1.「2:0」理論が生まれる過程−「技術指導の系統」と球技の「基礎技術」について−
支部ニュース編集部(五役?)より、数回にわたって、球技の「基礎技術=2:0」について、私見を述べる機会を与えられた。 内容は、@技術指導の「原書」ともいえる「学校体育叢書」を知らない会員に、「2:0」理論とそれが生まれた経過を伝えること。A球技プロ20年間の研究をもとに、「技術指導の系統性」「基礎技術」問題における私の考えを述べること。である。2月号では、@の「2:0」理論とそれが生まれる過程について述べることにする。
1、スポーツによる「人間疎外」
○スポーツをそのまま教材として子どもに与えることに、「多くの子どもを疎外することになる」と、警鐘を鳴らしてきた。

〈例1〉当時の中学校で行われていた「9人制バレーボール」 ルール上の主要な問題は、この9人の配置が固定だということである。そして、ゲームでは勝つことだけが優先され、前衛のポジションを身長が高くボール操作も上手い生徒が独占し、中衛の中央にはレシーブ力のある者が配置され、未熟な者は後衛の左右に追いやれる。ボールによく触れる生徒は日々上達し、後衛の2人にはボールはほとんど来ず、技能的上達の面でも楽しさの享受の点でも「疎外」されつづけるのである。
○スポーツの本質を無視して「高度なスポーツ」を「やさしく」して子どもに与えることへの批判。
〈例2〉バスケットボールをポートボールに代えて
人が台上でボールを捕球するということは、バスケットボールの本質を欠いている。むしろゴールを低くするなり、リングの直径を大きくして、“入った”という感覚を味わえるようにしなくては、真の喜びは持てない。
2、「中間項」の研究
1960年当時同志会の主要メンバーであった瀬畑四郎氏は、『「中間項」という用語』(「体育グループ11号」)で、技術指導のあり方を下記のように述べ、「中間項」に言及している。
今までなら概ね「基礎技術(今の基礎技術ではない)として大切なパスから入ることにしていた。しかし・・・・、子どもが好きであろうと嫌いであろうと一方的な教師の計画で指導されてきた。私達はそこでまずランニングシュートから入ったら良いのではないかと考えた。・・・・基礎技術と試合とを結んでいた今までの系統の中に、子供の喜びを十分満たすことができ、しかもそのスポーツ文化を短時間で合理的に獲得出来る技術(練習法)があるのではないか・・・。・・・・これを中間項という言葉で言い現そうとした・・・。・・・・」
3、ラグバス=バスケットボールの「中間項」
荒木豊氏が、1962年の夏のワークショップ技術指導分科会において、現在のバスケットボールがオリンピック主義的で能力主義的なものであり、子どもの喜びを高める体育学習を疎外していると指摘し、新ルールで実践を報告している。
新ルールのなかでも次の2点は、特に重要である。@の「ボール持って走っても良い。」というルールによって、誰もが得点出来、スクリーンプレーなどのコンビネーションづくりが全員の学習課題になったと荒木氏は述べている。そして、「ラグバス」は、バスケットボールの「本質を持ち、楽しめ、やることによって上達する」という「中間項」の3条件を満たしたものであると。
また、Aの「基礎技術としてはシュートを中心に行う。」というのは、後の「球技の技術的特質」「基礎技術」規定へと研究が進むことを示唆したものであた。
4、「球技の技術的特質」と「基礎技術」
教材の技術的特質:その教材の固有のものであり、それを取り除けばその教材でなくなるような性質のことであり、おもしろみの中核をなすものである。球技の技術的特質は、その球技の得点形式=攻防入り乱れる球技(バスケットボールやサッカー)の特質は、「コンビネーションを含むシュート」と、いうことができる。
基礎技術規定:
@学習する運動文化の特質を失わない範囲で、単純化した最小単位の技術。A最初から必要な技でありながら、高度に発展していくような内容をもった技術。B学習しようとする運動文化の技術習得に際しては、誰もが必ず体験し習得しなければならない技術。C学習過程においては、ある程度の運動量をもち、児童・生徒が興味をもって、しかも容易に習得できる技術。
バスケットボールやサッカーの基礎技術:「二人のコンビネーションを含むパスーシュート」とまとめられた。(内容は次号以降にふれる)
2.基礎技術を「防御抜き」の「2:0」としたわけを探る
球技の基礎技術、技術指導の系統についての私論を述べる前に、〈学校体育叢書〉「バスケットボールの指導」の記述から、あえて防御を抜いた「2:0」を基礎技術とした理由を探りたい。
従来の指導が、記の表のように、個々のボール操作を個別に練習した後、集団技能へと学習をすすめてきたことに対して、叢書(バスケットボールの指導)は、その問題点として、@基礎技術のとらえ方と指導系統の問題、Aショット練習の問題、B3対2の攻防練習の問題の三つを挙げている。
1.基礎技術のとらえ方と指導系統の問題
パス、ドリブル、フットワーク、シュートなどの個別技術を基礎技術ととらえている場合が多い。しかし、「パスはパス、ドリブルはドリブルというように個別化した技術練習そのものは、バスケットボールの全体像をつかめない初心者や、経験の少ない者にとっては、個別技術練習そのものの習得が自己目的となり、基礎技術としての役割を果たしえないことになる。」(p12)
「球技の技術は個人技の寄せ集めではなく、相手または味方との関係を含んだ技術でなければならない・・・。」と指摘し、「指導においては、基礎技術のとらえ方と指導内容、さらに基礎技術をもとにした指導系統が確立していなければ、指導は困難で」あると述べている。
2.ショット練習の問題
「バスケットボールの技術指導では、シュート練習の質と量を増加しながら、シュートの確率を高めていくことを、もっとも重視して指導する必要があろう。シュート練習は、生徒たちにとっては成功不成功が最も具体的にとらえられるのであって、しかも、ひじょうに興味をもって行なう技術練習である」。(下線引用者)しかし、「パスはパス、ドリブルはドリブルという個別練習を先行させて指導するため、ゴールを用いての練習がなおさら少なくなっている。」と指摘している。
また、ランニング・ショット練習の問題点を次のように述べている。「ランニング・ショットは、一般にディビジョンライン付近からスタートし、ゴール下にいる人からパスをもらってショットするのであるが」、「ゴール下でボールを持っているのであれば、第1の目的であるシュートを行なうのは、ゴール下にはいってボールを持っている人であるのが当然であるのに、わざわざ、遠くから走ってくる人にパスをしてショットさせるというのは」、「初心者ではその練習の意義が認識されにくい。」(p16紙面の都合上文の前後を変えて編集、下線引用者)と。(注:下線を付けたのは、後に「サッカーの指導」と比べるためである。)
3.3対2の攻防練習の問題
フットワーク、パス、ドリブルといった個別練習の上にランニングショットの練習を経て、「3対2」や「4対3」といったオーバーナンバーの練習が広く行われていることについて、次のように批判している。
攻撃側が1人多く、フリーな者が空間へ走り、それへのパスで、必ず攻撃できるというコンビネーション練習がねらいであろうが、「この練習に至るまでの練習は、99%までが個別技術の練習であり、3人の攻撃コンビネーションを組めるような練習」は、ほとんどやっておらず、「実質的には攻撃回数の3分の1もシュートまで達しない有様で、攻撃のコンビネーション練習、まして、3人のシュート練習などとはいえない練習内容になっている。」「3人の攻撃コンビネーションの形成は、」「2人のコンビネーションの上に成立するものであり、2人の練習を経過し習得することなしに、3人の攻撃ができるようになることは不可能に近い。」
このように「従来の指導」への批判の展開をみてくると、「基礎技術」や「技術指導の系統」が見えてくるようである。同時に、引用文の下線(実線)からは、前回述べた「中間項」が生まれた当時の「本質を満たし、楽しめて、上達する」ことを大切にした精神が生き続けているし、また、生徒の興味を持続させるためには、コンビネーション練習でも必ずシュートに結びつくことを最優先課題(=防御を省く)としていることがうかがえるのである。 |
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3.叢書「サッカーの指導」の球技の基礎技術論
