなさそうに言われるのでした。私も見ていては申し訳ないと思って、一つ一つ封筒を差し出したのです。結局、私が持っていった140通の封筒全て重量を量り、15分ぐらいかかりました。その時は、郵便局内には客も少なくて良かったのですが、私の後ろに次のお客さんがいれば、迷惑なことだろうと思いました。
不祥事があれば、必ずと言って良いほど綱紀粛正が求められ、そのとばっちりを受けるのは末端で働く人だと思いました。選挙運動の不祥事と関係あるのかどうなのかは分からないけど、しんどい思いをするのは、まじめに働く郵便局のおっちゃんおばちゃんです。たび重なる外務省の不祥事なんて、どうしてばれずにここまでこれたの?と不思議で仕方ない。上のものは甘い汁をすい、それのツケが末端に回ってくる。こんな世の中尋常でないとつくづく思います。

01/8/15 車いすバスケットボール
8月13日(月)、車いすバスケットボールを教えてもらいました。講師先生は根木慎志さんという方です。シドニーパラリンピックで日本チームのキャプテンをされていた方で、橿原市在住です。現在は松原市の福祉会館でピアカウンセラーの仕事をされています。
実は、二学期に輪番制で回ってくる町の同和の研究授業があり、少し違った視点での授業を提起してみようと思いました。近年、「障がい=マイナスイメージの払拭」ということが叫ばれるけど、実践レベルにおいては、車いすで地域を歩きバリアフリーチェックをさせたり、アイマスク体験を通して不自由さを感じさせたりするものがほとんどだと思います。もちろんその様な体験は大切であり、経験して初めて多くの矛盾に気づかされる(バリアフリーの発想)のですが、そこでは、障がい者のしんどさだけが誇張され、マイナスイメージの出会いでしかないと思うのです。子どもたちにはそれらの経験から、「障がい者にはこんなにも苦労があるのだ。こんなに住みにくい世の中だ。」と憤りの気持ちを持たせ、反社会的な視点を持たせたり、自分の裡にある差別性に気づかせたりする。中には、教師の思惑を子どもに代弁させているような実践もあります。(これは旧態依然の同和教育でよしとされてきた告発型の授業でしょう。)「考えてることと、やってることがちゃうやんか。」このような授業を通して、障がい者とプラスイメージとして出会うことができるのだろうか?とずーっと疑問に思っていました。そこで、車いすバスケットボールを体育の授業として試みようと思ったわけです。大阪支部の障害児体育プロの人たちが言われるように、「障がい者のスポーツ・体育は、健常者のそれを水で薄めたものではない」ー全くその通りで、子どもたちが車いすバスケットボールを一つのスポーツとして出会い、その面白さを感じとってくれたらいいなと思ったのでした。
こんな思いを、根木さんにお話しした所、「体育の授業として依頼されたのは初めてだ」と言っておられました。講演をされることが多いようなのですが、「一車いすバスケットボールの日本代表選手という見方をされずに、障がいを持つ人の生き様だけを求められる」ということに疑問を感じられていたようでした。
実践の流れとしては、バスケットボールの授業と全く同じで、車いすバスケットボールに慣れ、ゲームなどの経験を積んだ上で、根木さんと出会う。そのようなことを考えています。今流行のゲストティーチャーおまかせにしない授業にしようと思っています。ただし、車いすの台数が少なくて、町の福祉センターなどでも、車いすバスケットボールには快く貸し出ししてくれません。台数の確保が今問題です。また、実践の前に、教える側が、車いすバスケットボールを全く知りません。とにかく車いすバスケットボールを教えてほしいとお願いした所、今回の体験ができることになったのです。
さて、前置きがずいぶん長くなってしまいましたが、車いすバスケットボール初めての体験のことをお話しましょう。これがとてもおもしろくって、一つの新しいスポーツを学習したって感じです。
<やったこと>
・車いすのこぎ方 ・止まり方 ・車いすのおにごっご ・後ろ向きで鬼ごっこ(前に進むのはまっすぐ行くけど、後ろに進もうとするとまがってしまう。微妙に左右の力の入れ方がちがうのですね。) ・車いすでドリブル(なかなか難しい、片方の手で車いすをこいだら、片方でドリブル。ボールをキャッチできる位置を予測をしながらボールをつくのは難しいですね。) ・転がったボールをキャッチする(前にボールを転がして、車輪の部分にボールを押しつけると車いすの回転でボールが上がってくる。これは、車いすバスケットボールにしかない技術です。これがかっこよかった。) ・パス練習 ・ドリブルショット練習(ゴールの高さは、バスケットボールと同じです。ショットの最重要空間は、ゴールのすぐ近くで、黒いわくの角をねらうと入りやすい。ショット位置をさがす授業として使えそう。) ・ゲーム(2:2)
知らなかったことですが、2回こいで(ツープッシュと言われていました。)3回目に、こいだらトラベリングの反則になるそうです。ただし、2プッシュの後に、止まるために車輪に触れることは良いのだそうです。ドリブルして「イチ・ニー」と声を出してこぎ、トラベリングにならないようにするのに必死でした。パラリンピックなど、実際の試合では、車いすのぶつかり合う音が絶えず聞こえるようで、車いすから放り出されて自分でもどらなければならないようです。ゲームは、バスケットボールのようにすぐにはパスが通らないけど、空いた空間に移動してパスをもらう意識は自然に働きます。空間を認識できる良い教材ではないかと思いました。また、ボールを保持しながら移動する技術が伴わないので(ドリブルができなくて、足の上にボールを置いて移動するしかない)、パスしないとボールは確実にとられます。パスが必然となってくるのです。
汗だくになりながら、時間も忘れてゲームを楽しんでいました。幾つかの実践化へのヒントを得られたようでした。子どもたちは車いすバスケットボールの経験がないので、技能差のないところから実践がスタートできると思っています。運動会が終わってから実践しようと思っていますが、今は構想の段階。実践として一つの形になるかな?