前回、コンビネーション練習でも必ずシュートに結びつくことを最優先課題として、防御を省いた「2:0」を基礎技術と規定したことを述べた。
そして、〈学校体育叢書〉「サッカーの指導」では、「攻撃を中心に練習し、しかもボール・コントロールがじゅうぶんでない時期に、ボール・コントロールをつけながら、2人、3人の攻撃のコンビネーションづくりが主要な練習内容である時期には防御を入れなくても、目標は達成されるし、むしろ防御がないほうが、自分たちの行為(コンビネーションづくり)に集中できる・・・・。」(p19下線引用者)とまで、言い切っているのである。
この「防御を省いて学ぶ」ことの是非については、次号以降に述べるとして、
今回は、「バスケットボールの指導」と「サッカーの指導」との矛盾点の指摘に焦点をあてたい。
1、「バスケットボールの指導」と「サッカーの指導」
叢書「サッカーの指導」においても、「ゴール近くからの2人のコンビネーション・プレーの形成」の重要性を述べているが、そのパターンは、「図1」・「図2」のように、2人が縦の関係に位置し、ゴールに近い者がボールを保持し、「バックパス・シュート」、「バックパス・リターンパス・シュート」と、なっている。
その根拠は、ゴールにもっとも近いところにボールを保持することは、原則的にいって相手ゴールを一番おびやかしていることである。これは、相手の防御ラインがもっとも緊張している状況であると同時に小さい動きでも相手の防御ラインが動くことを意味する。」したがて、スキあれば、シュートすることになる。「それがかなわぬ場合は、バックパスをしてチャンスを作るのである。この際のバックパスは・・・・パスしやすい方向であり、安全の方向である。そして、ボールがゴールからはなれることにより、・・・・防御がホッとする時であり、相手の背後に入るか、パスを出すことによってチャンスが作りやすい時期なのである。」(p143)と。
確かにその通りなのだが、前回の下記の引用文と矛盾していなか?
「ランニング・ショットは、一般にディビジョンライン付近からスタートし、ゴール下にいる人からパスをもらってショットするのであるが」、「ゴール下でボールを持っているのであれば、第1の目的であるシュートを行なうのは、ゴール下にはいってボールを持っている人であるのが当然であるのに、わざわざ、遠くから走ってくる人にパスをしてショットさせるというのは」、「初心者ではその練習の意義が認識されにくい。」
バスケットボールの初心者は「ゴール前でボールを保持している者が離れたところから走り込む味方にパスしシュートさせる」ことが理解できなくて、サッカーの初心者は、理解出来るのか?明らかに矛盾している。
〈叢書〉「サッカーの指導」においても、「技術指導の系統性」づくりには、「サッカーの技術に内在する法則・原理及びサッカーの技術的特性と子どもの発達(身体発達・認識能力等)及び身体運動の法則・原理とが合理的に結合され」(p13)ることの重要性を指摘しているにもかかわらず、何故?
次の2点が考えられる。 |
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2、技術構造上の相違(オフサイド)
図3のようなフォワードパスは、バスケットボール(ゴールやコートの質は異なるが)では当然の行為だが、サッカーではオフサイドとなり、成立しないのである。「バックパス後に防御の裏に入る動き」と「パス」のコンビネーションがどうしても必要なのである。そして、そのコンビネーションを駆使した攻めをはじめる前は、より安全にボールをキープするために、バックパスは絶えず使われるのである。
3、基礎技術としての「2:0」が確定後は、それを運用することに重点
「サッカーの指導」の刊行はバスケットより3年あまり遅れてのことである。バスケットボール研究で確定した球技の「基礎技術」(=「2:0」)をもとにサッカーの「系統指導」づくりが進められたようだが、その際、「バスケットボールの全体像をつかめない初心者や、経験の少ない者にとって」と、いった視点が、「サッカー指導の系統性」づくりでは、薄まったのではなかろうか。
尚、87年有馬大会サッカー分科会において、サッカーの基礎技術「2:0」は「初心者の認識からみて、バック・パスからではなく、フォワード・パスからはじめる。」と、改められた。 |
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4.「バスケットボールの指導」と「サッカーの指導」の矛盾について答える
1、寄せられた質問
『叢書の「バスケットボールの指導」と「サッカーの指導」の矛盾と言うのがわからない。』という質問があったので、唐木氏による「2:0」批判に入る前に、それに答える。
2、叢書「バスケットボールの指導」では
@ 一般に行われている「ランニング・ショット」への批判
図1のように、ゴール前でボールを保持しているBが、ディビジョンライン付近から走り込むAにパスし、Aがシュートする。
この「ランニング・ショット」練習に対して、「防御がどこを守っていてどう動くのか」も理解していない初心者は、「何故、フリースローレーン内(ゴールに近い位置)にいるBがシュートをせず、後ろから走り込むBにパスをするのかわからないはずである。」と、指摘している。
A 最初のパターン練習
叢書「バスケットボールの指導」では、パス−ジャンプ・キャッチの練習、ショットの要領練習(ボードの使い方など)、ジャンプ・ショットの練習、ワンドリブル・ショットの練習を経て、図2の練習にはいるのである。
Bはゴール前のAにパス。Aはジャンプ・キャッチして着地、その後ジャンプシュート。Bはパス後、Aを見ながら、Aの反対側のゴール前に走り込む。つまり、「フォワード・パス−ジャンプ・キャッチ、ジャンプ・シュート」の練習を行っているのである。
3、叢書「サッカーの指導」
「サッカーの指導」では、パス−トラップ−パス(インサイド・キック、インサイドでのトラップや、低い浮き球の処理、フェイントからドリブル、胸トラップからパスを含む)練習後に「図3-1」から「図3-3」のように、一連の動きを3分割で示している。 |
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AがBにバック・パスを出し、移動する。 |

Bは、移動したAへリターンパスを出す。 |

Aは(ア)シュートするか(イ)Bへバック・パスを選択。Bシュート。 |
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4、解説
「バスケットボールの指導」では、初心者には認識しづらいと指摘しているパターン練習(ゴール前にいながら、後ろの者へパスをする)を「サッカーの指導」では、最初のパターン練習として提示しているのである。
今から25年も前のことだが、泉州ブロック例会(=Aさんのサッカー指導の実践ビデオ)において、ゴール前でシュートコースが空いているにもかかわらず、その児童はパス相手を探している場面を目にしたとき、「パスのためのパス」の指導がなされていると感じたことを今でも覚えている。
『「2:0」がゲームに生きない』という報告は、サッカーでもバスケットボールでも数多く寄せられたであろうが、そして、その主要な原因は「2:0」における防御の扱い方と逆襲を考慮した攻防の切り替えの未習にあるのだが、しかし、初心者への配慮の点では、二つの叢書では異なっているのである。
荒木氏が「中間項」の3条件と挙げている@本質を持ち(=球技の技術構造)、A楽しめ(=学習者の認識力・身体の発達を考慮)、Bやることによって上達する(=技術と発達の両面)の精神が、叢書「サッカーの指導」では、薄まったと私は観るのである。大阪球技プロジェクトは、この20年間、『「サッカーの技術の系統」と「児童の認識・身体の発達」を統一した「技術指導の系統づくり」』に取り組んできたのである。
5.唐木氏の「2:0」理論に対する批判
球技の基礎技術を「2:0」と規定したものの、叢書の「バスケットボールの指導」と「サッカーの指導」では、前々回・前回指摘したように矛盾点を抱えていたのである。 後に、この「基礎技術」に対して、バスケットボール分科会でもサッカー分科会でも批判的検討がなされるようになるのだが、その批判対象となる「叢書」の記述内容が、バスケットボールとサッカーとでは異なるわけだから、それへの批判的検討も異なったものにならざるを得ない。この点については、後に詳しく述べることになると思う。
何はともあれ、叢書の「2:0」を論理的に最初に批判したのは唐木氏であった。それは、運動文化研究創刊号(1983年)において、「バスケットボールの技術と指導法」という論説においてであり、この論説は、「これ以降、バスケットボール分科会の研究に多大な影響を与え続けている。」と、言って過言ではあるまい。そこで、唐木氏の論理展開を掻い摘みながら紹介し、そこに私論を付け加えたい。
1、はじめに
「体育の授業には、運動部やクラブとちがったいくつかの制約がある。」「第一に、参加するこどもの心構えがちがう。教材を好まなかったり知らなくとも、好きになるよう動機づけてをしてやらなくてはならない。」「第二に、授業時間数が限られているうえ、」「すべての子どもを落ちこぼれなく教えるのは大変なことである。」「第三に、教える側の教師も、すべての教材に専門知識と経験を持っているわけではない。」 |
「第三・・・・」についてであるが、叢書発刊後の球技指導において、『基礎技術としての「2:0」がゲームに生きない。』と言われ出すが、すべての実践がそうであったのではなく、球技経験者と未経験者とでは、事情がことなったようである。
「こうした条件のなかで授業をすすめるときに、指導する側として最低限何を押さえておいたらよいのか。こどもたちを到達させるべき地点とそこへの道筋をどう見通したらよいのか。・・指導法には、これらのことが含まれていなければならないだろう。」(引用者)
「運動文化を学習させるということは、たんに技術を上達させるだけでなく、組織をつくって運営する方法やそれらに関する知識を身につけさせなくてはならない。しかし、学習の中心になるのは技術習得である。これを実現させるために組織的力量や知識が必要になるわけである。したがって、バスケットボールの指導法を考える場合には、あらかじめつぎのことをはっきりさせておく必要がある。
(一)バスケットボールの本質をどう押さえるか。
(二)技術構造と技術体系をどうとらえるか。
(三)学習者に見合った練習内容と順序をどうするか。
(四)練習や試合の成果をどんな方法で記録し評価するか。」(下線引用者) |
この部分はノーカットで示した。
実線部分(最低限押さえておくべきこと)や波線部分(到達目標と指導の道筋)を明らかにするために、「あらかじめ」(一)〜(四)を「はっきりさせておく必要がある。」と、いうのである。この時点では、さほど問題を感じない。
ただ、「技術指導の系統性」をつくりあげる際に、「(三)学習者に見合った練習内容と順序をどうするか。」を、「(一)バスケットボールの本質をどう押さえるか。(二)技術構造と技術体系をどうとらえるか。」との関係でどの程度重視するかによって、「技術指導のあり方」がかなり異なってくるのである。
同志会のこれまでの研究の流れ(「中間項」から「特質論」「基礎技術」論への流れ)は、(三)を重視してきたのであり、大阪球技プロは、『常に「技術の系統性」と「子どもの身体の発達・認識の発達」を統一した「指導の系統」づくりに取り組んできたのである。
次に、『「2:0」=基礎技術』問題に直接関係してはいないが、「育てたい人間像」と関わって是非とも指摘しておきたいのが、「はじめに」の部分での問題点である。(それは、下線の部分)
「運動文化を学習する」ことを、その運動の技術の上達と組織運営上の能力を身につけることに矮小化しているように思える。この論説が「教科内容研究」以前のものであるための限界かも知れないが、「スポーツを文化として丸ごと捉えることの大切さ」への認識が不十分なように思える。そのスポーツが生まれ発展してきたその国、その時代の経済的背景を含めた社会の把握が必要ではあるまいか。「オフサイド」というルールは、世界に君臨する大英帝国の優越感の表れととれるし、「イギリス紳士」の誇りが「ルールのファジーさ」として生き続けている。一方、未開な荒野の開拓から始めなければならなかったアメリカは、「世界に追いつけ・追い越せ」が国家的課題であり、そのもとで、徹底した「合理主義」思想がうまれたのであり、アメリカ発祥のスポーツにおける「細かなルール」や「選手の機能分化」もその現れである。現代スポーツが、「商業主義的なルール改正」の嵐にさらされている今日、「未来社会を担う」若者が、スポーツや文化の担い手として育ってくれることを願う者として、教育活動の携わる者として、この視点は堅持したいものである。
6.唐木氏の「2:0」理論の検討@
唐木氏は、『「2対0」がゲームに生きないのは、実践者の経験不足というより、この理論構成に問題があり、ゲームと練習のあいだに一種の断裂があるのではないか・・・・』(p21)と指摘している。そこで、唐木氏が、叢書の「基礎技術論」をどのように捉えているのかを確認したい。
1、運動文化の特質と技術構造の解明(客体の条件)
@「2対0」の統合原理は、「子どもの発達・認識の重視」?
『荒木氏らは、従来の指導書が「基礎技術」という概念をあいまいに用いていることを批判する。すなわち、「ゲーム−応用技術−基礎技術」に分類して、個別的な身体操作、ボール操作を「基礎技術」としているが、これは「要素主義」であるという。・・・・バスケットボールの特質をなす基礎「単位」は、「2人のコンビネーションによるパス、シュート」であるとする。この基礎「単位」あるいは「基礎技術」は「最初に練習し、最後まで質的に発展していく内容をもった技術」であるとされる。これが「2対0」である。』
『・・・・・この「要素主義」が悪いのではなく、一旦分解した各要素を統合する方法に問題があったのである。』
『「2対0」理論における「要素」の統合原理は、子どもの発達・認識を重視しようとするところにある。つまりパス、シュートを攻撃の「コンビネーション」にまとめて理解させようとする。』『これにたいし、吉井四郎氏は「防御を破って→ついて→シュート」というように、攻防の対応関係を統合の「単位」として考えている。歴史的に発達してきたバスケットボールのなかに「生きた単位」をもとめようとするなら、吉井氏の考えも無視するわけにはいかないだろう。』これが、唐木氏の捉え方である。
たしかに、叢書「バスケットボールの指導」には、「中間項」時代の「基礎技術と試合とを結んでいた今までの系統の中に、子どもの喜びを十分満たす・・・」(体育グループ11号瀬畑四郎)といった考え方が生き続けている。しかし、叢書「バスケットボールの指導」の「基礎技術」における「要素」の統合原理自体は、唐木氏が指摘するような「子どもの発達・認識の重視」ではなく、バスケットボールにおける「ボール操作や身体操作技能(要素)」をバスケットボールという球技の最終目的である「シュート」を中心に統合したものであると、私は読み取っている。これは、特質論から導き出されたものである。
たしかに「基礎技術」を「2人のコンビネーションによるパス−シュート」としながらも、あえて防御を省いた(「2対0」とした)ことについては、児童や初心者の情報処理能力を考慮したものではある。しかし、それ以上に、バスケットボールのシュートは、サッカーなど他の球技のシュートと比べものにならないほど難しいにもかかわらず、一般の授業では、シュート練習が不足している現状から、コンビネーション練習においても必ずシュートまで到達させることを優先させた結果といえるのである。
唐木氏は、あたかも、叢書の「技術指導の系統」では、「攻防の対応関係」を軽視しているように述べているが、叢書「バスケットボールの指導」(p31)には、「防御がついた最初の段階においても、2対0〜4対0で練習したように、攻撃練習によるパス→シュートを重視し、攻撃技術の向上に対応して、次第に防御のコンビネーション練習も強化していくように練習するのがこの系統の特徴である。」と述べていることも示しておく。しかし、ここに叢書の大きな弱点があるのことを指摘せざるを得ない。
叢書の「2対0」から「3対0」「4対0」へと学習をすすめるパターン練習は、当然、防御のセオリー通りな動きを前提に考え出されたものである。初心者がパター練習を学ぶ際も、防御の動きをわからなければ、パターンの意味を飲み込めないはずであり、学校現場では、これは教師による「教え込み」で補われてきたと考えざるを得ないのである。
防御の動きを教師が補足する?これでは、球技経験者の少ない小学校現場では、どのような実践がなされたかは想像できるであろう。
A 叢書の「3人の攻め」は「2対0」の組み合わせが「3つ」できるだけ?