01/7/28 およぐひと 萩原朔太郎
先日、「BOOK OFF」で本をあさってたら、高田敏子の「詩の世界」という本がおいてありました。72年にポプラ社から出版された児童書の復刻版で、同シリーズに中村敏雄の「スポーツとは何か」があります。特別買う気もなかったのですが、ページをさっとめくると、萩原朔太郎の「およぐひと」が目に留まりました。「そう言えば、愛知の成瀬さんが高校生相手に、この詩を読ませて泳がせたような実践があったよな。」と思い、つい買ってしまいました。値段300円。
およぐひと      萩原朔太郎
  およぐひとのからだはななめにのびる、
  二本の手はながくそろえてひきのばされる、
  およぐひとの心臓(こころ)はくらげのようにすきとおる、
  およぐひとの瞳はつりがねのひびきをききつつ、
  およぐひとのたましいは水のうえの月を見る。
94年か95年かの関近ブロック集会だったか?(会場は嵐山だったと思いますが。)成瀬さんがこの詩をもとに実践報告をされていました。そして。参加者に、「この詩の泳ぎは何だと思いますか。」とか言われて、それぞれが思い思いの泳ぎとその理由を述べていました。この本では、高田敏子さんは次のように述べられています。
「・・・ はじめの二行ほ、およぐ動作がスローモーションの映画のように説明されています。この説明で、どんなおよぎ方をしているかが、おわかりでしょう。このおよぎ方は足をばたばたさせる自由形ではありませんね。平泳ぎのように、手も足も水面にはださないで、からだをななめにしながらすすむ、のしおよぎという型です。」
「のし」という日本泳法らしいのです。日本泳法で泳ぐんだったら、海や川が相応しいけど、この詩には、波や流れのあるのは似合わないのではないか。夜にこっそりプールで泳ぐのでしょうか。それよりも、湖や池で、池と言っても大きな池で泳ぐのが相応しいのでしょうか?高田さんは、水平線に向かって泳ぐというイメージをされていますが、どうなのでしょう?
次の解説もなるほどと思います。
「・・・三行めからは、およぐ人の心の状態が書かれています。うっとりと、ただおよぐことだけを楽しんでいるときの気持を、”心臓はくらげのようにすきとおる”とあらわしています。これほほんとにそのとおりと同感しますね。」と。
水に体を任せて泳いでいると、体がフワッと浮き上がる。その快さを味わう瞬間は、水が体にしみこんでくるのではなくて、反対に、体が水に同化していくような感じになります。「すきとおる」というのはそんなときの感じでしょうか。
まだまだ続きます。
「・・・瞳ほつりがねのひびきをききつつ/たましいは水のうえの月を見る-この二行は、ふしぎに思われる方もおありでしょう。瞳がつりがねのひびきを聞き、たましいが月を見る、というのですから。でも、うっとりとしたときの目は、「見ている」という状態でほなく、美しいひびきを聞いている、といってもよいのではないでしょうか。そしてたましいはまた、はるか遠くの何かを見ていることにもなるのでしょう。・・・」
これは難解で、言われたらそうやなと思うけど、凡人の私の頭では理解できない。でも、冷たさや静かさの中に見出した何ともいえぬ心地よさはわかるような気がします。
萩原朔太郎にしろ、高田敏子にしろ、人の泳ぎというのは、ゆっくり水を分けていく日本泳法だったのでしょう。泳ぎと言ったら近代泳法しか連想できない私たちとは、随分違っていて、時代の隔たりというものを感じるのでした。