また、唐木氏は、『「2対0」は「最後まで質的に発展していく」であろうか。』と、疑問を投げかけ、次のように批判する。
『「2対0」理論では、3人攻撃、4人攻撃の場合にも、「2人ずつの組み合わせ」がそれぞれ3個、6個と増えていくものとしている。・・・・しかし、バスケットボールの技術構造が本来的に「2対0」の積み重ね、量的拡大であるとはいえない。攻撃の人数が増えるにしたがって、その人数でなくてはできない攻撃の可能性があるはずである。・・・・防御はこうした質的にちがう攻撃に対応するからこそ、独自の防御技術体系を完成させていくのである。』と。
唐木氏の指摘が的を射ていないことは、叢書「バスケットボールの指導」(p22)を引用すればよくわかると思う。
『・・・2人のコンビネーション形成に必要な、2人の間の予測・判断を伴う練習を、きわめて重視しているのである。・・・・「フットワーク」や「ボールキープ能力」を保持していたとしても、その能力を「いつ」「どのようにして」発揮するかは、2人の間の予測・判断やプレー(ゲーム)の読みが一致しなければ、その能力を発揮することはできないし、コンビネーションを形成することはできない。』・・・・『・・2人のコンビネーションを基礎技術として、それを3人、4人と発展させることによって、予測・判断を含んだコンビネーションの質的向上をねらっているのであり、系統そのものが、前段階と次の段階とでは、相互に高め合っていくという弁証法的関係が成立することになり、コンビネーションの相互作用を軸にしている・・・・』と、質的な発展を明示している。
7.唐木氏の「2:0」理論の検討A
前回につづいて、唐木氏が叢書の「基礎技術」=「技術構造」をどのように捉えているかについて確認したい。
1、運動文化の特質と技術構造の解明(客体の条件)2
B「2:0」理論は「攻防関係を固定化」している!
唐木氏は、「2:0」理論の問題点として、三つ目に次のように述べている。『第三に、「2:0」理論は、攻防関係を固定化してしまいはしないかということである。実際のゲームにおいては攻撃が失敗すると、直ちに防御に移らなければならない。つまり、攻撃は防御を含んでの攻撃である。・・・・・・』
『攻撃技術がパスとシュートをする必然性によって成立するとすれば、防御技術はパスされ、シュートされる必然性がなければならない。具体的な攻防関係をともなわない「2:0」は、こうした必然性を切り放すことによって、帰って技術構造を複雑にしている・・・・。』
前回、わたしは唐木氏の二つの指摘(@叢書の要素の統合原理、A「2:0」の質的発展性)については、叢書本文を引用してそれを否定した。その引用のなかに「・・2人のコンビネーションを基礎技術として、それを3人、4人と発展させることによって、予測・判断を含んだコンビネーションの質的向上をねらっているのであり、系統そのものが、前段階と次の段階とでは、相互に高め合っていくという弁証法的関係が成立することになり、コンビネーションの相互作用を軸にしている・・・・」という文言があった。この「弁証法」的関係という言葉の意味を確認する必要があるようである。
(ァ) 弁証法(べんしょうほう) とは?
弁証法とは、物の存在の仕方の捉え方の一種で、物質を固定的で変化しないものと捉える考え方(=形而上学)に対して、「物質は、すべて運動しており、変化、発展している。」という見方、考え方のことをいう。ここでいう、物質とは、物理学や化学でいう物質とちがって、人間の意識のそとに客観的に存在し、わたしたちの感覚によってとらえることのできるすべてのもののこと。
(ィ) 唯物論的(ゆいぶつろんてき)弁証法の見方、考え方
・対立物の統一と闘争の法則= ニュートンは力学、光学の理論をうちたてが、天体の運動の最初の原動力は神があたえたと考えた。しかし、唯物論的弁証法は、「事物内には、必ず対立する性質があり、その一方の存在なくしては、もう一方の存在もあり得ないような関係(=対立物の統一)で、その対立した性質による両者の闘争が、運動(=発展)の原動力である。」と、捉える。
この法則を球技の技術構造の発展を例にとると、「攻撃技術と防御技術は相反する性質であり敵対的関係にあるが、攻撃技術も防御技術も単独では存在しえない。また、攻・防技術のせめぎ合いによって、その球技の技術が発展してきたし、今後も発展する。」と、考えることができる。
・量的変化から質的変化の発展の法則=物質内の運動が量的な増加をくり返しし、一定量を超えると物質の質的な変が起こることをいう。水の分子運動が激しさをまし、液体から気体に質的変化をおこすのもこの一例である。
・否定の否定の法則=事物の発展は、古いものの消滅、完全な否定からではなく、古いもののなかの積極的な意味をもつ新しい側面が成長し、古いものと置きかわるかたちですすめられる。と、いうこと。螺旋状の発展ともいう。初心者の防御ラインは、横一線をとることが多いが、攻めに対応するために縦の関係へと変化する。しかし、学習者の認識や戦術が高度化し、オフサイドトラップが戦術化しはじめると、再び防御ラインは横一線となる。これは、螺旋状の発展の一例である。
(ウ)「階層システム」作成上の観点=弁証法的発展
1999年の舞子ビラ大会サッカー分科会研究報告において、わたしは、『「試案」作成にあたっては、・・・・「技術の系統」と「学習者の技術認識の発達」を統一したものを学習者の「学習課題」と位置づけたい。・・・・「学習者の技術認識」・・・・を包括的に把握する手段として、「学習中における試合」の「様相分析」より学習課題を引き出したい。・・・・「試合の様相」の発展過程は、学習者の技術認識の発達と深く関わっているが、それを「攻・防技術の相関関係」のなかで捉えたい。・・・・』と記した。弁証法の法則をよりどころにしたのである。
(エ)「2:0」理論の実践には困難さが
叢書は、「弁証法的関係」=「攻・防技術の相関関係」を念頭におきつつ、あえて防御を省いたのである。
また、叢書「サッカーの指導」、4章「授業の展開例」T「小学校3年生の授業の展開」の第10時の〔ねらい〕:〔ゲームにおける攻防の展開についての練習〕で、次のように述べている。「守りの人が前に出たら、だれかがさがる。相手にボールをとられたらすぐ守りにつくが、1人はハーフライン位の位置まで下がればよい。ボールを持っているプレーヤーの近くに必ず1人はいること。そして、1人だけで相手をぬこうとしないで、2人のコンビネーションで相手の防御をぬくことを考える。」と。唐木氏がいう「攻撃は防御を含んでの攻撃」をも、念頭においているのである。
しかし、「2:0」はゴール前を切り取った学習であり、その後、第10時目で、ボール保持者へのサポート(「ボールを持っているプレーヤーの近くに必ず1人はいること」)を学習課題としてあげても、学習者は理解できなかったであろう。「攻防の切り替え」技術は、ゲームづくり上欠かせないものであり、また、ゴール前を切り取った「コンビネーション学習」のみの系統では、学べないものである。
8.唐木氏の「2:0」理論の検討B
今回は、唐木氏が叢書の「2:0」と球技を学ぶ「子どもの発達・認識(主体)」との関係をどう捉えているのかをみながら、氏の考えを探りたい。
2、子どもの認識・発達(主体)と「基礎技術」
@ 生活歴のある子どもを押しなべて「初心者」とするな
唐木氏の論述は下記の通りである。『・・・・「子どもたちの事実」を知っておくことは、バスケットボールを教材化して、具体的な到達目標を設定するために欠かせない。「2:0」理論では、そうした子どもの側の受け入れ条件として、予測判断とタイミング、記憶、情報処理能力などをとりあげて説明している。』『すなわち、・・・・』子どもは『空間における物体の飛翔方向やスピードに合わせて身体操作する準備ができていないとする。・・・・さらにまた、視覚に訴える情報としては鋭く動く人や物のほうが反応しやすいという。』『これらの知見は、「2:0」がなぜ防御を欠いているかという理由づけのために動員されていると考えられる。子どもの「空間感覚」を育て、「外乱」を排除した情報を与えるためには、防御がいては不都合であり、味方同士の関係が見えなくなるというわけである。』『・・・・しかし、私たちはそこを出発点としつつも、学習者を変えていかねばならない。そのさい、「初心者」とは何かということを再検討する必要があると思われる。』と、次の二点を指摘する。
『第一に、「初心者」はすべてこうした条件をもっているのか・・・・。仮に小中高大学に発達段階を分けてみた場合、さきの知見がどの段階にもあてはまるとは限らない。・・・・生活歴のある子どもを押しなべて「初心者」とするのではなく、いくつか段階づけをする必要があろう。@』(下線、○付き数字は引用者)
『第二に、「初心者」の運動能力の現状はある程度わかるとして、その現状を引き上げる方法と方向を知りたい。・・・・「2:0」は現水準にさしあたり適合した様式であるとしてもA、次に「外乱」をあたえて、もっと多様な「空間感覚」を育てる手順を用意しておかねばならない。そうでないと、・・・・いつまでも最初の段階を抜け出せない恐れがでてくる。』と。(下線、○付き数字は引用者)
そして、唐木氏は、この章の終わりに『しかし、ここで確認しておきたいのは、バスケットボールの客観的な技術構造は、「初心者」の生理と心理にかかわりなく存在してきたし、現に存在しているということである。B』(下線、○付き数字は引用者)と、述べるに至っている。
唐木氏の下線部@の主張であるが、「初心者」指導を考えるときは、対象を小学生におくのが一般的というより、小学生におくべきであると私は考える。
「じゃまじゃまサッカー」においては、「基礎技術学習」以前にプレ学習段階(低学年)を設定している。サッカがー未習の高学年を指導の対象とするときも、「初心者」として年齢や生活歴に関係なく学ばなければならない学習内容と、省略できる内容とを区別し、年齢等に整合した授業計画を立てるようにしている。具体的には、全員ドリブルの第一段階、基礎技術バージョンの第三段階は必修教材と考えている。(余談になるが、バスケット分科会では、小学校高学年を「初心者」として教育課程を設定し、巧緻性の著しい「低・中」学年期をシュートボール・ラグハンド教材に譲っているが、シュート力や「ボール操作・身体操作」力の未熟さが、技術学習の弊害になっていないのだろうか?)
唐木氏は、下線部Aのように『
「2:0」は現水準にさしあたり適合した様式である 』と、考えているのである。技術構造上において、防御の必要性を説いておきながら。氏の研究対象が小学生ではなく、「年齢や生活歴」のある高校生・大学生を対象にしているが故の考えである。少なくとも小学生の「初心者」は、「見えない敵(防御の動き)」を認識できないのである。防御によってできる「死角(=パスの通りにくい場所)」や、防御との駆け引きで「生まれたり消えたりする最重要空間」を認識するには、防御の存在が必要なのである。「初心者」の認知順は、@ボールであり、A自分の行為を邪魔する相手(敵=防御)である。その時期にはボール操作や「1:1」の駆け引きを体験させることが大切なのである。防御との駆け引きを体験した者は、パス出しの練習においてもパスコースに走り出すときも、防御を念頭において動こうとするようになるのである。 防御の動きを確認したり、重要空間内でシュートチャンス創造をめぐる攻防学習の際には防御を入れた「2:1」「2:2」が必要であろうし、また、味方内の意思疎通や初歩的な「パス・走り込み・トラップ・シュート」に絞った学習が課題のときは防御を省いた「2:0」が適しているのである。
唐木氏の主張下線部B、バスケットボールの客観的な技術構造は
、「初心者」の生理と心理にかかわりなく存在してきたし、現に存在しているということである。 という主張は、運動文化の発展史を否定したものであり、前回述べた弁証法に対峙した「形而上学」的立場そのものである。
唐木氏と同じく、昨年冬大会においても、「基礎技術」を規定する際には、学習者の認識や身体的発達を切り離して、技術構造のみから導き出そうとする立場からの発言もかなりあったように思う。「サッカー指導の階層システム」は、「技術構造」と「学習者の身体的発達・認識の発達」の統一をめざして作成されたものである。
9. 唐木國彦氏の「攻防関係を中核にとする指導法」
唐木氏による叢書「2:0」批判を四回にわたってみてきた。唐木氏の指摘に批判を加えてきたが、一方で、叢書の問題点も浮き彫りにされてきた。それは、総論としては、防御との駆け引きや攻防技術の相関関係を述べてはいるが、具体的指導においては、それはわかりにくく、読者(実践者)が「形式的」な「2:0」指導にならざるを得ないものであり、『「2:0」がゲームに生きない』要因と考えられるのである。
次に、唐木氏の技術論、指導論とその功績を確かめたい。
1、バスケットボール・ゲームの技術構造
@ 空間の概念
「・・・・攻撃側からいえば、ゴールを基点として、ボールがとどく地域ととどかない地域がある。とどく地域でもシュートが入りやすい地域と入りにくい地域がる。これは、防御の側からいえば、強く防御しなければならない地域とそうでない地域があるということである。」
「・・・・この地域区分・・・・どこに線が引かれるかは攻撃側のシュート能力によって変わってくる。・・・・またシュートの習熟によっても変わってくる。そこで、こうした変動はあるものとして、真横からのシュートは入りにくいことと、三秒ルールがあることなどを考慮して、一応の目安を図T、図Uのごとくフリースローレーンの内外に二つの空間を分けてみることにした。」
『・・・・空間の概念を導入してバスケットボールの技術を考えてみると、バスケットボールは、「シュート可能な空間にノーマークを作り、そこに防御を破ってボールを運びこみ、得点する」ことを目的とするゲームであり、空間をめぐる攻防関係が技術の中核になるということができる。』・・・・。
・・・・『ところで、私たちはこれまで「空間」という言葉を二重の意味で用いてきた。一つは、シュートが入りやすいかどうかで区分したフリースローレーン内外の空間である。@これは「場」にあたる物理的な空間である。二つは、その「場」のなかで競技者が意図的に創造する空間である。シュートをするためのノーマーク空間といってもよいかも知れない。この空間は時間と状況によって「場」のなかを時々刻々と移動し、現れたり消えたりする空間である。競技者が「防御を破って→ついて→シュート」するための標的になる空間Aといってよい。』(下線、○付き数字は引用者)
また、『この標的空間を学校体育研究同志会のいくつかの実践研究では「最重要空間」と呼んできた。』とも述べている。 そして、この「最重要空間」が出現するために必要な条件を「表1」のように「道具」「場」「人間関係」に分けて示している。 つまり、「図1」「図2」で示した領域Bが「重要空間=ゴールに近く、シュートが入れられる空間」であり、領域Bにおいて、ボールを捕球でき、保持できて、防御がいない(=シュートが打てる)瞬間を「最重要空間」と呼び、「二人のコンビネーション」で作り出す標的を具体的に示したのである。 そして、同志会内において伊藤氏らが「時空間論」を唱えた時期でもあり、まるで「時空間論の球技版」のように位置づけられるのである。
2、教材の配列
唐木氏は、『バスケットボールの技術は、「最重要空間」をめぐる攻防関係を中核にしているから、教材の配列の原則は、攻防関係を単純から複雑へと連続的に系列化することになる。』として、「教材の系統」「図3」を示す。
3、研究の対象の相違?
「教材の系統」を示した「図3」では、「2人」のコンビネーションにおいても「3人」、「4人」、「5人」のコンビネーション学習においても、最初は防御「0」から始めている。この点は現在のバスケットの実践においても「0」から始めていることが多いようである。
サッカー分科会では、コンビネーション学習においては、高校教員であった宮川氏が分科会責任者を務めていた頃から、先ず防御の動きを知るために防御を入れた(当時は「2:1+1キーパー」)学習から始め、習熟練習の過程で防御を「0」にしたコンビネーション学習を入れるというのが、一般的であった。「試しのゲーム」で、防御の動きを「イメージ」できるというのなら、唐木氏の研究対象が高校・大学であり、また、バスケット実践の対象も中学校が多いことと関係あるのかもしれない。
しかし、今、大阪支部球技プロジェクトでは、「1:1」の段階から、コンビネーション学習への「プレ学習」の段階から、防御との駆け引きを「ゲーム感覚」で体験することが大切と考えている。
10.「じゃまじゃまサッカー1段階」から見えてきたもの
1、研究の対象の相違?
前回の最後に、防御「0」の状態で初心者が「防御の動きを想定できる」ことに、一定の疑問を付した。
確かに中学生は、小学生に比べれば、抽象的な思考が発達している。今までの経験を彼らなりに帰納的に分析・総合し、また、経験豊富な者からの演繹的アドバイスもなされるであろう。
しかし、その反面、スポーツ(特に球技)への「劣等意識」から学習意欲をなくした生徒が必ずいるのも中学体育である(同志会員のいる小学校卒業なら別だが)。彼らは、スポーツにおける豊富な経験を積む場が少なかった上に、多くはそんな場を避けてきたはずである。
「2:0」のパターンの意味を同級生から説明されても、その理解度は小学校高学年児童よりも劣る者もいると、いっても過言ではあるまい。
2、サッカー分科会の研究姿勢
「子どもが好きであろうと嫌いであろうと一方的な教師の計画」(瀬畑四郎体育グループ11号)による指導から、「子どもの喜びを十分満たすことができ、しかもスポーツ文化を短時間に合理的に獲得できる」(同)指導への転換が、研究の精神であった。
この精神は、70年代に作成された叢書にも十分反映されていることは、これまで述べてきた。
同志会はその後もその姿勢は堅持してきたと、私は理解している。
80年代後半から90年代にかけても、子どもの認識面を重視してきた。
サッカー分科会では、全国の研究課題に呼応して、「ゲーム様相の発達」を拠り所に、学習課題を導き出す「系統をかくした指導」「掴み取らせる指導」に取り組んできた。「サッカーの教育課程(試案)階層表」は、その過程で作成されたものであり、80時間に及ぶ山本実践はその実践であった。
3、「プレ学習」の必要性 ← 児童の実態から
@ 初心者のゲーム様相は「密集」
初心者に攻防入り乱れる球技をさせると、(ア)必ず密集が形成される。(イ)密集に入れない児童が必ずいる(学年が上がると、格好悪さを隠そうと「やる気がない」ポーズをとる)。(ウ)意図的に密集から離れ、こぼれ球を待ち受けドリブルシュートする者が現れる。
(イ)密集に入れない児童の原因としては、a転がってくるボールの進路を予想できない。bボール操作、身体操作に自信がない。ボールがこわい。c他人と身体が触れることが嫌又は怖い。などが考えられる。また、(ア)必ず密集が形成されることについては、aボールの操作方法を知らない。又は未熟である。b周りを見る余裕がない。c誰もいない場所などがあることを知らないなど、空間を認知する観点がない。(以上は舩冨の捉え方)
当時(90年代)、サッカー分科会では、「密集をくぐらせる」ことを重視し、「基礎技術学習以前の学習=プレ学習が必要との認識をもっていた。そこから生まれたのが「じゃまじゃまサッカー」バージョンT(全員ボール保持によるドリブル突破)なのである。密集を直接くぐらせてはいないので、「じゃまじゃまサッカー」後でもオールコートのゲームを行うと密集は生まれるのだが、その原因を「じゃまじゃまサッカー」で克服しているので短時間に自力で乗り越えることができるのである。
4、「じゃまじゃまサッカー」1段階から見えてきたこと
「じゃまじゃまサッカー」の全員ボールバージョンを始めると、クラス、班によって多少のちがいはあるのだが、共通しているのは、ボール保持者がゲームの主人公になっていることである。今まで疎外観をいやというほど味わってきた児童ほど、喜び、楽しさをからで表現するのである。
また、守備では、ボール保持者の正面に立つことを覚えると、身体操作はボール保持者よりも楽なので、相手ボールのクリアーに成功して歓声をあげるのである。
しかし、「じゃまじゃまサッカー」1段階の実践でわかったことは、「
子どもたちは、認識力においてもボール操作能力においても個人差はあるのに、
それぞれの認識力や操作能力に応じて、常に、防御抜くために、防御と駆け引き(「1:1」)をしている。」ことである。そして、@防御を抜くときは斜めに強めに蹴ると、防御を抜けてボールもラインを割らない。A未熟な子にシュートさせるために、残り二人が防御を両端に引き寄せて、まん中をドリブル突破させる。など
、駆け引きをくり返しながら、空間認識をも育てるのである。
この「1:1」の駆け引きは、技術の向上とともに質的にも高まるもので、味方間のコンビネーションづくりにおいて、パスを出す場面においても、パスコースに走り込む者がトラップをするときもシュートを放つときも、常に防御との駆け引のなかで行われるものである。
11.固有のルールを省いた球技指導
これまで、「二人のコンビネーションによるパス・シュート」(基礎技術)には、防御の存在が前提となっていること。そして、初心者は、ボールやゴールの次に防御の存在を認知し(ゴールより先に防御の存在を感じる児童もいる)、それとの「駆け引き」を通して空間認識を学ぶこと。また、防御との「駆け引き」の質も、技術認識(時空間認識を含む)の高度化とともに高まるものであることを述べてきた。
この意味では、球技の基礎技術を「防御との駆け引きを含む二人のコンビネーションによるパス・シュート」と、言ってもよいのではないか?
1.防御技術
@ 固有のルールを省いた球技指導
球技といってもそれぞれの球技には固有のルールがあり、固有のルールによって攻防技術もかなり異なってくるものである。
しかし、初心者に球技を指導するとき、われわれ教師は、その固有のルールを省いた教材を初心者に与えてきた。とくにサッカーの「オフサイド」ルールは、高校の体育授業でさえ、教えない教師があったほどである。
理由の一つは、ルール理解が難解で、初心者がゲーム中に何人もの敵味方の位置を認知しずらいと、考えたからであろう。二つ目に、このルールを省く方が一般的な技術学習に適していると考えてきたのではないかと思えるのである。今回は、この点について述べてみたい。
A 一般的な防御ポジション
図1の黒チームの配置は、一般的な防御のポジションである。●1は、ボール保持者の進路(ゴール)に立ち、防御Aは、●1をホローしながら○2の動きをマークしている。 ここで、問題なのが三人目の防御Bの位置である。BはAの真横(b)の位置に立たないのが一般的な防御の定石である。防御ラインが横一線に並ぶと、一度のパスで二人が抜かれることになるからである。Bは、Aより後方にいて、Aが相手に抜かれたときに対応するのである。
2.オフサイドに対応した戦術
ところが、サッカーのT.V.中継を見ていると、防御の最終ラインが横一線に並んでいて、ゴールキーパーとの間が大きくあいている場面をよく目にする。
一流選手が球技の定石を間違えているわけではなく、これはサッカー固有の防御システムなのであり、オフサイドルールが攻防戦術に影響を与えているのである。
@ オフサイドルール
サッカーにおけるオフサイドは、ラグビーのように完全なもの(ボールより相手ゴール側の位置にいる者のプレー禁止)ではなく、「○ア相手陣内において、○イボールより前(相手ゴールより)にいて、○ウゴールと攻撃者(本人)の間に防御が2人以上いない位置にいる者は攻撃に参加してはならない。」と、いうものである。
図2の○2は、ゴールと本人の間にはゴールキーパー1人しかいない状態である。このようなポジションにいる状態を「オフサイドポジション」といい、○1からオフサイドポジションの者へパスが出され、○2が攻撃に参加すると、「オフサイド」となり、相手側にフリーキックが与えられる。
A 一般的な防御の定石では
しかし、図3のように、防御●3が一般的な定石的なポジションどりをすると、○2へのパスがオフサイドにならず、シュートチャンスとなる。防御の一般的なポジションどりが、オフサイドという攻撃側にとって不利なルールを防御側が活用できずにピンチを招くことになるのである。近年流行っている「フットサル」には、オフサイドルールがない。子どもたちが学校体育で学ぶミニサッカーもオフサイドを省いている。これらは、技術的には「手を使わないハンドボール」に近いゲームと言えるのである。 また、オフサイドをわかりやすく学べる教材があれば、ルールと技術の相関関係を学ぶ教材として、オフサドは最適である。
12.オフサイド周辺の攻防
前回「サッカーのTV中継を見ていると、@防御の最終ラインが横一線に並んでいて、Aゴールキーパーとの間が大きくあいている場面をよく目にする。」と、指摘した。 この@の点についてはオフサイドというイギリス型球技固有のルールによるところが大きいことを述べたが、今回は、このオフサイドにルールによってうまれる、サッカー特有の攻防間の駆け引きについて少し触れてみたい。また、Aの点は、バスケットボールにはない、中盤の攻防と深く関わっているので、この点については数回か後に扱うことにする。
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1.横一線の防御の危険性
前回、「図2」において、●2、●3の位置取りが、○1から○2へのスルーパスを防いでいると述べたが、図4ではどうであろうか。
「図4」は、○2が防御の最終ライン(●2、●3のライン)より手前からゴール前にスタートして、防御の最終ラインを超える前に、○1からスルーパスが出されたところである。○2、はオフサイドポジションではない状態でスルーパスが出されたのである。そして、加速した○2は、防御の2人より素早く斜線部分でスルーパスを受けることができる。
防御ラインを横一線に並べることは、オフサイドというルールを活用した防御戦術ではあるが、そのポジションどりは、前回述べたように、本来の「防御の定石」を破ったものであるため、危険性と背中合わせなのである。横一線のポジションどりは、「図5」のように、ドリブル突破にも弱いのである。
2.攻防の駆け引きオフサイドトラップ
@ オフサイドトラップ
「図4」のような攻めのスルーパスに対して、防御は、「図6」のように、○1がパスを出す直前に防御の最終ラインの2人(図では2人)が同時に前に移動し、○2をオフサイドポジションにおくように仕組むことで対抗するのである。
この図では、防御2人の意志疎通であるが、実際のゲームではバックは3〜4人いるので、高度な技と言える。このような行為を意図的に仕組むことを「オフサイドトラップ」という。
A オフサイドトラップを確実なものに
「図6」で、二人が、オフサイドトラップのために位置を上げるタイミングを誤り(遅れ)、オフサイドが成立しなければ、スルーパスが通ったことになり、キーパーとボール保持者○2の「1対1」になるのである。防御として、より安全にオフサイドトラップをかけるためには、○1からのパス出しのタイミングをコントロールする必要があり、それを担うのは中盤の位置にいる●1なのである。「図6」の●1の位置取りではなく、「B」の位置で○1をマークすることで、攻めのタイミングを遅らせるのである。
B オフサイドの判定はレフェリー
オフサイドトラップが成功し、○1からオフサイドポジションの○2にパスが出されても、レフェリーの判定が出るまでは、防御の仕事は終わっていないのである。○1のパス出し後は、「図7」のように●2は○2のマークに移動し、●3は●2のカバーの位置に入るのである。
C ○2がオフサイドポジションなら
○1は、パス出しの時点で○2がオフサイドポジションなら、○3にパスするか、バックパスをして攻め直すのである。
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13.オフサイドをめぐる攻防の疑似体験教材@
支部ニュース3月号の「固有のルールを省いた球技指導」の冒頭において、『・・・・球技の基礎技術を「防御との駆け引きを含む二人のコンビネーションによるパス・シュート」と、言ってよいのではないか?』と述べ、また、その末尾で「オフサイドをわかりやすく学べる教材があれば、ルールと技術の相関関係を学ぶ教材として、オフサイドは最適である。」とも述べた。そして、次号(四月or五月)の「オフサイド周辺の攻防」で、中村敏雄氏が「虚々実々のプレー」と評したオフサイドをめぐる「攻防のかけひき」の一端を示した。そして、これを小学校高学年の児童から中学校の生徒を対象とした教材として開発したのが「じゃまじゃまサッカーオフサイドバージョン」である。
1.何故、小学校高学年からオフサイドを学ぶのか
運動文化を子どもたちに伝え、子どもたちがこれらを発展させてくれることを願うとき、個々の子どもたちが将来親しむスポーツが何であろうとも、イギリス生まれのスポーツの特色とも言える「オフサイド」、また、『アメリカ的合理主義とは相容れなかった「オフサイド」の精神とルールや技術』を、全ての子どもたちに伝えなければならない。これが、サッカー分科会に長年身を置き、自分なりの方法で「教科内容研究」に取り組んできた私なりの「思い」である。そして、その学習をあえて「小学校高学年から」と、するのには次のような理由からである。
@ 男女共習の体育は小学校高学年が最後
大半の中学校においては、体育科の学習は男女別習となっているのが現状である。そして、中学校の女子体育の球技としては、バスケットボールやバレーボールが定番で、サッカー学習が組み込まれることは皆無に等しい。小学校までにイギリス型の球技を学習しなければ、女子においては、学校教育の場では学ぶことができないのである。
A 技術レベルを除けば、児童の発達年齢としては学習可能!
次に、小学校6年生の児童の発達年齢が、「オフサイド」周辺の駆け引きを理解することができるかという問題である。2000年の同志会北海道大会サッカー分科会研究報告「小学校におけるサッカー教材の教育課程」(舩冨試案)のなかで、子どもの発達について次のように記している。
中学年期の児童の発達:『・・・具体的な事実に基づきながら、あらかじめ予想をたてて、物事にとりかかれる(計画・仮説)。また、結果から言葉を思考手段として、一般化・抽象化できるようになる。(「分析・総合」的把握が可能になってくる。・・・』
高学年の児童の発達:『現実の事象から帰納して法則性を導き出せる。また仮説演繹的推理が出来始める。・・・・』
発達に見合った学習を保障すると、児童は、中学年(9才の節)ぐらいから分析力がつきだし、高学年では、分析・総合ができるようになり、演繹的思考(法則から次のことを予測する)の入り口にさしかかる時期なのである。
児童のこのよな認識力の発達は、「オフサイド」学習を仕組むことが可能な年齢であることを示している。
試案は、「文化的側面の学習課題」の層で、『小学校高学年は文化的側面の学習の導入期:サッカーはラグビーとともに、イギリス型スポーツの代表格であるが、子どもたちが、これを文化としてトータルに把握するためには、いくつかの絞り込んだ視点で、アメリア型スポーツ(例えばバスケットボール)との間で、比較検討を加えることが最も良い方法ではないか。〔比較検討する視点例:@スポーツの歴史的成立過程、Aルール、B戦術及び戦術史〕』と、指摘している。
2.「小6」には、「オフサイド」ルールを使いこなせる技術力はない。
「小6」どころか高校生であっても、学校の正規の授業では、「オフサイド」を全員の学習課題にはできないであろう。野球やアメフトのように、ゲームは常に静止し、ピッチャー(クォーターバックのスナップバック)の投球モーションからゲームを始めるような球技ではまだしも、サッカーは連続するゲームである。「オフサイド」は、ボールを「手」以外の身体の部位で扱うこととともに、サッカーにおける「サッカーらしさ」(=特質)の中核をなすものでありながら、「学校体育のサッカー」学習で省かれてきたのも、技術的困難さからである。しかし、球技の「教育(科?)内容」として、「オフサイド」が欠かせないものなら、そのための教材開発に取り組むのが「同志会流」であると思うのである。
3.何が困難なのか?
@ ボール保持者は、絶えず防御からのプレッシャーを受けながらプレーしており、スルーパスを出す方向やタイミングをじっくり計れない。
A スルーパスを受ける場所がわからない。
B 防御は絶えず動くため、オフサイドラインも常に移動しているので、自分(スルーパスを受ける者)が、オフサイドポジションにいることがわからない。
C 防御しながら、今自分が「オフサイドライン」をつくっていることがわからない。
D 防御数人が、横一線に並ぶのか、縦の関係に位置するのか判断できない。
学習をすすめると、解決しなければならない点がこれ以上に出てくるのだが、次回は、教材づくりの様子を紹介することにする。
14.オフサイドをめぐる攻防の疑似体験教材A
『「オフサイドめぐる攻防の駆け引き」の疑似体験教材』の部分で年度をまたいでしまった。 少し振り返ってみたい。サッカー(やラグビー)に代表されるイギリス型球技の特徴は、「オフサイド」という「固有のルール」の存在であり、そして、それによって「固有」の技術や戦術が発達してきた。この球技の面白さもここにあると言って過言ではあるまい。 全ての児童生徒に「オフサイド」学習を保障するためには、現状では小学校高学年が最後の機会であること。しかし、「オフサイド」学習を仕組むことは大変難しいため、今まで、「オフサイド」を省いたサッカーの授業が一般的であった。
4.オフサイド学習が「困難」な理由の検討
@ ボール保持者は、絶えず防御からのプレッシャーを受けながらプレーしており、スルーパスを出す方向やタイミングをじっくり計れない。
コート内に敵・味方が入り乱れているサッカーでは、ボール保持者は、相手チームからのプレッシャーを受けているのが普段の状態である。得点につながる有効なパスを出そうと試みる攻めと、それを阻止しようとする防御。このような駆け引きは、ボールの周りにいる選手だけなく、ピッチに立っている全ての選手間で行われている。その駆け引きが「攻防入り乱れ型」の球技の楽しさと言ってよいだろう。
しかし、今、われわれの課題は、様々な「駆け引き」のなかで「オフサイド」に関わった「駆け引き」に絞った学習を小6の児童に体験させることである。
そこで、ボール保持者への「プレッシャー」をやわらげる手段として、「じゃまじゃまサッカー」の「じゃまゾーン」を利用しようと考えたのである。
Aスルーパスを受ける場所がわからない。
これは、従来から言われてきた「基礎技術」(二人のコンビネーションによるパス・シュート)の初歩的なものである。パス出しのタイミング、コース、パスの強さや形状。走り込む場所、いつ走り込むか、そのコースどりなど゙・・・・。
「オフサイド」をめぐる攻防の駆け引きを体験するためには、「二人のコンビネーションパスからシュート」の技術は、ある程度習得しておくことが必要である。それ故、中学年において「じゃまじゃまサッカー基礎技術バージョン」の学習経験が必要である。未経験であれば、高学年であったも、事前にこれを学ぶ機会を設定しなければならない。
B 防御は絶えず動くため、オフサイドラインも常に移動しているので、自分(スルーパスを受ける者)が、オフサイドポジションにいることがわからない。
C 防御しながら、今自分が「オフサイドライン」をつくっていることがわからない。
闇雲にゲームを繰り返しても、「オフサイドポジション」の認知は難しいかもしれない。これをもう少し整理してみよう。
難しい中身は
@ 相手コート内において、防御2人(通常はキーパーと防御の最終ライン)よ りゴール側に入り込んだ攻めが、自分へのパスに反応したとき、「オフサイド」 を宣告される。・・・・ルール上の難しさ。
A「防御の動きと共に変化するオフサイドライン」の認知が困難。
○ 同時に2つのことを学ぶのは困難。「@」だけに絞った練習を行う。
「じゃまじゃまサッカー」の「じゃまゾーン」と「シュートゾーン」の境界線を「固定したオフサイドライン」に見立てて、スルーパスを受ける者は、「じゃまゾーン内にいて、味方がパスを出した後にシュートゾーンに入り、パスを受けシュートする」練習をするのである。
このとき、線審の練習も同時にするのである。「ゾーンの境界線の位置」にいて、パスを受ける者が味方のパス出し後にシュートゾーンに入ったか、出す前に入ったかを判定する練習を繰り返す。

○「A」のルールでの学習に入る。
このときは、じゃまゾーンとシュートゾーンの境界線はなく、防御もシュートゾーンに入ることができる。
「線審の立つ場所がオフサイドラインを認知させる」
線審の立つ位置は、常にオフサイドライン上である。つまり、オフサイドラインはキーパーより1人前の防御(防御の最終ライン)と同じ位置に立てばよい。
防御の最終ラインと同じ位置にいて、防御の最終ライン(防御)が移動すれば、線審も移動する。最終ラインが入れかわったら、かわった防御の位置に立つのである。図2はオフサイドポジションである。 線審を経験すると、オフサイドラインが認知できるようになってくる。(次号に続く)